音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

オーストリアの村つばめ

2023-05-21 20:52:00 | ロマン派
土曜日は、夙川公民館ホールで西宮ギター練習会の第20回コンサートでした。

ギター川原久美子さんと久米素子バスフルートでダウランドの「流れよわが涙」
岡山友樹さんとフルート久米でカルッリの「ベッリーニの海賊の主題による幻想曲」を演奏しました。

夙川にはまだ鯉のぼりがかかっていました。
温かくて、穏やかな天気で鯉さんものび~っと、していました。

アオサギもいるホール

ヨーゼフ シュトラウス(1827-1870年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリアハンガリー帝国ウィーン没

1862年から63年にかけて、オーストリアの小説家アウグスト シルバーシュタイン(1827-1900年)

が小説「オーストリアの村つばめ」を発表します。
アルプスの自然の中にある村の純朴な青年の恋心を綴ったもので、大人気になりました。

シルバーシュタインとヨーゼフは長年の友だちで、この曲は彼に献呈されています。

1864年フォルクスガルテンで初演されました。
同じ日に「オーストリアの村つばめ」のヒロインの心情を描いている「女心」も初演されました。

1870年ヨーゼフはワルシャワでの事故が原因となり亡くなります。
その葬儀の席で兄のヨハン シュトラウスの指揮により、演奏されたのがこの2曲です。

つばめは、オーストリアの国鳥で、オーストリアの豊かな自然を表現しています。
後に歌詞がつけられています。

Frühling, Frühling, schöne Zeit! schöne Zeit voll Freud!
Auf Feld und Flur zieht der Winter. Es singt die Nature die Frühlinglied――

(春よ、春よ、美しい季節。喜びに満ちた美しい季節。野山では冬が去り、自然は春の歌を歌う…






ピアノ五重奏曲

2023-05-20 21:03:00 | ロマン派
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生


とヴィオラ金重美代さん、

チェロ木村政雄先生

とフルート久米素子の四重奏練習。

モーツァルトのDdurのフルートカルテットです。

今日は半分はピアノの坂田さんが加わってモーツァルトのピアノカルテットも練習しました。私はこの時は譜めくりをしました。
譜めくり難しい…ドキドキしました。
8月6日(日)本番てす。

先生のお宅の猫さん。
いつも温かくて…至高の音色、アンサンブル。
本当に幸せな時間です。

8月が終わったら、フルート(ヴァイオリンの編曲)ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノの編成でフランクの五重奏か、ドボルザークの五重奏ができないかと、相談しました。

セザール フランク(18。22から1890年)ネーデルラント連合王国(1830年からベルギー)リエージュ生まれ、フランス共和国パリ没
ドイツ系の家系で父ニコラは銀行家でベルギー国境付近の出身。母のマリーはアーヘンの出身でした。
弟ジョゼフと共に幼くしてピアノの才能を示し、彼らはリストのような題名ピアニストにすべく父により英才教育を受けました。

1834年12歳の時に始めのコンサートを開いています。

国王レオポルト一世も隣席していました。

1834年リエージュ王立音楽院


を卒業し、1835年パリに移住するとアントニーン ライヒャに教えを受けました。10ヶ月後ライヒャがな亡くなると1837年パリ音楽院に入学し、作曲、ピアノ、オルガンを学びました。
その頃、フランス国籍の取得に向け、働き掛け37人には帰化が認められました。
1842年退学しましたが、44年にはパリに戻って活動しました。

ベルギー帰国は父の意向が大きかったと言われています。
演奏会を開いて収入を得ようとしましたが失敗。
父はパリで演奏収入を得させようとしましたがうまくいかず、フランクは苦しい生活を送りましたが、音楽院に復学して学ぶことがてきました。

また、その頃、ウジェニー フェリシテ=カロリーネ セイヨ(1824-1918年)コメディー フランセーズに所属する芸人デムソーという名の両親の娘と恋愛関係になります。

フランクの父は「喜ばしい記憶の中の F デムソー嬢へ」という献辞の付いた楽譜を見つけ、本人の目の前で破り捨てました。
フランクはそのままデムソー家に向かい、そこで楽譜をもう一度書いて、献辞を元の通りに書き、フェリシテに贈りました。

父は結婚について一切認めず、母を苦痛に陥れたと非難し、夫婦間の毒殺事件に発展すると怒鳴りつけました。

そこでフランクは持てるものだけを持って両親の家を後にするとデムソー家で歓迎され、移り住み、二度と帰リませんでした。

25歳の時、ついに全員を説き伏せ両親とも、和解し結婚にこぎつけました。

1851年神式のオルガンが設置されたサン ジャン サン フランソワ マレー教会のオルガニストに就任し、安定した収入を得ます。

1853年サント クロチルド教会のオルガニストになります。

サン クロチルド教会のオルガン

1872年革命で止まっていたパリ音楽院が、再開します。
オルガン演奏家として名声を得ていたフランクは推薦され、教授になります。

オルガンを演奏するフランク
その頃から長年温めていた曲想を楽譜に起こせるようになっていました。

そんな中の一曲が、ピアノ五重奏曲(1879年)です。

批評家は「この曲は不穏な生気が宿り、劇場的と言って良いほどの気まずさを称えている」と表しました。
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に触発され、後半生の室内楽の作曲期に入ります。

その口火を切ることになった作品です。
初演は1880年国民音楽協会で行われました。フランクはサン・サーンスにこの曲を献呈しようとしましたが、3サン・サーンスは曲の内容に不満を持ったらしく、演奏が終わると献辞の書かれた自筆譜を残してそのまま舞台を後にしてしまいました。





クラヴィーアとピアノフォルテ

2023-05-19 21:00:00 | 楽器
水曜日は、センメルトリオ。
ピアノ坂田恭子さん、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米素子で5月30日ワンコイン聴き合い会で演奏します。

昨日ご紹介したCPEバッハのカルテットという名のGdurをトリオで演奏します。

金重さん、「これは演奏しやすいわ〜!」としきり。
どうも音域が当時の楽器ヴィオラ ダ ガンバ仕様のようで、音域が低めでおさまり、第2ポジションを使わなくて済むので演奏しやすいと言うことらしいです。

しかし、坂田さんは、ソロが多く、ピアノではあまり使わないトリルが多用してあり「うむむ…。」と言う感じです。
CPEバッハは左ききのために他の楽器はあまりうまくならなかったらしく、クラヴィーア(チェンバロ、ハープシコード、クラプサン)の名手だったそうです。

なので、「ここぞ」という場所で華やかなフレーズをクラヴィーアに弾かせています。

クラヴィーアは


吉田令 設計
クラヴサン・ビヤン・タンペレ社製
フレンチ・タイプ(フランス18世紀初頭型)
2段鍵盤
クラヴィーアはジャックという柱についた
プレクトラム(爪、ピック)で弦を引っ掻いて音を出す撥弦楽器。
フェルトで消音します。

そのため、音の強弱はつけにくく、強調したいところにトリルをつけて表現します。

一方ピアノは



ハンマーで弦を叩いて音を出す打楽器。
スタンウェイModel.A Louis XVI(ルイモデル)
響板でハンマーで叩いた音を増幅して、かなりな音量や残響を出すことができます。
音の強弱の幅をタッチ、ハンマーアクションによってコントロールすることができます。

1709年イタリアのチェンバロ制作者バルトロメオ クリストフォリ(1655-1731年)イタリア パドゥバ生まれ、フィレンツェ没

によって発明されました。
はじめのピアノは「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」と名付けられました。

1722年製のピアノ(ローマ・イタリア国立楽器博物館)現存するクリストフォリの3台のピアノフォルテは全て1720年代のものです。

ピアノフォルテは音の強弱がハンマーによってコントロールできると言う意味です。その後、ハンマーフリューゲルとも呼ばれます。

カール フィリップ エマニュエル バッハによる「ハープシコードとピアノフォルテによる協奏曲」wq47(H.479)
は1777年に楽譜が出版されています。
作曲の経緯は、わかりませんが、フリードリヒ大王の宮廷を退任した後のこと。
まだ新しい楽器ピアノフォルテと、彼が得意なクラヴィーアを中心に据えた協奏曲を作っています。

ピアノフォルテも打楽器であることは変わりませんが、今の楽器とは響きも少し違います。

それがよくわかる演奏見つけました。

CPEバッハについては昨日の記事で

名付け親はテレマン - 音楽の喜び フルートとともに

名付け親はテレマン - 音楽の喜び フルートとともに

近所のサツキきれいです。先週植えたきゅうり花が咲いてきました。うまく育つといいなぁ!今日水曜日午後からは久しぶりにうちでセンメルトリオの練習日。掃除しなく...

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名付け親はテレマン

2023-05-18 21:41:00 | バロック
近所のサツキ

きれいです。
先週植えたきゅうり

花が咲いてきました。
うまく育つといいなぁ!

今日水曜日午後からは久しぶりにうちでセンメルトリオの練習日。
掃除しなくちや!

5月30日のワンコイン聴き合い会のための練習です。

カール フィリップ エマニュエル バッハ(1714-1788年)神聖ローマ帝国ザクセン=ヴァイマル公領生まれ、神聖ローマ帝国ハンザ同盟ハンブルク没

の、「フルートカルテットG-durWq95」
を演奏します。
第一回合わせです。楽しみ!
彼は大バッハの次男としてヴァイマルに生まれました。

名付け親はバッハと親しかったゲオルク フィリップ テレマン(1681-1767年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領マクデブルク生まれ、神聖ローマ帝国ハンザ同盟ハンブルク没


彼のフィリップはテレマンに因んだものです。

父の赴任先のトーマス教会の付属学校で教育を受け、ライプツィヒ大学に学びます。
3年後、フランクフルト アン デア   オーダーのヴィアドリーナ大学
現在のヴァドリアーナ大学(ブランデンブルク大学から統合)
に移り法学で取得しました。
しかし、間もなく司法は諦め、音楽で生きる決心をします。

プロイセン王国の皇太子フリードリヒ

のチェンバロ奏者としてライスベルク宮殿(ルピーンの宮廷)
に採用されます。
1740年フリードリヒ2世が王

になると、ベルリンの宮廷楽団員に昇格します。
1746年には王室楽団員に昇り詰め、ナウマン、グラウン、クヴァンツと共に、フリードリヒ大王に寵愛されました。


アドルフ・フォン・メンツェル作画の「無憂宮におけるフルート演奏」。1852年の歴史画であり、作者の想像に基づいている(実際の現場を忠実に模写したものでない)。中央で右向きに立ってフルートを吹いているのがフリードリヒ大王で、そのかたわらに(閲覧者に背を向けて)腰掛け、大王を横目に見ながらチェンバロで伴奏しているのがカール・フィリップ・エマヌエル
1767年テレマンが亡くなると、フリードリヒ大王の制止を振り切り、ハンブルクのヨハネウム学院のカントルにおさまり、テレマンの楽団の楽長を継ぎます。

生前は大バッハよりも知られていてモーツァルトは「彼は父であり、僕たちは子どもだ。」と言い、彼の曲を編曲した作品を書いています。
ベートーヴェンは彼を高く評価し、ブラームスは彼の曲を校訂しています。

特にクラヴィーア作品は評価されていますが、これは彼が左利きで弦楽器はうまくならなかったのでクラヴィーアに打ち込んだためと言われています。

「フルートカルテット」wq95はフルート四重奏と名前がついていますが、
ベルリンのジングアカデミーの画像からimslpに投稿されたものですが、どう見てもこれはフルート、ヴィオラ、クラヴィーアのトリオ三重奏です。

出版社はHolograph manuscript, n.d.(ca.1776-88)の楽譜なので、カール バッハの生前に出版されています。
タイトルにカルテットとあります。

当時、通奏低音は、いろいろな楽器で演奏されるのが常でしたので、クラヴィーア譜を参考に適当な楽器を割り振ったのではないかと思います。
エマニュエルは大王のためにフルートのための曲を量産する必要があったのかもしれません。多忙な中、こういう譜面を書いたのではないでしょうか。

加えて、いろいろな楽器と重奏し、自由に楽しんだ当時の雰囲気が伝わる楽譜になっています。


雷雨、嵐の中で

2023-05-17 21:01:00 | ロマン派
月曜の昼間、母にお弁当を届けると留守でした。
カレーとサラダを置いて、お米を洗って置いてきました。

すっかり夏空。
のんきに車から写真を撮っていたら
夕方、フルートアンサンブルに出かけようと京阪に乗ろうとしたら、

枚方市駅の近くでいきなり停電。

空調も止まりました。
停電しても非常灯はついているみたいです。
雨もないのに
20分経って、落雷のための停電で、JRで代替運転が始まったとアナウンス。
代替と言っても京阪で行けば動けば渡辺橋まで24分。
JRに回れば、交野線で河内森まで行き、河内磐船からJRに乗り換えて、京橋から渡辺橋で、1時間8分。
駅員さんに聞いてみました。
「関電に落ちたみたいで復旧の見通し立ってないので、ただし京橋まで行っても中之島線も不通なので…。」
「ワンチャン、回っている間に中之島線復旧するかもしれないですね。」
「そうですね。」
と、言うことで回りました。
バスフルート担いで、コンサートフルートのスーツケースをガラガラ押しながら。
河内森と河内磐船の間は歩いて4分。人がびっしりでした。
学研都市線急行で検索したら、北新地から四つ橋線で肥後橋に行くルートもあるらしい。
行ったことないからすぐわかるかな?と心配していると
中之島線復旧のお知らせが。

京橋京阪中之島線乗換で



いつもの筑前橋。
1時間遅れ。6時始まりですが、7時過ぎていました。

じっと待っていたほうが速かったのかも?
みんなの顔を見たらホッとしました
バスフルートで田園も2回は吹けました。

エクトル ベルリオーズ(1803-1869年)フランス共和国ラコート サン・タンドレ生まれ、フランス帝国パリ没

「トロイ人」全5幕のオペラ
1855-59年ヴァイマルに滞在中にリストと同棲中のカローリーネ ツー ザイン ヴィドゲンシュタイン侯爵夫人


を訪問し、ギリシャ神話「アイネイス」の第2巻、第4巻を元にしたオペラを構想中と話したところ、夫人は喜び強く勧めたため、病身だったベルリオーズは奮起しこのオペラを仕上げました。
2ヶ月で台本を書き、1858年4月に完成しました。
パリオペラ座での上演を5年かけて交渉しましたが、決裂。
リリック座での初演になりましたが、1863年11月ベルリオーズ死後になりました。

賛否両論ありましたが、カットされ22回上演されました。
日本ではあまり上演されませんが、欧米では人気のオペラです。

原作はプープリウス ウェルギリウス
 マロー(BC70-BC19年)共和制ローマ ガリア=キサルピナ アンデス生まれ、古代ローマ帝国 ブリンディジ没

歴史悲劇の二人の詩神とウェルギリウス(3世紀のモザイク


18-19世紀フランスの新古典主義画家、ジャン=バティスト・ウィカル(フランス語版)による、「アウグストゥス、オクタウィア、リウィアに『アエネーイス』を読み聞かせるウェルギリウス」、シカゴ美術館蔵

「アイネーアス」
怪我をして手当てを受けるアイネーアス

アエネーアースの「ピエタス(英語版)」を表現する西暦紀元1世紀のテラコッタ。アエネーアースは老父を担ぎ、幼い息子の手を引く
は全12巻からなる叙事詩です。トロイア人の武将アイネアースの旅について、おそらくアウグストゥス帝からの委嘱で書きました。
これが、生涯最後の作品でした。

「トロイ人」
10年におよぶギリシャとトロイの戦争で人々は疲弊しきっていました。
ギリシャ軍が見えず、「戦争は終わった」と喜んでいるトロイの人々。

しかし、王女「カサンドルは様子がおかしい。何か災いが起こる。みんな早くトロイから逃げよ」と伝えますが、誰も信じようとしません。

「Gaston Bussière 作  1862-1928年」
そしてギリシャ人が残していった大きな木馬を引き入れてしまいます。

写本挿絵14世紀フランス国立図書館所蔵
すると木馬の中から隠れていた
ギリシャ兵が出てきて
トロイアの城内に侵入し、攻め落としてしまいました。

エネ(アイネーアス)はトロイの残党を率い、脱出し、カルタゴに流れ着きます。

炎上するトロイアから脱出するアイネイアース(1598年画、ボルゲーゼ美術館所蔵)
カルタゴは女王ディドが治めています。
エネが謁見するとディドを歓待します。

ピエール=ナルシス・ゲラン『トロイアの陥落をディードーに語り聞かせるアエネーアス』(1815年、ルーヴル美術館所蔵)

カルタゴの王はヌミディア人と戦い殺されています。
そのヌミディア人が侵略してきたと報せが入ります。
エネは出撃し、ヌミディア人を撃退します。
女王ディドの信頼を得たエネはもてなしの狩りに出ます。しかし、嵐が徐々に激しくなり、皆は散り散りになります。
エネとディドは2人で洞窟に逃げ込み、互いの愛を告白し、宿命的な恋に落ちます。

トーマス・ウィルボアーツ・ボスシェーアート 1613~1654 洞窟のディドとエネアス
しかしギリシャの英雄ヘクトルが現れ「イタリアで建国せよ」というお告げを繰り返します。
そのためギリシャの残党におされ、エネは旅立ちます。

出発するエネを見て、女王ディドは大きな薪を積み燃やし、家臣の前で胸に短刀を突き立てます。
ディドは死の苦しみの中でカルタゴの未来を見ます。
カルタゴが滅ぼされる姿とローマの建国です。
ディドは「永遠のローマ!」と叫んで息絶えます。

オーギュスタン・カイヨfr)作『ディードーの死』(1711年) ルーブル美術館所蔵
家臣たちはエネの民への復讐を誓います。

「王の狩りと雷雨」
エネとディドが狩りをしていると雷雨が起こり、二人は洞窟に逃げ込みます。愛を告白しあい、激しい雷雨とともに愛を深めます。





完璧に馬鹿な男の

2023-05-16 20:56:00 | 近代
日曜日は、池田公民館 大ホールでギター川原久美子さんと久米で縦型バスフルートとコンサートフルートで演奏してきました。

駅から続く鉄橋を降りた公園の中にある池田公民館。

池田公民館


コンサートフルートと縦バスフルートセット完了。

バスフルートとギターでジョン ダウランドの「Flow my tears」(流れよわが涙)
カルッリの「2つのデュオop158-1」を演奏しました。

打上げは池田のお好み焼き屋さんで。

池田には落語ミュージアムがあるそうです。

「池田の牛ほめ」(1687年出版)
「池田の猪買い」(1707年出版)
という有名な落語の舞台となったところです。

「池田の牛ほめ」は、トンチンカンな息子の与太に父親が、兄の新築の家を褒め、ついでに飼っている牛も褒めご褒美をもらおうと算段します。

与太は案の定褒め言葉を覚えることができず、紙に描いたものを渡します。
さて本番。与太は無事褒めを言い、ご褒美を頂けるのでしょうか?

「池田の猪買い」
冷え気(淋病)に悩む男が、獲れ立ての猪が病に効くときいて、池田の山奥に住む猟師の六兵衛を訪ねて行きます。

しかし物覚えの悪い男、行く道もろくに覚えられない。さて、男は無事猪肉を食べることができるのでしょうか?

グスターフ ホルスト(1874-1934年)イギリス イングランド チェルトナム生まれ、ロンドン没


オペラ「どこまでも馬鹿な男」(The Perfect fool )1918-1922年作曲の1幕もののオペラです。

当初、クリフォード バックスに台本を頼みましたが断られ、自分で台本も書きました。
後にバレエ音楽の組曲として編成され、それぞれ単独で演奏されることが多いです。

魔法使いが神秘的な方法で働き、華麗なバレエの形で空気、火、水の精霊を召喚するところから始まります。

彼の計画は、その日のうちに夫を選ぶ運命にある王女と結婚することです。

年配の母親が、眠そうにしている息子(愚か者)を連れてやって来ました。
母親は、息子が王女を口説いて結婚を勝ち取るという予言に夢中になっています。

魔法薬を与えれば息子は王女に愛されるでしょう。魔法使いは王女にこれを試します。

母親は、あくびをしている息子に魔法薬を投与している間に、魔法使いはすでにそれを真水に切り替えていました。

魔法使いは王女に求婚しますが、年を取って見難いと言われ、「若返るから」と魔法を試しますが効果がありません。
ついに激怒し、すべての人に死と破壊をもたらすと約束します。

吟遊詩人と放浪者が現れ、歌を聞かせ求愛しますが、彼女は何も反応しませんでした。

しかし、王女は息子(愚か者)を見ると彼に恋をし、結婚してほしいと頼みます。
彼は「ノー」という言葉で答えます。

魔法使いは愚か者の母からの厳しい叱責の言葉の後倒れ、焼け焦げてしまいました。

物語は前後し、混乱しているように見えます。英国女王と国民への比喩と皮肉であると言う説もありますが、上演数は少ないです。

スコアは、ワーグナーの「パルシファル」とドビュッシーの作品を皮肉っているようです。

この動画はオーケストラ版です。

祈り
大地の精
水の精 
火の精




南仏プロヴァンス組曲

2023-05-15 21:12:00 | 近代
実家のオリーブ、蕾がつきました。
探しましたが花はまだ1つも咲いていません。

近所の人が庭の薔薇を差し入れてくれていました。

昨日は別の人が庭で作った玉ねぎを持って来てくれていました。
本当にありがたいです。
オリーブは油分を多く含み、食用油として古代の油量作物として知られていました。
オリーブは旧約聖書でノアは鳩がオリーブの葉を咥えて帰ってきたのを見て洪水がひいたのを知りました。
紀元前700年頃古代ギリシャはオリーブの栽培によって国力を蓄え産油国なみの繁栄をしました。

現在でも98%が地中海沿岸諸国により生産されています。

ダリウス・ミヨー(1892-1974年)
フランス共和国の地中海沿岸 プロヴァンス地方のエクス=アン=プロヴァンス生まれ、スイス ジュネーブ没

アーモンド取引で財を成した裕福なユダヤ人の家庭に生まれました。

ミヨーの生家
父は商館を経営しながら、地元の音楽協会の中心人物を務め、母はパリで声楽を学んでいました。
7歳からヴァイオリンを学びます。
1909年パリ音楽院に入学。 
作曲を学びます。

バリ音楽院

1914年ミシア ゴプデフスキ

ルノワール画ミシア ゴプデフスキ
のサロンに出入りし、サティ、ラヴェルとも知り合います。

1917年第一次世界大戦が始まると、健康上の理由で軍には入れず(小児麻痺のせいで、車椅子を使うこともおおかった)
外交官秘書になります。

1917-18年にはブラジルで生活します。ブラジルの民謡特有のシンコペーションのリズムに惹きつけられます。

リオのカーニバル
この頃フランス6人組

フランス6人組 タイユフェール ミヨー オネゲル プーランク オーリック デュレはこの絵には入っていません。
の1人として知られるようになります。

1922年公演のためのアメリカ合衆国を訪問しハーレムのジャズや黒人音楽を研究し、それらを取り入れた「世界の創造」(1923年)を発表します。

1940年、ユダヤ人だったミヨーは第二次世界大戦を避けるためにアメリカ合衆国に逃れます。

戦後、フランスに戻り、パリ音楽院の作曲家教授に任命され、アメリカカリフォルニアのミルズカレッジ

と、1年おきに行き来する生活を送りました。
1971年にミルズカレッジを辞し、ジュネーブに移住し、ジュネーブで創作活動を続けながら亡くなります。

ミヨーの墓は故郷のプロヴァンスにあります。

「プロヴァンス組曲」は、1936年作曲。


「私は、プロヴァンス出身のフランス人であり、ユダヤ人です。」(ミヨー回想録 楽譜なしの覚書より)
8曲からなる管弦楽曲でプロヴァンス出身のフランス後期バロック音楽のアンドレ カンプラの音楽の素材や、プロヴァンス民謡の旋律、民族楽器のプロヴァンス太鼓を使っています。

作風は
「革新という言葉は嫌いです。先人の後を論理的に継続的に革命的ではなく更新発展の精神によって追求したという精神をいつも持っていました。」(音楽家の自画像より)と言っているように、新古典的に描かれています。




レオン!レオン!

2023-05-14 21:17:00 | 近代
白丁花ハクチョウゲの花が実家の庭に生えていました。

植えた覚えが無いので、鳥が運んできたのかな?

肩の骨を骨折した母は、タクシーで近所の病院に行ったら、後2週間は腕を釣っておいてと言われたそうです。
その後リハビリは自力で…。
そんなものなのかなぁ?
まあ、お琴があるから、リハビリは絶対するとは思いますが。
しばらくはまだ、食事を運ぶ日が続きそうです。

モーリス ラヴェル(1875〜1937年)フランス共和国シヴール生まれ、フランス共和国パリ没
1906年31歳に作曲した「博物誌」は、ジュール ルナールの5つの詩に歌とピアノをつけたものです。
ラヴェルの弟子マヌエル ローゼンタールが声楽とオーケストラのためのバージョンを作成しました。

この曲は初演を行ったメゾソプラノ歌手ジェーン バートリー

に捧げられています。

ジュール ルナール(1864-1910年)
フランス シャロン デュ メーヌ、マイエンヌ生まれ、フランスパリ没

鉄道建設に携わっている父フランソワとアンナの間に生まれました。
高等師範学校を目指すも成績が振るわず、文学に演劇ジャーナリズムに興味を持ち始め、進学を断念。パリで創作活動の道を歩みます。

軍隊に入り、詩や小説を書き始めます。23歳の時に倉庫会社の書記になりましたが、すぐに解雇されました。
ダルブラン夫妻の支援を受け、24歳の時にマリー モルノーと結婚します。
「メルキュール ド フランス」の創刊に尽力、ここで多くの詩や物語、評論を載せて、次第にルナールの知名度が上がってきます。
1894年に「にんじん」を発表します。

にんじんの挿絵1902年
1896年「博物誌」「愛人」をリリース。
1897年には散文劇「別れも楽し」を上演し、大成功を納め、一流作家の仲間入りを果たしました。

しかし、1897年には父親が病を苦に猟銃自殺を果たし、衝撃を受けました。
1900年レジオン ド ヌール賞を受賞。
1907年アカデミーコンクールの会員になります。1910年動脈硬化により46歳で亡くなります。

「博物誌」の初演は怒号が巻き起こり、途中で退出する人が出ました。

全体に一人芝居のようで
孔雀などは、「レオン!レオン!」と、叫ぶなど先鋭的で理解不能だったようです。

ルナールはラヴェルについて書いています。

「ダークで豊か、エレガントな「博物誌」の作曲家であるM. ラヴェルが、今夜彼の歌を聴きに行くよう私に勧めています。私は彼に音楽のことは何も知らないと言い、「博物誌」に何を加えることができたのか尋ねました。
彼は「何も付け加えるつもりはなく、単に解釈しただけです」と答えた。
「でも、どういう方法で?」
「例えば、あなたが木の前にいるとき、私はあなたが言葉で言うことを音楽で伝えようとしました。私は音楽で考え、感じています、そして私もあなたと同じことを感じていると思いたいのです。」

「博物誌」
孔雀
コオロギ
白鳥
カワセミ
ホロホロ鳥

「孔雀」
今日こそ間違いなく婚礼の式のはずだ

それは昨日のはずだった。着飾って、彼は準備していたのだ

彼は花嫁だけを待っていた。彼女は来なかった。遅れるはずがないのに。

意気揚々と、彼はインドの王子のような足取りで歩き回り 
豪華な贈り物を身に着けて持ち運ぶ。

愛する心がその色彩のまばゆさを高め 頭の毛は竪琴のように震えている。

花嫁はやってこない。

彼は屋根のてっぺんに登り 太陽の方を見つめる。

彼は悪魔の叫びを投げつける。

レオン! レオン!

こんな風に彼は花嫁を呼ぶのだ。だが誰もやってこないし誰も返事をしない。
家禽たちも慣れっこになって頭を上げようとすらしない。
彼らも感嘆するのに飽き飽きしているのだ。
彼は庭へと降りてくる、自分が美しいと確信しているので腹を立てることすらしないのだ。

彼の婚礼は明日に延びるだろう。

そこで今日の残りをどのように過ごすか分からずに、彼は玄関の方へと歩いてゆく。
そして階段を上ってゆくのだ、まるで神殿の階段のように、正式なステップで。

彼は婚礼衣装を持ち上げる その裾はもはや取れなくなった目玉でとても重くなっている

彼はそのセレモニーをもう一回繰り返す。



ヴェルナーの「のばら」

2023-05-13 21:01:00 | ロマン派
うちの庭の薔薇のアーチ。今年初ピエール ド ロンサール咲きました。
植えて10年位。
毎年大輪のバラを咲かせてくれていましたが、2年くらい前から黒星病に感染して、元気がなかった…。
消毒液を入れたり、水を控えたりしてきましたが、ちょっと苗が弱ったのか小さめ。 
今年はあまり期待できないかと思っていたら、咲きました。

小5のレッスン。
今日はお父さんも参観。
集中してフルートを吹いたので休憩。
「先生!バラさいた?」と言うので、
「咲いたよ!見てくる?」
走って外に出て「わぁ!咲いてる〜!」

そして、また、吹きます。
今日はゆっくりヴェルナーの「野ばら」を吹いてくれました。

大輪のバラばかりでなく、人差し指の先くらいのかすみ草咲きミニ薔薇も咲いていました。
「いちごも1つ採ってね。」

「あ!お父さんの分も!もう一つ。」
水をやり過ぎかな?あまり甘くないのですが、形もへん!
「あ!いちごや〜。」
「ホント、いちごだね。」
と、お父さんと食べて、
また、集中。
だいぶ、形になってきました。

ハインリッヒ ヴェルナー(1800-1833年)
ライネフォルデ=ヴォルビス生まれ、ヴブラウンシュヴァイク没

音楽教師で声楽家の父のもと兄、弟の次男として生まれます。
15歳まで父に音楽を学びます。
11歳で地元の教会のオルガンを弾いていました。
15歳でサンクトアンドレアス合唱団に入ります。兄と弟も一緒に入っています。
兄フリッツがプラウンシュバイクで音楽教師になると、ギムナジウムをやめて故郷に戻り、兄に音楽を学びます。
1822年音楽教師になります。
バーゲンマルクト歌劇場の合唱指導も始めます。
生涯84曲、主に歌曲を作曲をしました。
中でも有名なものが「野ばら」です。
1829年プラウンシュバイク合唱団でヴェルナー指揮で初演されると、たちまち人気になります。

ハインリッヒ ヴェルナーハウス
1832年秋に結核を患い、1833年プラウンシュバイクで亡くなります。32歳でした。

プラウンシュバイクのヴェルナーの墓

ヴェルナーの合唱「野ばら」

ゲーテの詞については以前の投稿で…。

「野ばら」4種 - 音楽の喜び フルートとともに

野茨の花。先週行った淀川の川べりたくさん咲いていました。「野ばら」Heidenrösleinは、ヨハンウォルフガングゲーテ(1749-1832年)神聖ローマ帝国自由都市フ...

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ロバの出てくる超有名なホラ話し

2023-05-12 21:00:00 | ロマン派
先日建碑式の後、食事をした杉五兵衛さん。

実は甲子園球場3個分の敷地があります。



果樹園や、

れんげの畑

ロバや、ヤギが農園の草を食べ、でた肥料をまた、畑に返す。

循環農法と言うそうです。
農園でできた作物をお料理して出してくれます。

代官屋敷と酒蔵を移築しました。
上に釣ってあるのは奥様がお嫁入りの時に乗ってこられた籠。

酒蔵の名残り

農耕は楽しみに通じ、大地に働く誇り。 文化や教育、情操を育て、安らぎを得ることができる。という理念で運営されています。

大きな夢です。

ロバも出てくる大きな夢の中で生きる男といえば「ドン・キホーテ」ラ・マンチャの男

ミゲル デ セルバンテス(154
5-1617年)スペイン帝国アルカラ・デ・エナーレス生まれ、スペイン帝国 マドリード没

によって書かれた小説です。
下級貴族の息子で、外科医の息子。

少年時代から読書課でしたが、父の仕事が安定せず、学校教育を受けずに育ちました。
19歳でマドリードに転居し、人文学者ロペス デ オヨス
に師事し、ロペスは「我が秘蔵の弟子」と呼び高く評価しました。

1569年ナポリでスペイン海軍に入隊し、レバントの海戦(1571年)
オスマン帝国との戦いで勝利
で被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続け、チュニスへの侵攻にも参加しました。

本国へ帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となります。この時士官のための推薦状を持っていたことがあだになり、巨額の身代金を重ねアルジェで5年間の捕虜生活を送ります。
この間4回も脱出を企てますが、ことごとく失敗しました。

1585年父親が亡くなると本人 姉 妹 妻 娘(私生児)の6人家族になり、稼ぎ手が少ない家計は逼迫しました。

無敵艦隊の食料調達係の職を経てスペイン各地を歩き回って食料を徴発しますが、教会から強引に取ったため投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破された
アルマダの海戦「無敵艦隊の敗北」1797年ラウザーバーグ
ために職を失います。

その後、なんとか徴税吏の仕事に就きますが、税金を預けておいた銀行が倒産。
負債として30倍の追徴金を背負わされ、
未納で、1597年に投獄されます。そのセヴィリア監獄の中で「ドン  キホーテ」を構想したとほのめかしています。

そして、1605年マドリードで「ドンキホーテ デ ラマンチャ」が出版されました。たちまち大評判となり、同年中に6版が重ねられました。

しかし、版権を安く売り渡していたため、生活面での向上は得られませんでした。

1615年には「ドン キホーテ後編」などを世に送り出しました。

バレエ「ドン・キホーテ」は、振付師マリウス プティパがレオン ミンスクの楽曲を用いて創作し、1869年モスクワのボリショイ劇場で初演されました。

マリウス プティパ(1818〜1910年)フランスマルセイユ生まれ、クリミアブルズフ没

3歳上の兄リュシアン プティパと共に父からバレエを教わります。リュシアンはパリオペラ座に入団して高い名声を得ました。

一方弟、マリウスは希望していたオペラ座に入団することは叶わず、ヨーロッパ各地の劇場を転々とした後にロシアに渡ることになります。
この間、マドリードのシルコ劇場で仕事を得ますが、恋愛がきっかけでフランスの外交官と決闘事件を起こし、指名手配を受けます。

1847年父とロシアのサンクトペテルブルクへ渡ります。
しばらくジュール ペローの助手として研鑽を積み、次期マスター サン レオンの助手としてやがてファラオの娘を初演するや大成功します。

サン レオンがフランスに戻ると1869年首席に就任します。プティパはモスクワの帝室劇場(現ボリショイ劇場)から依頼を受け、ドン キホーテを製作します。以降、コッペリア、ジゼル、眠りの森の美女なども発表し「クラッシックバレエの父」と呼ばれています。

レオン ミンスク(18。26から1917年)ボヘミアン王国ブルノ近郊生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

ポーランド人とチェコ人の血筋が入っているとされます。プティパの協力を得て20年近くにわたってペテルブルクのロシア帝室バレエ(現マリンスキーバレエ)のために舞踊音楽を作曲しました。

バレエ「ドン・キホーテ」あらすじ
騎士道物語を読みふけっているうちに物語に熱中するあまり騎士になりきってしまった田舎の郷士ドン キホーテはロバに乗った従者サンチョ パンサを連れて旅に出ます。

バルセロナの宿屋の娘キトリは床屋の息子バジルと恋仲です。しかし、キトリの父ロレンツォは2人の交際を認めず、代わりに金持ちの貴族ガマーシャと娘を結婚させようとしています。

キトリ

ドンキホーテはキトリを憧れの姫君ドゥルシネアだと思い込みます。

ドン・キホーテとキトリ
キトリとバジルは駆け落ちしてしまいます。居酒屋に逃げ込みますが、ロレンツォに見つかってしまい、結婚を強要されます。

森へ向かった。ドンキホーテとサンチョはヤンエーするジプシーの歓待を受けますが、そこで上演されていた人形芝居を現実と混同し、舞台に乱入します。そして、近くの風車を巨人と思い込んで突撃しますが、羽に引っかかって叩き落とされます。

バジルは一計を案じ、刃物胸に突き刺すふりをして狂言自殺を図ります。

キトリもバジルに調子を合わせ、瀕死のバジルとの結婚を認めるように父に懇願します。ロレンツォがしばしぶ了承すると、バジルは元気よく立ち上がります。


公爵の館でキトリとバジルの結婚式が行われ、

式を見届けたドンキホーテとサンチョは次なる冒険へと旅立ちます。