音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ブラームスの恋の歌

2023-05-11 21:00:00 | ロマン派
牧野駅前の花壇です。岡山さんを迎えに行く時に撮りました。

こちらは子育てサロンに行く道の民家。
白薔薇と赤い薔薇。


丹精された薔薇が見事です。
オレンジも

ピンクと黄色も



見上げると電線にイソヒヨドリがとまっていました。

遠すぎてわからない…。

ムムム…。
これです。
気温か上がり下がりしますが、いい季節になってきました。
イソヒヨドリも恋の季節。

ヨハネス ブラームス(1833-1897年)自由ハンザ都市ハンブルク生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

の5つの歌op71は1877年に出版されました。
44歳のブラームス。

1853年20歳でクララ シューマンに会い、1854年シューマンの自殺未遂事件以来、一家の世話をやきます。

シューマンとクララ
1856年シューマンが亡くなっても.クララとの親交は続きます。

1858年25歳アガーテ フォン シーボルトと婚約しますが、婚約破棄をします。
1865年母が亡くなり、1872年父が亡くなります。
ドイツレクイエムや、交響曲第1、2番を完成し、人気もでます。

しかし、ブラームスは生涯独身で通しました。

「5つの歌」op71はすべて恋の歌です。

1.春は優しい恋の季節
民謡調で羊飼い娘の恋の歌を歌っています。ハインリッヒ ハイネ(1797〜1856年)


2.月に寄せて
月に向かって自分の恋の苦しさを歌い相手に思いを伝えてほしいと歌います。カール ヨセフ ジムロック(1802-1876年)


3.ひめごと
春のそよ風に、春の黄昏に噂をしているのかと尋ねます。
カール カンデイドゥス(1817-1872年)牧師で詩人

4.私に行ってほしいの?
前半の激しい音楽は外の夜の吹雪を, 最後の明るい音楽は彼女の腕の中で感じる幸せを描写しています。
カール フォン レムケ(1831-1913年)

5.恋の歌
恋人が一緒にいるとすべてが明るく輝いて見え, いないところでは花さえも萎んで見える, という歌. 一見民謡調の明るい音楽です。
ルートヴィヒ ヘンリク ヘルティ(1748-1776年)ハノーファー出身

第5番「恋の歌」の歌詞
いっそう心地よく鳥が歌を響かせるのは、
ぼくの若い心を乗っ取ってしまった
天使のように清らかなあの人が
林を歩き回る時。

谷や野の花々が赤みを増し、
芝の青さが濃くなるのは、
ぼくの彼女の指が
五月の花々を摘んだ場所。

彼女がいなければすべて死んだも同然、
草花は枯れはて
春の夕映えは
もはやぼくにとって美しくもうれしくもない。

いとしい、愛する女(ひと)よ、
決して離れないでおくれ、
ぼくの心が、この野原のように、
歓びに花開くように!







子どものアルバム

2023-05-10 20:56:00 | ロマン派
今日は子育てサロンのお手伝いでした。
久しぶりに指人形を使って「おはなし指さん」と「指さん家族」をやりました。 

参加人数は少なかったけれど、子どもたちとトンネルくぐったり、絵本を読んだり、歌ったり。

お母さんたち、少しでもゆっくりできたかな?

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没


「子どものアルバム」は1878年、彼の当時7歳の甥ウラジミール ダヴィドフのために作曲されました。

全24曲からなるピアノ曲です。
1朝の祈りに 朝の礼拝
2.冬の朝に  雪と氷のロシア
3.小さな騎士 木馬に乗って遊ぶ

4.ママ ままごとをして遊ぶ女の子
5.兵隊の行進曲 おもちゃの兵隊

6.病気のお人形 

7.人形のお葬式 葬送行進曲
8.ワルツ
9.新しいお人形 亡くなった人形の、代わりの新しい人形が、やってきた
10.マズルカ ポーランドのリズム

11.ロシアの歌 ロシア民謡
12.農夫の歌 農夫がアコーディオンを弾いている
13.ロシアの踊り ロシア民謡「カマリンスカヤ」

14.ポルカ ボヘミア起源の舞曲
15.イタリアの歌 カンツォーネのコブシを真似た装飾音符が特徴的
16.フランスの古い歌 もっとも有名な曲
17.ドイツの歌 テンポの遅い「ティロリアンヌ」という舞曲
18.ナポリの踊り歌 「白鳥の湖」のナポリの踊りと同じ曲
19.おとぎ話 おとぎ話しに聞き入っている子ども
20.魔女 スラブ民話「バーバ ヤガー」

21.甘い夢 
22.ヒバリの歌 明るい「ヒバリ」の歌
23.辻音楽師 街角で演奏される手回しオルガンを描写

24.教会 宗教色の強い賛美歌が使われています。

第4曲「ママ」ままごとをしている子どもの様子を描いたと言われています。





カルッリとソル

2023-05-09 21:00:00 | 古典
日曜の午後はギターの岡山友樹さんと合わせ練習しました。

5月20日(土)13:00〜 
夙川公民館ホールで
西宮ギター練習会の
「第20回コンサート」で、
カルッリの「ベッリーニのオペラ『海賊』による幻想曲op337」を演奏します。
チラシには間に合いませんでしたが、川原久美子さんとバスフルートでダウランドの「流れよ、わが涙」も演奏します。

5月14日(日)13:00〜池田ギター練習会では川原久美子さんとカルッリの「2つのデュオ」とドビュッシーの「夢」を演奏します。

岡山さんにカルッリについて聞いてみたら、「カルッリは不当に低く見られていると思います。」
「ギター独奏曲はギター弾きはみんな演奏しないんですよ。久米さんもあれだけコンサートに来ていて、聞いたことないでしょ?」
「…ホントだ!独奏曲書いてませんか?」
「いやぁ〜。たくさんありますよ。教則本も書いているし、今度も337番なので、すごい多作家なんですよ。合奏の曲もいっぱいあって。」
「でも、演奏していない。」
「なぜですか?」
「真っ当な古典派っていうか。」
「ソルってギターの人好きじゃないですか。」
「魔笛のファンタジーとか、椿姫とか書いてて」
「おもしろい作曲家ですよね。」と、私。
「そのソルが教則本か何かにカルッリをいいように書いていないんですよね。」
「カルッリは、難しい指使いがあれば、優しい替え指を使ったらいいなんていうようなところがあって、ソルはそういうのが正統ではないと思っていたのかもしれませんね。
カルッリはあたり前な真っ当な古典派だと思うので、ギタリストはもっと演奏した方がいいと思うのですが…。」

「そうなのですね!フルートもカルッリはフルートは自然で難しいフレーズも説得力がある。音域もフルートのよい音域をちゃんとわかっている気がします。」

「ソルはフルートとギターの曲を書いていないからわからないけれど、ジュリアーニなんかは、85番は名曲だけれど、ギターに寄っているというか、この音域ですか?ってところがあって、あまり続くと、『もうちょっと良いところで勝負させてくれよー!』ってなるんです。」
「カルッリは、自然で、メロディが美しいし…。」

フェルディナンド カルッリ(1770-1808年)イタリア ナポリ生まれ、
フランス王国パリ没

聖職者から音楽理論を学びました。
チェロを演奏していましたが、20歳の時にギターに出会い、教師がそばにいなかったので、独自の練習法を開発しました。
演奏旅行はすべて成功し、
1801年フランス人女性と結婚し、パリに移住しました。
多くのギター独奏曲は難しすぎたため、出版社によって切り分けられてしまったので失われてしまいました。
1830年代にはカルッリを追って多くの生徒たちがパリにやってきました。
教えるために、小さな曲や教則本を書きこの曲がまとめられ、現在も使われる教則本になっています。

フェルナンド ソル(1778-1839年)スペイン バルセロナ生まれ、フランス王国パリ没

1808年ナポレオン ボナパルトのスペイン侵攻によりスペイン王についたホセ ナポレオン(ナポレオンの兄)に重用され、管理職に付きました。
そのため、ナポレオンの没落したときにフランスに追放されパリに住み、そこで活躍しました。

カルッリのギター独奏曲「パガニーニのLa Clochett(鐘)の主題による幻想曲」op.325
1800年代のギターで演奏されています。
ソルのファンタジーop7




ヴァンサン リュカ&ミッシェル チョイ

2023-05-08 21:00:00 | コンサート
土曜の夜は京都 青山バロックザールで
ヴァンサン リュカ&ミッシェル チョイの「Love,Peace&Music」
を聴きに行きました。

フォーレ(1845-1924年)のラシーヌの雅歌op11
リュカさんと、チョイさんとピアノ水野先生のトリオ。

この曲は初めて聴きました。ゆったりと美しい曲でした。

デュティユー(1916〜2013年)のソナチネ
リュカさんとピアノ。超絶技巧の曲を豊かで長い息で演奏され、流石で

ドップラー(1821〜1883年)のアンダンテとロンド
伊藤先生とリュカさんとピアノ。
今夜1番のスペシャルデュオでした。リュカさんも思わず伊藤先生をハグされました。

バッハ グノー(1818ー1893年
アヴェ・マリア
フルート二本とピアノ
伊藤先生、チョイさん。
編曲者を書いていませんでしたが、ちょっと現代的で美しかった。

ケーラー(1849〜1907年
花のワルツ
リュカさんと中務晴之さんとピアノ
2ndのリュカさんがしっかり支えて素晴らしかったです。

ゴーベール(1879ー1941年)のファンタジー
リュカさんとピアノ。
フランス人のフレンチ。色彩感豊かでおしゃれでした。

サン・サーンス(1835〜1921年
ロマンスop37
新保江美さん、宗本舞さん、ゴー チヤン エンさんも加わってフルート7本ですっきりした重奏でした。

バッハ(1685ー1750年
G線上のアリア
フルート3本とピアノのための編曲でした。

モーツァルト(1756ー1791年)のアンダンテ
リュカさんとピアノ

ドビュッシー(1862ー1918年)の「美しい夕暮れ」
伊藤先生とピアノ
何度も聴きましたが、また聞きたい。
素晴らしい。 

ヘンリー クリスプ(1912-1987年
ロンディネロ
伊藤先生と、ピアノ。
80歳の先生はいつも新しい曲を一曲はプログラムに入れられます。
私も初めて聞いた作曲家です。
軽妙でユーモラスな曲でした。

クリスプはオーストリアでユダヤ系の父とカトリックの母の元に生まれました。
1938年兄がベオグラードに移住した後、オーストラリアに移住します。
オペラカンパニーを創設、バレエの音楽監督を務めます。
1949年から1972年 南オーストラリア交響楽団(アデレード)で指揮者を務めます。

1949年に映画音楽「マシューの息子」を書きます。
オペラ、バレエ、歌曲、アニメの「ワルチィング マチルダ」など多くの作曲をしました。

メンデルスゾーン(1809ー1847年
ロンド カプリッチョop14
チョイさんとピアノ

メシアン(1908ー1992年
黒つぐみ
リュカさんとピアノ

アブレウ(1880ー1935年
ティコティコ
六重奏、踊りながらの演奏でした。
楽しかった!

ヘンリー クリスプ 青い山




哀しみの時代

2023-05-07 21:00:00 | ルネッサンス
土曜はギターの川原久美子さんと合わせ。

14日13:00開演、池田ギター練習会でカルッリのフルートとギター「2つの二重奏」からDuo1と、ドビュッシーの「夢」をバスフルートとギターで演奏します。

川原さんのお嬢さんの東京土産。
ピーターラビットのくるみのクッキー。
せっかくなのでイギリスっぽいお皿…実はソーサーで頂きました。
紅茶はいつものウェッジウッドのワイルドストロベリー。紅茶はルピシアのマスカットダージリン。

イングランド気分盛り上がって、イギリス…と言うわけにはいかず、
カルッリはイタリア生まれ、パリで活躍した作曲家。ドビュッシーはフレンチ。

確かに古典派、ロマン派のイギリスのギター作曲家など、きいたことがありません。

ギターはスペインのビウエラから始まり、イタリアや南米で流行りました。
オーストリアやフランスにはイタリア人の作曲家が多く渡っています。

しかし、当時ヨーロッパの辺境であったイギリスにわざわざ渡った人は少なかったのです。

だからといってイギリスに撥弦の文化がないかといえば、そういうわけではなく、リュートや、小型のハープが人気がありました。

イギリスの撥弦楽器の偉大な作曲家にはジョン ダウランド(1563〜1626年


がいました。
と言ってもギターは当時はなく、リュート全盛時代。

リュートのために書いた曲が、編曲されて多くのギタリストによって演奏されています。

彼の作品の1番の特徴は、世俗曲が多いこと。
それは、彼がエリザベス一世


のもとで宮廷リュート奏者を望みますが採用されませんでした。
宮廷の予算縮小や、彼が女王に献呈する曲を怠ったせいだと言われていますが、本人は一時期カトリック教徒だったために、イングランド国教会の女王から排斥されたものと信じていて、ずっとぼやいていました。

そのため、ヴェネツィア、フィレンツェ、ニュルンベルクなどヨーロッパを遍歴しながら、世俗曲を作曲したものと思われます。

自分の曲を売り込まなければならなかったダウランドはその頃ヨーロッパで流行った哀しみを演出し、

「涙のジョン ダウランド」と自称。

イタリアに渡ると
「不幸なるイングランド人ジョヴァンニ デュランデ」
と、名乗りました。

そして「人を救う技芸はその主を救うことあたわず」
「運命の女神(フォルトゥーナ)の祝福を受けざりしものは
ただ憤るか、泣きはらすのみ」

というモットー(キャッチフレーズ?)までありました。

「常にダウランド、常に嘆いている」(Semper Dowland Semper Dolens)ダウランドとdolens嘆きと韻を踏んでいるという題名の曲を書いたりもしています。

1595年エリザベス女王暗殺計画を持ちかけられ、これを密告します。

1598年にはデンマークでクリスチャン4世


のリュート奏者を務め、1606年イングランドへ戻ります。

1612年45歳で、念願の国王ジェームス一世

付きのリュート奏者になり、晩年は不満を口にしなくなり、幸せに暮らしたのではないかと言われています。

「彼女は僕を受け入れてくれるのだろうか?」

あのこはぼくの苦しみをどう言い訳できるのか、可愛いフリをして?
彼女が冷たいとわかったのに、ぼくは彼女を素敵だと呼べるだろうか?
それって煙となって消えてしまう炎なのだろうか?
ぼくは実りのない木を褒め称えなければならないのだろうか?

いや、影がそこにいる人と間違えられるようなところだと
ぼんやりしてたらだまされるんだ
冷たい愛なんて、砂に書かれた言葉のようなもの
それとも水に浮かぶ泡

お前はまだ愚かにすがりつくのか
あのこは決してお前に優しくないのに?
あのこの心を勝ち取らなければ
お前の愛が実ることはないのに

ぼくはそんなにダメなやつだったのか、高望みしなかったことが
あのこがぼくに求めただけの大きな喜びを
そいつがでかければでかい分、ぼくの願いも大きいのに
あのこがそれを否定するなら、いったい何を受け入れてくれるのか?

もしもあのこが真面目に考えてるのなら
愛することが真っ当なことなのに
ねえ、この愛を受け入れてぼくをシアワセにしてよ
でなけりゃ今すぐに死なせてくれよ

死んじまった方が何千倍もいい
愛するためにずっと苦しむよりは
愛しい人よ、でも忘れないで、それはぼくなんだ
君のために、満ち足りて死んでいった男は








建碑式

2023-05-06 21:35:00 | 古典
今日は、父のお墓の建碑式をしました。
母の兄、従妹弟、妹家族、私の家族が集まってお墓に父のお骨を納めました。
紫露草


待宵草

平戸ツツジ

車輪梅が周りに咲いていました。
「ずっと一緒にいたから、少し寂しい。」と、母は言っていました。

その後、ゆっくり会食をして、いとこたちに会えて楽しかった。
なぜか、飼っていたペットの話になって、犬や猫、ひばり、ジュウシマツ、インコ。
戦時中も「可愛そうだ」と祖母が捨て犬や捨て猫をひらってきては飼っていた。その子孫なのでみんないろんなものを飼ってきています。
私が小三の頃、捨てられていた柴犬の雑種を家の離れに隠したことがあります。
学校に行って帰ってきたら、母がカンカンに怒っていて…。
野良犬なので畳の上に上がって、大暴れ、うんちやおしっこをそこら中まいて大変なことになっていたのでした。

それでも、飼いたかったけれど、だめというので一匹は従妹の家にもらわれて、後一匹は逃げてしまった。

小さくて可愛かったのに、従妹の家に行ったら私の背より大きな犬が、ドーンと喜んでしっぽを振りながら、押しかぶさってきて、びっくりした。

そんなとりとめのない話をして、長い時を一緒にしてきたことを確認して。

お父さんのお陰で、また、親戚との楽しい時間を持てたことをうれしく思いました。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1765ー1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

父、レオボルト モーツァルトは哲学や歴史を納めるために大学に行きましたが、途中から音楽家に転じたという経歴を持ちます。ザルツブルクの宮廷作曲家、バイオリニストでした。



母はアンナ マリア ベルトル


で7番目の末っ子としてウォルフガングは生まれました。

他の5人は幼児期に死亡し、唯一、5歳上の姉マリー アンナ(愛称ナンネル)だけがいました。

父は息子が天才であることを見出し、幼少期から音楽教育を与えました。
3歳の時にチェンバロを弾き始め、5歳の時に現存する最古の作品が作曲されました。(アンダンテハ長調ケッヘル1a)
11歳頃の作曲譜も発見されました。

父と共に音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニムスコロレド伯

の宮廷に使える一方で、何度もウィーン、ロンドン、イタリア各地に大旅行を行いました。これは神童の演奏を披露したり、より良い就職先を見つけるためでしたが、どこの宮廷でも就職活動に失敗します。

「聖墓の音楽」K.42(32a)
は、ザルツブルク大司教の依頼により4月17日の聖金曜日に上演する目的で作曲された受難カンタータ(パッションカンタータ)です。

全ての曲にレシターティーボがついています。この作品はジャンル的にも用途的にも独特の位置をしめています。

デーモン リトリッヒは次のように解説しています。

「ドイツ語による受難カンタータです。この作品は少なくとも中世以降、広くを行われていた慣行である「セポルクロ」といえます。セポルクロとは聖週間(復活前の一週間)に絵画または立体の形に作られた聖墓(復活するまでキリストが横たわっていた墓を表す)を教会の付属礼拝堂が主催団の脇にしつらえ、その前で捧げられた祈祷のことを言います。セポルクロはもともとキリストの生、死、復活を扱った神秘劇という形で行われていましたが、バロック期にはサクラ ラプレゼンタチィオーネと呼ばれる神秘劇となり、もっと後には非舞台的な音楽であるオラトリオやカンタータとなっていきました。」

ロンドンの法律家兼自然科学者であったバリントン卿(Daines Barrington, 1727-1800)により、

「作曲にあたって、大司教は11歳の少年が作曲するとは信じられず、彼を1週間の間、僧院に閉じ込め、この間誰にも合わせずに五線紙とオラトリオだけあたえて1人にしておきました。この短い期間に彼は非常に素晴らしいオラトリオを作曲し、これは上演されて誠に激しい拍手喝采を得たものでした。」
と書かれています。

ザルツブルク大聖堂
1.私はどこにいるのだろう? (バスのレチタティーヴォ)
2.岩よ、口を開け (バスのアリア)
3.愛する霊魂よ (ソプラノのレチタティーヴォ)
4.この胸を眺めて、私に問いかけて (ソプラノのアリア)
5.おお天よ! (バスのレチタティーヴォ)
6.イエスよ、私は何をして (ソプラノとバスの二重唱)
7.おお、称賛に値する思い! (ソプラノのレチタティーヴォ)
8.イエス、まことの神の子よ(合唱)

6.7.8がYou Tubeに投稿されています。


修道院の庭にて

2023-05-05 21:00:00 | 近代
ガーベラが咲きました。

ゴールデンウィーク、家の裏庭の手入れです。

雑草を抜いて、

育ち過ぎた野菜を

カット!

カット!
きゅうりの苗とバジル
を植えました。

伸び放題の蘭を株分けして植えて

トマトとピーマンも植えました。
夏はパスタや、サラダを頂くつもりです。

今夜は野菜を消費するためにお鍋です。

アルバート ケテルビー(1875-1959年)イングランド イギリス バーミンガム生まれ、イギリス イングランド ワイト没


父、版画師のジョージと母セイラ アストンの元に生まれます。
11歳でバーミンガム音楽院


に入学、13才で「ピアノフォルテのためのソナタ」を作曲して、エルガーに絶賛されています。

ロンドンのトリニティ カレッジ

の奨学金に応募すると1位を取ります。

2位はグスターフ ホルストでした。
16歳でウィンブルドンのセント ジョン教会のオルガン奏者に迎えられます。

22歳で教会の契約が切れるとボードビル劇場で音楽監督になり、ミュージカルを作曲し、上演します。

30歳を過ぎると本格的な室内楽を作曲しますが、出版には至らず、ポピュラーな軽音楽作曲家として名を挙げます。
ムード音楽、放送局、レコード会社など、新しいメディアの音楽ディレクターとして活躍します。

1915年「修道院の庭にて」は情景音楽として作曲されました。

「性格的間奏曲」という副題がついています。

修道院の庭の様子が、水笛による鳥の声や、「キリエ エレイソン」(主よあわれみ給え)という男性合唱が入ったりして、修道院の礼拝のミサ様子が描写されています。






ナーティヤ シャーストラ

2023-05-04 20:57:00 | 音楽
特定外来種オオフサモ
メダカの鉢の日陰に里山ですくってきたそう。

ゴールデンウィークは、母の家と自宅を往復。近所に買物行くくらいです。
エンジンオイルを変えに行ったら、「裏を見る機会ないので、見てください。」とお勧めされ、


見たら「錆びてます。」
と、言うことで

コーティングしてもらいました。

水も入れてもらって、車が元気になってスッキリしました。
ほったらかしでしたが、メンテナンスは大事ですね。

2日の夜は母と二人で近所のインド料理カレーダイニング サヒで食べました。夫と次男は職場の人と飲んでくるとかで、「お母さんと食べといで。」と言ってくれました。

じゃがいものスープとサラダ パパド

チキンタッカ、マライタンドリー、シークカバブー

サモサ

プレーンナンとほうれん草カレー
タンドリーチキン
途中でお腹いっぱいになってしまいチキンとサモサを包んで持って帰りました。
辛さは「普通」
それより下は無く、「お子さま向けがいいですか?」と聞いたら「「普通」は全然辛くないです。大丈夫ですよ。」
「インド料理って食べに来たことないいわ。」と、母も興味津々。
サモサとかチキンとかナンは片手で食べやすいのもよかったです。
元気になってきたのか、母、隣のスーパーフレストまで歩いてお花を買って帰りました。

インドの伝統音楽は、紀元前2600年頃に遡ります。
インダス川流域で栄えたインダス文明。
紀元前2000年頃 ヴェーダ(バラモンによって朗誦され伝承された祭祀)の時代に始まります。

350-400年頃ヒンドゥー教徒に叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」
が、成立します。

天上の奏楽団「ガンダルヴァ」の姿が遺跡に残されています。


1世紀にはガンダーラ彫刻(パキスタン)に楽士が彫られています。
舞人、角形ハープ、壺型の太鼓などが見られます。






これらがどのような音を出し、何を演奏したのか?わかりません。

紀元前2-7世紀に演劇理論書「ナーティヤ シャーストラ」
ナティヤーシャストラは、古代および中世のインドの他の芸術に影響を与えました。たとえば、バダミ石窟寺院(西暦 6 ~ 7 世紀)の踊るシヴァの彫刻は、その踊りの動きとララタティラカムのポーズを示しています。
が聖者バラタによって成立されます。

タタ 弦鳴楽器


アヴァナッダ 膜鳴楽器


ガナ 体鳴楽器

スシラ 気鳴楽器

の4種類に分類され、全36章で器楽全般、旋法の機能、装飾法、リズムの周期、韻律法、演劇の成功法などが論考されています。

1オクターブを「シュルテイ」と呼ばれる22の微分音に分割し、7つの音階音を「スヴァラ」
音階音の違いによって2種類の基本音階「グラーマ」を定め、主音を各音階音に順番に移動させることによって、各「グラーマ」につき7種合計14種の実用音階が生まれました。
そこからさらに5音階、6音音階というふうに音階音を、選択することで無数の旋法が生み出されることが出来るようになりました。

また、人間は3種の発声器官。
胸声、喉頭声、頭声があり、楽器にも3種の音域があると考え、これが「サブタク」低音域、中音域、高音域オクターブの概念になりました。

また、「ラサ」という美的概念音楽的要素や、上演時間帯、や季節が8種の「ラサ」愛しさ、歓喜、怒り、悲愴 、英雄、恐怖、嫌悪、及び「ラサ」を生起させる「ハーバ」八種の基本的感情、33種の一時的感情、八種の生理的反応が包含されると、細かく結びつけられました。

西洋音楽とは違うけれど、
演劇、舞踊、音楽を理論的に結びつけた膨大な書物で、それは現代インドでも脈々と受け継がれています。





運命の女

2023-05-03 21:00:00 | 近代
テュモルフォセカ
アフリカ南部原産。
塚口の民家の門に咲いていました。

こちらは
シラー ベルビアナ(オオツルボ)
地中海沿岸原産。


シルバーレース、北アフリカ原産。
世界中の植物が日本の庭に集まっているようです。

かつての王たちもプラントハンターを世界中に派遣し、植物を王宮に植えました。

最古の学術的植物園は、エジプトのアレクサンドリア図書館の隣にあったそうです。

中国には神農(紀元前2740年頃の古代中国の皇帝の一人)がいて、世界中に人を派遣して薬効のある植物を集めたそうです。

メソポタミア、クレタ、メキシコにも王宮の庭園があったそうです。

アリストテレス(BC384-322年)はアテナイのリュケイオンに薬用庭園を持っていました。
これがヨーロッパ最古の植物園だそうです。

中世ヨーロッパでは修道院が薬草栽培を行っていました。

1544年イタリア ピサ植物園
翌年パドヴァ植物園

センブリチ庭園


、1558年パヴィア王立大学
、1568年ボローニャ オルト ボタニコが設立され、薬剤師が養成されました。

16世紀からヨーロッパに本格的な植物園が建てられました。
ウィーン大学植物園、

オランダのライデン大学植物園。



パリ植物園


イギリスのチェルシー薬草園

などこぞって建てられました。

近世ではイギリスのキューガーデン

ドイツのベルリン大学植物園があります。

レイフ ヴォーン ウィリアムズ(1872ー1958年)イングランド ダウンアンブニー生まれ、イングランド ロンドン没

1910年
ダンテ ゲイブリエル ロセッテイ(1828-1882年)
イギリス ロンドン生まれ、イギリス ケント州バーチントン没

の詩集「生命の家」の1つ「静かな午後」に曲をつけました。

この詩はロセッティが、長い婚約期間を経て結婚した妻エリザベス ジダル

ロセッティがエリザベス ジダルをモデルに描いたペアトリーチェ
がいながら、弟子のウィリアム モリスの婚約者ジェーン  バーデンへの想いが抑えられずに書いたものです。

ロセッティがジェーン ジダルをモデルに描いた「プロセルピナ」
「運命の女」ファム・ファタール
男を惑わせ、破滅に追いやる…という、当時流行した言葉の具現化と言われましたが。

ジェーンはモリスと結婚し、エリザベスは夫との冷たい結婚生活と流産に、薬物に溺れ、1862年薬物の過剰摂取で亡くなります。

結婚ニ年目のことでした。

エリザベスの死後もジェーンとの関係は、夫モリス公認で、ロセッティが亡くなるまで続きます。

ロセッティは妻への罪悪感とジェーンへの想いから酒と薬に溺れ、自殺をはかったりして、最後はブライト病(腎臓疾患)で亡くなります。

そして、ウィリアム モリス(1834-1896年)イングランドロンドン生まれ、ロンドン没

は、アーツ アンド クラフト運動を主導。
産業革命の安価で粗悪な工業製品が溢れていることをを批判し、中世の手仕事を尊重し、生活と芸術の統一を目指した製品を作ります。
装飾された書籍や家具、壁紙を作ります。商業的にも成功し、

中でも植物をモチーフにしたパターンは今でも人気があります。

「静かな午後」
高く伸びた若草に投げられた君の腕・・・
透きとおる指先は薔薇の花のよう:
君の瞳は穏やかに微笑む 渦巻く雲は散りまた集り
牧草地はほのかに明るみまた翳る
僕らの巣のまわりは見渡す限り
杓(しゃく)の花に囲まれた山査子(さんざし)の垣根に

銀色に縁取られた黄金色の立金花(りゅうきんか)の原
砂時計のように静かな 眼に映る沈黙

陽のくまなく差し込む茂みの奥で蜻蛉(とんぼ)が
蒼空から解かれた青い糸のように葉から下がる:・・・
この翼持つ時もまた高みより僕らに舞い降りた
おお! 不滅の恩寵を二人の胸に刻みつけよう 
二つの沈黙の重なりが愛の歌となった
密やかにして言い知れぬこの時を



白夜

2023-05-02 21:02:00 | ロマン派
月曜午前中、塚口、T-raumで、ハープレッスンでした。

お昼寝の邪魔しました。
不機嫌な猫さん。










t-raumも花盛り。
7月の発表会に向けて練習中。
ペダル使いが課題です。
下手でもハープの音は癒やされます。
今日はまっすぐ帰還。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840〜1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれロシア帝国サンクトペテルブルク没。

1866年チャイコフスキー
の1875-1876年月刊誌「ヌーヴェリスト」の詩人とのコラボ企画のピアノ楽譜。

5月は「白夜」(5月の夜)

「四季」12の性格的描写 op37aの一曲です。

5月はアファナーシィ フェート(1820ー1892年
ロシア帝国オジョール州ムツェンスク生まれ、ロシア帝国モスクワ没

詩人。彼はロシア貴族シェンシンとドイツ人女性シャルロット フェートの間に生まれます。
ところがダルムシュタットでルター派の儀式によって結婚したために、ロシアの法律では嫡出と認められず、
私生児の取り扱いを受けることになります。
52歳になるまで父の姓を名乗る権利も利益も得られなかったそうです。

4歳になるとドイツ系の寄宿学校に入れられ、1838年モスクワの寄宿学校へ転校。
モスクワ大学に入学し、法律と言語学を学びます。1844年に大学を卒業。ウクライナのヘルセンで騎兵連隊の士官となります。
クリミヤ戦争(1853-1856年)の時にはエストニア沿岸を守護する任務についていました。
1853年からツルゲーネフに誘われて「同時代人」に参加し、レフ トルストイとも知り合います。
1857年に結婚し、6年には軍を退職してモスクワに戻り、その後は故郷で晩年を過ごします。

ロシア文学界において、現代問題や社会問題について反動的な立場から発言し、詩を現実からの逃避の手段と考えていました。

ギリシャ芸術の静的な詩を賛美し、自然音楽、恋をたたえ芸術史上主義者として詩を書きました。
チャイコフスキーだけでなく、リムスキー= コルサコフ.ラフマニノフなどの音楽家に歌詞として採用されました。

白夜
素晴らしき夜!
全てを包み込むやすらぎ!
この北の故郷に感謝しよう!
氷の王国から吹雪と雪の王国から
かくも新鮮で清澄な故郷の5月がやってくる

白夜って日本に居ると想像するしかないですが、

サンクトペテルブルクの白夜 5月末 午前3時

サンクトペテルブルクの白夜 5月末 午後11時
緯度の高いロシアでは一日中ほぼ日が沈まない時期があります。
5月から7月の短い夏の間「白夜祭」が開かれ、バレエや音楽を楽しみます。
「白夜」というのは、おそらくロシアの人たちにとって夏の訪れのように感じられるのでしょう。