音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

肉球フィナンシェ

2024-05-21 21:01:00 | 現代
肉球フィナンシェ。
知恩寺の手作り市で買いました。
賞味期限…大丈夫。

これ見つけた途端、ギターの川原さんの顔が頭に浮かびました。

猫好き、可愛いもの好き💖
土曜日演奏の前にプレゼント。
「わぁ〜!かわいい。」
この声が聞きたかったんだよね〜!

早速撮影大会。
猫さんのボトルホルダーと一緒に。
このボトルホルダーの猫さん、川原さんが飼っているキジトラ猫の春夫さんそっくり。

この後、美味しく頂いてくれました。

アーロン コープランド(1900 - 1990年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ウィンチェスター没

は、20世紀アメリカを代表する作曲家のひとり。アメリカの古謡を取り入れた、親しみやすく明快な曲調で「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られています。

指揮や著述、音楽評論にも実績を残しました。

ニューヨーク州ブルックリン、ユダヤ系ロシア移民の息子として生まれました。

14歳で本格的にピアノを習い始め、作曲家を志したのは15歳のときといわれています。

16歳からルービン・ゴールドマーク
(1872-1936年)
(オーストリアの作曲家カール・ゴルトマルクの甥)に作曲を師事します。

1921年、21歳のときにパリに留学、アメリカ音楽院
1921年フォンテンブローに米軍軍楽隊のレベルアップのために設立されました。
でナディア・ブーランジェ
1887−1979年
の弟子となります。

パリ留学中にはジャズの要素を取り入れた曲を多く書いていましたが、次第に一般大衆と現代音楽の隔たりを意識するようになります。

1924年に帰国すると、「アメリカ的」音楽を模索、アメリカ民謡を取材・研究し、これを取り入れた簡明な作風を打ち立てる。出世作『エル・サロン・メヒコ』(1936年)が発表されました。
また『ビリー・ザ・キッド』(1938年)、『ロデオ』(1942年)、『アパラチアの春』(1944年)などのバレエ音楽で人気を博します。

その後、再び純音楽的作品に戻り、十二音技法を用いるなど曲折の後、晩年は非常な寡作と成りアルツハイマー病を発症して創作活動を事実上終えます。

「猫とネズミ」 は、彼の作品の中で最初に出版された作品です。

1921 年にフランスのパリで学校教育を始める直前に書かれました。

この作品は、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ

1621-1695年フランスの寓話作家
の寓話『老いた猫と若いねずみ』
1897 年版のオーギュスト ヴィマールによる寓話のイラスト
に基づいています。

この寓話はフランス王ルイ  
1682-1712年フランス王太子10ヶ月あまりの在位で亡くなりました。
の依頼により作られました。

経験豊富な猫に捕まえられたネズミは、「今は体が小さいので、猫の子孫のために太らせて食事を作った方が良い。」と主張して命乞いをします。

猫は、「そのような行為は私の性質に反している。」と答えます。「子どもたちは私の助けなしで自分たちで食べていくでしょう。」

この寓話は当時若い王子は傲慢でわがままだと考えられていて、人は常に思い通りに動くわけではない。という戒めがテーマになっています。






ピッコロの世界

2024-05-20 21:10:00 | バロック
日曜日11:00からドルチェ楽器で調整会でした。
ソウル支店から来てくれる小林さんの腕を信頼しています。
今回は買ったばかりの中古のハンミッヒのピッコロの調整が必要かも見て頂きました。

「これはG#キーがついてませんね。」
「ピッコロはこういう楽器なんですよ。調整に出しても鳴りにくいですよ。治すには少し大きめにキーを開けますが、そうすると他の音とのバランスが悪くなります。それか、G#キーをつけるか…それはここではできません。」
そうなんだ!知らなかったです。
G#出ないことは無いですが、苦しい。替え指を使ってやっと出るみたいな…。

ヤマハ、バーカード、パール六本のピッコロを試させて頂きました。
クラスはいろいろ。しかし、すべてG#キーは着いていません。

なぜかG#キーがないのに、簡単になる機種があります。
いずれもパールのウェーブの形のマウスピースの着いた機種。

24万の方は木製の頭部管、19万グラナディラ。
しかもグラナディラの方がすべて音が出しやすいです。

私のハンミッヒと吹き比べ。
冷静に観察。

ハンミッヒはG#は出にくいけれど、音質が良く、遠鳴りがします。
パールは悪くはないですが…。
G#だけのために替えるまではいかない。
もし、中古のハンミッヒか、バーカードでG#が鳴りやすいか、G#キーがついているものが出てきたら考えてもいいかな。ということで帰ってきました。

本来の目的コンサートフルートの方は調整バッチリ、スッキリしました。
ありがとうございます。

アントニオ ヴィヴァルディ(1678-1741年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没



ヴァイオリニスト、ピエタ院の音楽教師、カトリック教会の司祭。興行師、劇場支配人でもあった。多数の協奏曲の他、室内楽、オペラ、宗教音楽等を作曲。現代ではヴァイオリン協奏曲『四季』の作曲者として広く知られていす。

サン・マルコ大聖堂付きオーケストラのヴァイオリニストで理髪師の父ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィヴァルディからヴァイオリンを学ぴます。

10歳より教会附属の神学校に入り、15歳で神学校に入学し、25歳で司祭に叙階された。赤毛であったことから、「赤毛の司祭」Il Prete Rosso(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれるようになりました。

庶民階級のヴィヴァルディが、世に出て、さまざまな階級の人と引け目なく交わるには、聖職者になるのがもっとも確実な方法でした。

司祭の叙階を得た1703年、ピエタの音楽教師となりました。
その後、40年近くヴェネツィアの女子孤児養育院「ピエタ」で少女たちからなる合奏団を指導しました。


ヴィヴァルディが教鞭をとったピエタ慈善院付属音楽院
ヴィヴァルディの500曲を超すといわれる協奏曲の多くが「ピエタ」のために書かれたと言われています。

現在、ピッコロ協奏曲(RV443~445)として親しまれている3曲には”Flautino”が指定されているので、F管のソプラニーノ・リコーダー



アルトリコーダーより1オクターブ高い音域を演奏します。
のための作品だったと考えられます。

現在では、ピッコロフルートのレパートリーとして演奏されています。
ピッコロ協奏曲 ハ長調 RV443





クラリネットとヴァイオリン

2024-05-19 21:01:00 | 近代
土曜日午後14時〜堺市緑化センター、みどりのホールコンサートに出演してきました。
牧野からは京阪で京橋まで行って、

京阪快速急行とJRの上下交差のJR京橋駅
JR環状線で天王寺まで行って、鳳行きで10駅。



天王寺ではるかハローキティ号とすれ違い、テンション爆上がり。
百舌鳥駅で降りて

長塚古墳、世界遺産仁徳天皇陵。
前方後円墳の前を通って、やってきました。

体験型植物園 堺市都市緑化センター。

みどりのホール。
2列ほど椅子を並べて、誰が来るのかな?と思っていたら、後から後から人が現れて椅子を出して、詰めて、出して、詰めて頂いて…。満席に。
ちょっとびっくり。

ストーリーテリング
リコーダーカルテット
クラリネットとフルートのデュオ

そしてギターの川原さんが、タレガのアルハンブラ宮殿の思い出をされた後、フルート久米で、イベールの「間奏曲」ピアソラの「オブリビオン」「リベルタンゴ」。

2時間余りの長いコンサートの最後にも関わらずアンコールも頂いて、準備して無かったのでイベールの「間奏曲」を2回も聴いて頂きました。
喜んで頂いたみたいで本当に幸せでした。

帰り道、フランス人のクラリネット奏者ショカさんと京橋まで一緒でした。
ヴァイオリニストの奥さまが日本人ということで日本語お上手。

昔クラリネットをやっていて45年お休み…近頃また復活されたそう。
ソロでずっとされていましたが、今はブラスバンドに所属。
クラリネットライフを楽しんでおられるそうです。
奥さまのヴァイオリンと合奏されないのですか?
と聞いてみたら、音域がバッチリ同じなので合わないからやらないそうです。

フルートとヴァイオリンも重なっているけれど合奏曲結構ありますが、クラリネットは新しい楽器なのであまり無いのかも。

調べてみたらやはり少ない。
アレンジものはあるのですが…。
いいなあ~と思ったものは、ヴァイオリン、クラリネットにピアノのあるトリオでした。これがちょっといい感じ!

ダリウス・ミヨー(1892-1974年)フランス共和国エクス アン プロヴァンス生まれ、スイス ジュネーブ没

1939年作曲の「ヴァイオリンとクラリネットとピアノの組曲」op.157B

曲の作られた背景はよくわかりませんが、ブラジルの音楽を取り入れた組曲を成功させ、アメリカへ行きジャズを取り入れたバレエ作品「世界の創造」を完成させ作曲家として足場を固めていきます。
1925年いとこで女優で朗読家のマドレーヌ(1902 - 2008年)

と結婚しました。
1930年に彼女は息子、画家兼彫刻家のダニエル・ミヨー

を出産しました。作曲した1939年、第二次大戦下のフランスで、15世紀まで遡るユダヤ人の家系だったミヨーは、圧迫を感じていたことと思われます。

翌年1940年にはミヨーはナチスのフランス侵攻によりアメリカ合衆国に移住し、解放後まで帰ることができませんでした。






ベートーヴェンの母

2024-05-18 21:00:00 | 古典
金曜は久しぶりに母のお使い。
仕事を辞めて求職中だった姪が、東京に仕事が決まって、同居解消。
短い休憩でした。

今週、市役所に行って欲しいと言われ京田辺市役所まで書類を取りに行くミッション。

それだけで済むわけは無く、「まず、京都銀行。」と言うのて、京都銀行まで行って駐車場に入ろうとしたら
「違う。この近くの友だちの家やん。」
って聞いてない…急に方向転換したので警備員さんがびっくりしてる。
と言いたくなるのを平静に…平静に…。

「この辺りと思うねんけど〇〇さんの家」
それでたどり着ける?
「住所教えて。」路端に停めてナビ入力。
着きました。
「この辺りやったと思ったんだけど。」
…違います。

無事に友だちにお届け物をして、市役所へ。

昭和なオブジェ

一休さんゆかりのお寺、一休寺がある京田辺市のシンボルはやはり一休さん。

「これで帰ってもいい?」と聞くと「いつものお漬物買いに行きたいねんけど…。」
お祝いごとがあって生徒さんたちが集まるので配りたいらしい。

山城、青谷の市久八木さん。
山城大橋を渡って青谷へ、民家の並ぶ中の漬物屋さん。


ここの生しば漬けが美味しくて、母は長年ここで買っています。



私も好きです。

それから、「お茶も買いたい。」というので平和堂までいって、いつものお茶を購入。

「明日から量り売りのキャンペーンで安くなりますよ。」と、親切な店員さん。
「それがね。どうしても今日要るの。」やはり明日の大集合で使うらしい。
残念。
でも定価で買う所、シールシートが溜まっていて10%引きで買えました。

今日は午後からお筝のお稽古があるので、お昼を一緒に食べて、早めに放免
私も帰って翌日のコンサートの準備です。

土曜日午後〜、堺市都市緑化センター、「みどりのホールコンサート」でギターの川原久美子さんとフルート久米素子で演奏します。

曲はイベールの間奏曲
ピアソラのオブリビオン、リベルタンゴ。

他にもストーリーテリング、リコーダーカルテットやクラリネットとフルートの二重奏などもあります。
ぜひおいでください。

ベートーヴェン
の母は
マリア・マグダレーナ・ケフェリッヒ(1746-1787年)
神聖ローマ帝国エーレンブライトシュテイン(現在はコブレンツの一部)に生まれ、

父はヨハン・ハインリヒ・ケフェリヒ(1701年-1759年)、母はアンナ・クララ(旧姓ヴェストルフ 1707年-1768年)で、2人は1731年に結婚しました。

ヨハンは1733年からトリーア選帝侯

コンスタンティヌス大聖堂前にあるトリーア選帝侯宮殿(1615 ~ 1676 年、拡張 1756 年)(1846 ~ 1856 年に部分的に再建)。
の宮廷料理長を務め、エーレンブライトシュテインのシュロス・フィリップスブルクに居を構えていました。

マリア・マグダレーナは彼らの6人の子どものうち、末子でした。

1763年1月30日、彼女はトリーア大司教に仕えるヨハン・ゲオルク・レイムと結婚しましたが、彼は2年後1765年にこの世を去っています。

マリア・マグダレーナは1767年11月12日にボンの聖レミギウス教会でヨハン・ヴァン・ベートーヴェン

と再婚します。

ヨハンの父はボンにあったケルン選帝侯領


の宮廷でカペルマイスターを務めており、ヨハンもその宮廷音楽家てした。

ヨハンとマリアは7人の子を儲けました。
ルートヴィヒ(1770-1827年)
カスパール アントン(1774-1815年)とニコラウス(1776-1848年)の他は幼くして亡くなっています。

マリアは1787年に結核により40歳で命を落としました。彼女の生誕地は現在ムッター・ベートーヴェン・ハウスという博物館になっています。

暴君だったベートーヴェンの父に対して、マリアは情深く優しい女性だったと言われています。

ベートーヴェン16歳、モーツァルトを訪問するためにウィーンの旅に出掛けますが、ここで母危篤の知らせを受けます。

まもなくマリアは40歳の若さで亡くなります。
その後父はアルコール依存症となり、家計を支えなければならなくなったベートーヴェンは仕事を掛け持ちし、父や兄弟たちの世話に追われることとなります。

ベートーヴェンの手紙より。
「(母危篤の知らせを受け)彼女がもう一度復活し、困難に立ち向かう勇気を私に再び与えてくれることを夢見ましたが、7/17に闘病の末、亡くなりました。

彼女はあたたかく愛情深い母であり、私にとって一番の親友でもありました。
母の名前を呼ぶことが出来ていた時、私以上に幸せな人間は居ませんでした。

今はその名を呼んでも静寂が在るだけ。」

母のいる生活の中で作曲されたピアノ協奏曲第0番変ホ長調wo04
作曲当時ベートーヴェンは13歳で、この曲は彼の初期作品の一つに数えられます。

現存する楽譜のタイトルには「ピアノフォルテもしくはチェンバロのための協奏曲」と記されています。
「12歳で作曲した」と書かれていますが、これは父ヨハンによる偽称の可能性が高いそうです。
1890年に出版されました。





食事の時の曲

2024-05-17 21:03:00 | バロック
眼科に来ています。
目が悪くなって楽譜が読みにくくなってきました。
しかし、混んでいます。
眼科前の椅子はいっぱいて座れないので、外に溢れています。

待っている間することが無いので、ブログの下書き書いています。
Wi-Fiは不安定なので、eメールの作成画面に入力。後で投稿編集画面にコピペします。
途中で急に呼ばれても、保存作業しなくても画面に文字が残っています。

さて、検診が終わって、T-SITEでウィンドウショッピング。
フルートを入れる底45cm幅の軽量バックを探しています。

買いそうになりましたが、縦も長いのでやっぱりやめ。
縦はA4横が入るくらいでいいのです。手作り市でもず〜っと探していました。
もう、作ろうかな?
お昼になったので一人でランチ。

梅の花の季節限定ランチ
豆乳の茶碗蒸し、湯葉の佃煮、卯の花のマリネ、桜えび揚出し豆腐と餅豆腐と菜の花のあんかけ。
季節限定に弱いなあ…。
美味しかった。お豆腐ばかりですが、満足。
地下で次男のお弁当の野菜買って帰りました。

今日いただいたのはお豆腐料理で精進料理とは違いますが、その流れを汲むものです。

「五観の偈」は主に禅宗おいて食事の前に唱えられる偈文で
唐代の南山律宗の僧、道宣が著した『四分律行事鈔』中の観文を代に黄庭堅が僧俗のため訳したものです。

道元の著作『赴粥飯法』における引用によって日本で広く知られるようになりました。

僧侶の食事作法のひとつですが、道徳的普遍性の高い文章であるために限らず多くの分野で引用されています。
五観文、食事五観文、食事訓とも言います。

「五観の偈」
一 計功多少 量彼来処 : 功の多少を計り彼かの来処を量る。

この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をします。

二 忖己德行 全缺應供 : 己が徳行の全欠を忖って供に応ず。

自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。

三 防心離過 貪等為宗 : 心を防ぎ過がを離るることは貪等(とんとう)を宗とす。

心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、貪(仏教における煩悩のひとつで、 貪り、欲深いことを意味します。別名を貪欲ともいい、万の物を必要以上に求める心)など三つの過ちを持たないことを誓います。

四 正事良薬 為療形枯 : 正に良薬を事とする形枯(ぎようこ)を療ぜんが為なり。

食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得るために頂くのです。

五 為成道故 今受此食 : 成道の為の故えに今この食じきを受く。

今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。

「貪」にまみれる生活を送っている身には耳の痛い言葉です。

ヨハン・ヘルマン・シャイン(1586 - 1630年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領グリュンハイン生まれ、


は、17世紀ドイツの作曲家。同時代に音楽を築いたハインリヒ・シュッツ

1585年1672年
とザムエル・シャイト

1587-1653年
と合わせて、ドイツ・バロックの3Sと呼ばれています。

父の死をきっかけにドレスデンへ移り、同地でザクセン選帝侯の聖歌隊にボーイソプラノとして参加しました。

シャインは聖歌隊員として歌うのと同時に、その並外れた才能を見抜いた宮廷楽長のRogier Michaelに音楽教育を受けました。

彼は1603年から1607年にかけてプフォルタ校(Pforta)

プフォルタフュルステンハウス寄宿学校
で勉強し、その後1608年から1612年までライプツィヒ大学に通い、ここでは一般教養に加えて法学も勉強しました。

卒業後、シャインはすぐにゴットフリート・フォン・ヴォルファースドルフ邸に音楽教師として雇われました。

その後彼はヴァイマルの宮廷楽長となり、それから間もない1615年にライプツィヒで聖トーマス教会


のトーマスカントルの地位につき、同時にライプツィヒ市音楽監督となりました。

シャインは残りの生涯にわたってこの地位にありました(およそ1世紀後にヨハン・ゼバスティアン・バッハがこの地位に就任しています)。

シャインは生涯にわたり病気に苦しめられ、幸福で長い生涯を送ることが出来ませんでした。

彼の妻は子供の出産時に亡くなり、5人いた彼の子供のうち4人が幼少期に亡くなっています。

シャイン自身も、結核・痛風・壊血病および腎臓の病気を患った末、44歳で死去しています。

シャインは宗教音楽と世俗音楽をほぼ同じくらい作曲し、ほぼ全てが歌曲です。

シャインの世俗歌曲は、その歌詞全てを自らが執筆しています。

生涯を通じて、シャインは宗教音楽と世俗音楽の曲集を交互に出版していました。これは、彼が早期に、礼拝のための音楽と社交的な集まりのための音楽を交互に出そうと決心していたためです。

彼の宗教音楽の一部がイタリアの祈祷用マドリガーレにみられる洗練された技術を用いているのに対して、世俗音楽では酒宴歌にみられる単純さとユーモアが用いられています。

シャインの作品のいくつかは強烈な表現力をもっていて、当時のドイツではそれに匹敵するものはシュッツの作品のみでした。

シャインの最も有名な音楽集は、唯一の器楽集である「音楽の饗宴」(Banchetto musicale, 1617年)です。

この曲集には20の独立した変奏組曲が含まれていて、それらはこの形式としては最初期にして最も完璧な代表作とされています。

おそらくこれらの曲はヴァイセンフェルスやヴァイマルの宮廷における晩餐のための音楽として作曲され、ヴィオールによって演奏されることを意図していたと思われます。

「音楽の饗宴」パドゥアナ 







2024-05-16 21:00:00 | バロック
知恩寺の手作り市に行ってきました。
MさんとGさんと行くはずだったのですが、前夜にGさんからLINE。
風邪ひいたのでお休みします。ということでMさんと私の2人で行くことになりました。




にぎわいはすっかり元に戻っています。


本物そっくりの食品サンプルのお店。
Gさんに頼まれた剥きかけみかんのキーホルダーを買って…任務完了。
イケメンの長ネギコースターをいつものGさんお気に入りのお店でおみやげに買いました。早く風邪治して欲しいです。
鴨川を渡って、高島屋でGさんの帰郷のためのお土産を買って、いつものコース、ブックオフに寄って帰りました。
今日の収穫。

昭和ガラスのフレーム、トマトのピクルス、ちりめん山椒、ウィリアム モリスのエコバッグ、老舗のたわし、パンダの背中バッチ、肉球フィナンシェ、イヤリング、スマホ入れ、楽譜バッグ、スクエア小物入れ、ペットボトルホルダー。これだけ買っても、大台に乗らず。楽しかった。

Mさん曰く。
「今のうちにやりたいことやって、欲しいものを買っておかないと、さきの事はわからないから。」

確かに!

マラン マレ(1656-1728)フランス帝国パリ生没

アンドレ・ブイの肖像画、1704
パリ南の貧民街で見習い靴職人の子供として生まれ、幼少の頃から音楽の才能を認められて1667年にはパリ第一の音楽教育機関だったサン=ジェルマン=ロクセロワ教会の聖歌隊に入り、1672年までフランソワ・シャプロンなどのもとに教育を受けます。

聖歌隊を出た後、ヴィオールをサント=コロンブ( 1640-1700 年頃)のヴィオラ・ダ・ガンバ

ヴィオラ・ダ・ガンバ、フランス語でヴィオール
の著名な名手、作曲家)などに師事して、名手として知られるようになりました。

おそらくはリュリ門下の作曲家ジャン=フランソワ・ラルウェット

ラルウェット1651-1729年
などの手引きもあって、1676年にはパリのオペラ、そして1679年8月1日からはルイ14世(1643-1715年)


の宮廷のヴィオール奏者に任命されました。

作曲家としての名声も高くなり、1693年に最初のオペラ『アルシード』を発表し(リュリとの共作)、パリのオペラの作曲家、そして後には指揮者としても成功をおさめています。
晩年には、ヴィオールの優れた教師として知られました。

1676年9月21日に結婚した妻のキャトリーヌ・ダミクールとの間に生まれた19人の子供のうち、数人は音楽家として名声をなしました。

「パリの聖ジュヌヴィエーブの鐘」は、マラン・マレがヴィオール、ヴァイオリン、通奏低音付きチェンバロのために1723年に書いた作品です。

D、F、E のベースラインが繰り返されるパッサカリアまたはシャコンヌと考えることができます。

これはおそらくマレで最も有名な作品で、彼がサント・コロンブ氏の学生として学んだ楽器であるヴィオールのさまざまなテクニックを探求したものです

ヴィオールのパートは、マレがその楽器を熟知しているため、非常に困難です。
中心となるのはメロディーやヴァイオリンではなく、ヴィオールです。彼の作品は、必ずしもメロディーを持っているわけではありませんが、ヴィオラ奏者のスキルを披露するものであると考えることができます。

お寺には古今東西「鐘」が切り離せないもののようです。










花も咲かない世界

2024-05-15 21:00:00 | 国民楽派
今日は子育てサロンでした。
次男が骨折ったまま働きに出てるので車がありません。
うちから会館まで1.5キロ、久しぶりに歩きました。
子どもたちと遊んだあと歩いて帰ると、お馴染の景色もいろいろ変化があることに気づきます。

ここは人が住んでいましたが、廃屋になっていました。

猫さんだけがのび〜っとしていました。カメラを向けたらそっぽ向いて行ってしまいました。

この校区は空き家が増え、高齢化率高いです。
経済もインフラもイノベーションも人口がある程度維持できてこそ。
子どもがいないとお金も使わない。
引越しもないので、不動産も動かない。レジャーにもいかない。
国力も下がり、円も安くなる。
お花畑で何が悪いのでしょう。
花も咲かない不毛の国に誰が育つでしょうか?
本当は経済の問題なんて無くても、子ども達の声や笑顔があふれる世界がいいです。世界を暴力や恐怖や不安で満たさないで。

モデスト ムソルグスキー(1839-1881年)ロシア帝国カレヴォ生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

1865年ムソルグスキー
ムソルグスキーは魔術と悪魔の幻想というテーマに早くから興味を持っていました。
1858 年19歳に遡り、彼はN.V. ゴーゴリ

1809-1852年ゴーゴリ
の「イワン クパーラ前夜」

  
ディカーニカ近郷夜話 ロシア民話を下にしたゴーゴリの創作集で「イワンクバーラ前夜」が収められています。
を基にしたオペラの制作を計画していました。

2年後、彼はメングデンの戯曲「魔女」に基づいて作曲をデザインしました。

そのプロットは主要な特徴においてすでに「はげ山の一夜」のほぼ完成版でした。

1860年9月26日付のM・A・バラキレフへの手紙の中で、ムソルグスキーは台本の主な部分を挙げています。

「…魔女たちの安息日、魔術師たちの個々のエピソード、このくだらないものたちの厳粛な行進、フィナーレ…」

1866 年の春、出版されたばかりのM. S. ホチンスキーの魔術に関する本にインスピレーションを受けて、作曲家はバラキレフにこう告げました。

「私は魔女のスケッチを始めました、...悪魔の列車はまだ私を満足させません。」

そして4か月後、
「魔女について話したいと思っています。」

イメージは数年かけて徐々に成熟していきました。

6月23日にスコアを完成させたムソルグスキーは、リムスキー=コルサコフと喜びを分かち合い、ミュージカル映画のプログラムとそのコンセプトの特徴を詳細に説明しました。

「構成の計画と形式は非常に独創的です...散りばめられたバリエーションの形式は、このような混乱に最も適していると思います。作品の全体的な特徴は熱く、長さはなく、つながりは緊密です。」

1867年7月12日付のV.V.ニコルスキーへの手紙の中で、ムソルグスキーは次のように書いています。

「 ...私の故郷の畑に注ぎ込まれ、ロシアのパンによって栄養を与えられたオリジナルのロシアの作品です。」

聖ヨハネ祭(洗礼者ヨハネの誕生日)の前夜に不思議な出来事が起こる」というヨーロッパの言い伝えの一種、「聖ヨハネ祭前夜、禿山に地霊チェルノボーグ(黒い神」夜や闇、破壊と死、冥府の神・悪神とも言われています。)


が現れ手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎするが、夜明けとともに消え去っていく」というロシアの民話に基づいています。



編曲で有名な作曲家

2024-05-14 21:00:00 | 近代
月曜日は、フルートアンサンブル エスカルの練習でした。
筑前橋からの川を見たら凪でした。
止まった水面にビルが映り込んていました。

曲は
ドビュッシーの「小組曲」
「小舟にて」「行列」「メヌエット」「バレエ」の4曲。
ピアノ連弾をアンリ・ビュッセルがオーケストラに編曲しました。それをエスカルのメンバーの竹内さんがさらにフルートオーケストラ用に編曲しました。

6月のエスカル発表会で演奏するので熱が入ります。

途中、C#の音程が悪いと言い出された榎田先生。
「C#はね。ベームがベーム式フルートを作った時に、C.C#.Dオクターブの音を
1つのキーで出すために1番上のキーを小さくして少し上に開けたのですよ。つまり、妥協の産物。なので、どのフルートもC#が高い問題を抱えてしまったのですよ。」
「なので、C#を吹く時には気を付けて下さい。」
と言うわけで、C#は気を付けて吹きます。

ただしフルートメーカーによって誤差はありますが…。

アンリ・ビュッセル(仏: Henri Büsser、1872年1月16日 - 1973年12月30日)は、フランスの作曲家・編曲家・指揮者・音楽教師。

1895年ビュッセル

部分的にドイツ人の祖先を持っていました。彼はオルガニスト、フリッツ ビュッセル (1846-1879) の息子で、少年時代にアロイス・クンク の下でトゥールーズ大聖堂


の聖歌隊で歌い、その後1885 年にエコール・ニーダーマイヤー・ド・パリに入学してアレクサンドル・ジョルジュに師事しました。

1889年にパリ音楽院

1911年パリ音楽院
に入学し、オルガンをセザール・フランクに、作曲をエルネスト・ギロー、シャルル・グノー、ジュール・マスネに師事しました。  

彼は 1892 年のローマ賞コンクールで 2 位を獲得しました。同年、グノーの影響で、パリ近郊のサン・クルーのオルガニストに任命され、その職を30年間務めました。

1900年、ビュッセルはパリのシャトードー劇場の指揮者に任命されました。

1902年、彼はオペラ・コミック座でのクロード・ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』
ジョルジュ・ロシュグロスによる初演ポスター
の初演で舞台裏の合唱団を指揮し、当初の指揮者アンドレ・メサジェが他の契約上の理由で3回目の公演後に降板したとき、残りの公演を引き継ぎました。

ドビュッシーは当初、メサジェの指揮よりもビュッセルの指揮に感銘を受けなかったが、ビュッセルはすぐにこの作品をマスターし、ドビュッシーは

「クロード・ドビュッシーの感謝の意を込めて」と彼の楽譜に記しました。 

そして後にビュッセルに「小組曲」のオーケストレーションを依頼しました。

1904 年にパリ音楽院で教え始め、1905 年にはポール・タファネルの後任としてオペラ座

の指揮者に就任しました。

彼は1924 年のオペラ座での『ジゼル』再演のために、アドルフ アダムの 1841 年のオリジナルのバレエ音楽を再構築しました。

1931年に音楽院の作曲教授に昇進しました。

彼の生徒には、池ノ内友次郎、アンリ・デュティルー、ジャン=ミッシェル・ダマーズ、ロランデ・ファルシネリ、デニス・ロジェ、そしてローマ賞受賞者のアンリ・シャランがいました。

彼は 1938 年にガブリエル ピエルネの後任としてアカデミー デ ボザール(フランスのアカデミー協会学士会の1つ)
フランス研究所;アカデミー・デ・ボザールの本拠地
の会員に選出されました。

1939年から彼はオペラ・コミック座
の館長を務めたが、ナチス占領下の1941年にリヒャルト・ワーグナーに対する軽蔑的な発言を理由に解任されました。

しかし、彼自身の音楽には明らかにワーグナーの影響が反映されていました。

ビュッセルはかなりの量の音楽を編集、編曲しました。

彼の音楽的共感の広さと現代音楽だけでなく歴史的音楽への関心は、回想録『De Pelléas aux Indes galantes』(1955年)に反映されています。

彼の編曲には、リュリやラモーなど のフランスの作曲家の作品、ベルリオーズ、フランク、ビゼー、フォーレなどのその後の作品、さらにモーツァルト、シューベルト、ヴェルディの作品が数多く含まれています。

晩年にビュッセルはレジオン・ドヌール勲章の大士官に任命されました。 86歳のとき、彼は引退したオペラ歌手イヴォンヌ・ガルと結婚しました。

1919年ガル
彼は102歳の誕生日を目前にパリで亡くなりました。

ビュッセルはフルートの曲でも有名ですが
ヴィオラとピアノのための「熱情」op.34もよく取り上げられます。
1910年パリ音楽院の初代ヴィオラ教授テオフィル・ラフォージに捧げられました。


遅刻と巨匠

2024-05-13 21:02:00 | 近代
日曜日、午後からベートーヴェンの第九の練習でした。
天王寺区民センター。
毎回場所が変わるのですが…。
やってしまいました。
天満橋で八尾南行きに乗らなくてはいけないのに、大日行きに…。
あっていると信じ込んでいて4駅目になって四天王寺前夕陽ヶ丘駅が無い!
と気づいて、そんなはず無いと検索。
結局都島まで行ってしまいました。

早めに出たのにそこから折り返して5分遅れてしまいました。
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

みんなはその前にミサ・ソレムニスを練習しているので遅刻なし。
私はミサソレは降り番なので、今回は第九だけ…なのにお話になりません。

そういえば大フィル時代、榎田先生ある島に泊まって、翌朝本番というのに台風で欠航。
「どうしようもならなかった。」

「オーケストラの仕事の殆どはその場にいること。」とおっしゃっていました。

はい。その通りです。
以後気をつけます。

レナード バーンスタイン(1918-1990年)アメリカ合衆国マサチューセッツ州ローレンス生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没
ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として生まれました。
父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒でした。家族には音楽的な環境は全くなく、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったといいます。
理髪店を経営していた父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志しました。

ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学びます。
卒業後、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮に就任しました。

1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルター(1876-1962年)
1912年のワルター
の代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、ラジオでも放送され一大センセーションを巻き起こします。

1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任します。

1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演しました。

音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行いました。

マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾


大植英次

佐渡裕

など多くの弟子を世に送り出したことでも知られています。

作曲家としても「ウェストサイド物語」「キャンディード」など多くの作品を残しています。

1982年バーンスタインのリハーサルシーンの動画が残されています。

「私は今、テレビ映像のために、実際の演奏のライブラリーを構築したいと思う。 
私は録音がとても好きだ。

なぜならば、普段のコンサートでは注意を向けさせるのが不可能な部分までを、あなたがたに伝えるための方法が数多くあるからだ」
1970年のグラモフォン誌でバーンスタインはこのように語っています。

1930年にエイドリアン・ボールトによって創設されたBBC交響楽団は、英国放送協会が所有する放送オーケストラの一つです。

1950年にボールトが首席指揮者の地位を退いてからは、数多くの名指揮者がその地位を受け継ぎ、また客演指揮者としてもトスカニーニを始めとした錚々たる指揮者が顔をそろえています。

1935年BBC交響楽団トスカニーニ指揮

さて、バーンスタインは、このオーケストラとの初顔合わせの時に遅刻しできました。
その上、謝罪もしなかったというのです。

両者の関係は極めて前途多難なものになることが予想されました。

しかし実際にリハーサルが始まると、バーンスタインの強烈な解釈と情熱的な指揮は、たちまちオーケストラを魅了したのです。

彼らの「エニグマ」はLP時代から名演として通っていますが、その「名演」が生まれるまでのプロセスを、このリハーサル映像はつぶさに見せてくれています。

これは、バーンスタインとBBC交響楽団との唯一の映像です。
(ナクソスのDVD紹介より)

これは、その時の動画の1部です。
バーンスタインの魅力に圧倒されますが、決して巨匠も遅刻するから私の遅刻も赦されるなどと言いたいのではありません。ぶるぶるっ!




第12回聴き合い会

2024-05-12 21:02:00 | バロック
5月11日(土)の午後は牧野生涯学習センターの音楽室で第12回聴き合い会でした。
今回はギターの人の行事やオーケストラ練習などなど他の行事と重なってしまい参加者少な目。
その分ゆったりと合奏など楽しめました。
チェロの有馬さんとフルート今川さんと私の3人でハイドンのロンドントリオのハ長調。

写真自分は撮れなかった〜。
有馬さんのバッハ、チェロ組曲第2番のプレリュードとアルマンド。

森田さん、来週娘さんの結婚式で披露する曲の予行演習。

マンドリンの稲田さんと太田さん。
6月29日梅田のクラベリトで「バロックナイト」というライブをされます。
ヴァイスやヴィヴァルディを演奏しました。

旧友がやってきました。
田村さん、東京に仕事で行ってしまって10年以上会ってませんでした。
たまたま仕事で大阪に帰ってきたので…と無理して参加してくれました。
朝FBで知ったので楽器も持たずに来たので、私の楽器で吹いています。
なのでお相手は今川さん。
ベートーヴェンのデュオを初見で、初あわせ。
よく来てくれました!

2時間くらい、フルートトリオで「ふるさと」「アイネクライネナハトムジーク」フルート2本とマンドリンのトリオで、今川さんと久米でクヴァンツのデュオ。
またまた、
「ハイドンのロンドントリオ」全員合奏で3曲全曲演奏などなど。
みんなでやり切った感です。
よく吹き、弾きました。
楽しかった!

みなさんも楽器を持って演奏にきませんか?
「第13回聴き合い会」
来月は6月19日(水)
牧野生涯学習センター 音楽室
12:15開館 13:00〜18:00
「練習の成果を発表し、励まし合いましょう!」
1人15分協力金500円

ゲオルグ フィリップ テレマン(1681- 1767年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領マクデブルク生まれ、神聖ローマ帝国自由都市ハンザ都市ハンブルク没

2本のフルートのためのソナタ TWV40-103