音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

弱音器ヴァイオリン

2024-05-11 21:00:00 | 近代
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米素子で、アンサンブルレッスン。
曲はモーツァルトのフルート四重奏Adur。

8月5日の直子先生のヴァイオリンの発表会で演奏することになりました。

ヴァイオリンは弾きませんが、ボーイングをする時に音が動いても弓を背中の筋肉で固定して最小の動きで動かすこと。

音の中身を詰めるためには、左手がどんなに動いても、弓は力で押さないでゆっくり動かすことなど、フルートの体の使い方にも通じるところがあっておもしろいです。

曲の作り方なども「ここはpがいい?」とか聞いてくださるので、ぼうっと吹いていてはいけません。
自分なりの意見を持たなくてはと背筋が伸びます。

練習後、ケーキを食べながらのおしゃべりの時間も楽しいです。
帰ろうとおもったら赤い三角の物が床に落ちていました。
金重さんが「こんなところに飴が落ちてるわ。」
「あっ!ヴィックスドロップ。」と私。 
そしたら、直子先生が、「ああこれ、弱音器。こんなところに落ちてたわ。」 
「ほらこんな感じ。」

かわいい。

消音器はできるだけ小さい音量で演奏したい時に使用するもので、夜間の練習やアパート内での演奏などにおいて有効です。

それに対して、弱音器は演奏の特殊効果として使用しますが、ピアノの左ペダルと同じようなもので、楽譜に指示があれば弱音器を使って音をやわらかくします。

これは、ポリーミュートという消音器。

セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没 

1940年代には、転倒と脳震盪が原因でプロコフィエフの健康状態は悪化し、ほとんどモスクワ近郊の別荘に閉じこもっていました。

そこで1946年「ヴァイオリン・ソナタ第1番ヘ短調Op.80」を完成させました。

4楽章構成のソナタで、バロック(1600-1750)時代の教会ソナタを意識し、ヘンデルの「ヴァイオリン・ソナタニ短HWV359a」(c.1724年作曲)から発想を得たといわれています。
初演は1946年10月23日、モスクワ音楽院小ホールでダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)とレフ・オボーリン(ピアノ)によって行われました。 

その後、1953年プロコイエフは亡くなり、彼の葬儀で緩徐楽章の第1楽章と第3楽章がオイストラフとフェインベルクで演奏されました。

第1楽章の第2部と第3楽章は弱音器をつけて演奏されます。

第1楽章は弱音器を付けたヴァイオリンの32音符による12連符のフレーズ。
このフレーズを、プロコイエフ自身が<墓場に吹く風>のように演奏するよう指示しています。
この弱音器はこれっぽいです。
エボニー製




春の日の花と輝くの原曲とされた曲

2024-05-10 21:00:00 | ロマン派
バラ ピエール・ド・ロンサールのアーチが満開になりました。



















木曜は少し寒かったですが、これがいつもの5月かも…わからなくなってきました。

「春の日の花と輝く」は
元は "Believe Me, If All Those Endearing Young Charms"(私を信じて下さい。もし、あの愛らしい若者が魅力的なら) という詩で、アイルランドの詩人

トーマス・ムーア (Thomas Moore ; 1779-1852年)アイルランド ダブリン生まれ、イングランド ウィルトシャー クローバートンコテージ没

が1808年に、以前からあった曲 "My lodging is on the cold ground"(私の小屋は冷たい土地の上にあります。) の旋律を借りて発表したものだといわれています。

元になった "My lodging..." は民謡
音楽執筆家ウィリアム・チャペル (William Chappell ; 1809-1888) が1856年に出版した "Popular Music of the Olden Time..."に次のような楽譜が載せられています。

あれ?旋律が違います。

作曲は、イギリス初期バロックの大家マシュー・ロック (Matthew Locke ; 1621/22-1677)とされています。
ただしロックの旋律は最上声だけで、伴奏は19世紀の味付けをしていると思います。 

17世紀イギリスの詩人・劇作家にウィリアム・ダヴェナント (Sir William Davenant, しばしばD'Avenant とも ; 1606-1668)


という人がいます。
シェイクスピアが名付け親だとか、あるいはシェイクスピアの庶子という説もあります。
本人はこの噂を否定せず、むしろ自身の活動にうまく結びつけていたとも言われています。
彼が1656年に発表した『ロドス包囲戦』は、イギリス史上最初のオペラと言われています。
イニゴ・ジョーンズの弟子ジョン・ウェッブがデザインしたロードス島の眺め。1656年5月にラトランド・ハウスで行われたダヴェナントのオペラ『ロードス包囲戦』の「レチタティーヴォ音楽による」初演のバックシャッターに描かれました。

自身のオリジナル戯曲も多く存在しますが、現在ではもっぱらシェイクスピア作品の改作で知られています。

そんな改作作品の1つに、シェイクスピアとフレッチャー共作『二人の貴公子 (Two Noble Kinsmen)』

を元とする『恋敵 (The Rivals)』という悲喜劇があります。

初演は1664年、印刷は1668年。
初演時の評価はそれほど高くはなかったようです。

その中の一節に "My lodging..." があります。
初版ではなく、後世にダヴェナントの戯曲集として編纂されたもので、ダヴェナント自作の詩とされています。

ロックは劇場音楽にも関与していて『ロドス包囲戦』に他の作曲家とともにロックの名も出てきます。
なので『恋敵』にもロックが曲を提供した可能性もあります。

しかし、この曲は「春の日に花と輝く」とは違うようです。
いつの頃からか「春の日の花と輝く」の原曲と取り違えてきたようです。

1775年に出版された "Vocal Music of the Songster's Companion..." に現在知られている旋律が登場してきます。


また、1805年に出版された "The British Musical Miscellany..." に同じ旋律で "I Lo'ed ne'er a Laddie but ane" という曲が載せられています。

いずれも作曲者不明です。 

やはり、アイルランド民謡でしょうか?

春の日の花と輝く
Believe me, if all those
endearing young charms

アイルランド民謡、作詞:トーマス・ムーア
日本語詞:堀内敬三
1 春の日の花と輝く
  うるわしき姿の
  いつしかにあせてうつろう
  世の冬は来るとも
  わが心は変わる日なく
  おん身をば慕いて
  愛はなお緑いろ濃く
  わが胸に生くべし

2 若き日の頬は清らに
  わずらいの影なく
  おん身今あでにうるわし
  されどおもあせても
  わが心は変わる日なく
  おん身をば慕いて
  ひまわりの陽をば恋うごと
  とこしえに思わん

シモーネ マンティア(1873-1951年)


はアメリカ合衆国でもっとも古くユーフォニアム奏者として活躍した人です。当時はダブルベル バリトーン
で、大小のベルを切り替えて演奏したそうです。
それでも彼はユーフォニアム奏者の元祖と言われています。

マンティアがユーフォニアムとコンサートバンドの為に書いた「春の日の花と輝く」




逃亡と冒険の人生

2024-05-09 21:01:00 | 古典
近所のお庭のエゴノキ。
すぐに散ってしまいますが、かわいいです。



実を食べるとエグい味がするのでエゴの木というらしいです。
実って

ヤマガラさんがついばんでいるこれです。
サポニンが含まれているらしく、昔は若い果実を潰して泡だて、石鹸の代わりに使ったそうです。

エグいのはその成分のせいでしょう。
弱い毒でもあるので決して食べないで下さい。

チャールズ ニコラス ボクサ(1789-1856年)フランス モンメディ生まれ、オーストラリア シドニー没
ボヘミアの作曲家の父シャルルのもとに生まれました。
彼は7 歳までにフルートとピアノを演奏できるようになりました。  

1807年にパリ音楽院に留学し、翌年和声部門で一等賞を受賞しました。

彼は 1813 年にナポレオン帝国管弦楽団のハープ奏者に任命され、オペラ・コミック座

のためにオペラを書き始めました。

しかし、1817 年に彼は偽造、詐欺事件に巻き込まれ、訴追を避けるためにロンドンに逃亡しました。
彼は欠席裁判で有罪判決を受け、12年の重労働と4,000フランの罰金を言い渡されました。

ロンドンではフランスの法律の適用を受けずに安全を確保でき、1821 年に英国王立音楽アカデミー

の設立し、著名なハーピストを育てました。

1826年に彼の有罪判決が明らかになったとき、彼は辞任を余儀なくされました。

その後、ロンドンのキングス劇場

の音楽監督に就任しました。

1839年、作曲家ヘンリー・ビショップ


の妻のオペラ歌手アンナ・ビショップ(1810-1884年)

と逃亡します。

彼らは北米とヨーロッパ全土(フランスを除く)で一緒に演奏しました。ナポリでは、ボクサはサン・カルロ歌劇場

の館長に任命され、そこに2年間滞在しました。

1855年12月、ビクトリア朝のゴールドラッシュの頃、ボクサはビショップとともにオーストラリアのシドニーに到着しました。
しかし、上陸から、3週間後、ボクサが亡くなります。オーストラリアで彼らが一緒にコンサートを行ったのは1回だけでした。

ビショップは悲しみに暮れ、キャンパーダウン墓地に彼のために精巧な墓を建てるよう依頼しました。


「エチュード4番」はボクサが作曲したハープのための曲です。

エデュアルド サボン(1817-1893年?)がオーボエかサックスのために編曲しました。

これをさらにリコーダーで演奏した動画を見つけました。音域がちょうど良いそうです。
サボンは他に曲を残していないらしく資料もありません。
…ただSABON=石鹸で探していたらヒットしたのと、聞いていたら石鹸の泡が弾けているような曲だったので…。




鉄道に魅せられた男たち

2024-05-08 21:01:00 | ロマン派
連休明けは塚口駅近くのt-raumでハープのレッスン。
馬車の扉で先生とデュオを演奏して以来。
7月21日にハープの発表会があるのでその練習も始まりました。
基礎練習もなかなか難しくなってきました。

先生「なかなか上手になってきましたよ。」とニッコリ。
いやいや、まだそんなこと無いですが嬉しいです。励みになります。

t-raumのバラのアーチが綺麗でした。





猫さんは姿が見えませんでした。

横の白バラもツボでした。
帰り道、淀屋橋駅でトーマス列車に会いました。

ニア





パーシーも。
快速急行ではなく特急で帰ったので乗りませんでしたが、出会うと元気が出ます。

「機関車トーマス」の作者はウィルバート オードリー(1911-1997年)イギリス ハンプシャー州ロムジー生まれ、イギリス クロスタシャー州ストラウド没

司祭館で司祭の父ヴィアとルーシーのもとに生まれました。
庭には兄キャロルが父と作った鉄道模型が置かれていました。
1914年キャロルは出征し戦死します。
1917年にキャロルを失った悲しみから立ち直る為に家族揃ってウィルトシャー州ボックスに移り住みます。

新居の近くにグレート・ウェスタン鉄道(パディントン・ブリストル間)のボックストンネルがありました。

1848年製の広軌のアイアン・デューク級の1両、「ハイロンデル」 (Hirondelle)
そこを蒸気機関車が走り、ウィルバートは聞こえてくる蒸気やエンジンの音から機関車が意志を持っているように感じました。
オックスフォード大学に進学、1932年に大学を卒業し、翌年から3年間イスラエルで教職に付き、その時期にウィルバートと同じく教師としてイスラエルに赴任していたマーガレット・エミリー・ウェイルと出会います。

1936年イギリスに帰国し、マーガレットと結婚、1男2女を儲けます。(長男クリストファー、長女ヴェロニカ、次女ヒラリー)。

クリストファーが麻疹で寝ていた時に蒸気機関車が話すエピソードを息子に話し始めました、
これが、「汽車のえほん」となり、後に「機関車トーマス」になりました。


タリスリン鉄道
1952年以降はタリスリン鉄道等の保存鉄道のボランティア活動にも献身的に参加しました。

「汽車のえほん」にも「スカーローイ鉄道」としていくつか描かれています。

モデルとなったタリスリン鉄道の機関車。ピーター・サムのモデルとなった4号機のエドワード・トーマス号

「汽車のえほん」第10巻において「ピーター・サムのしっぱい」というエピソードとして執筆されています。
1984年「汽車のえほん」は「機関車トーマス」として映像化されます。
1983年からは息子のクリストファーが書き継いでいます。

エドゥアルド シュトラウス2世(1835-1916年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

ヨハン シュトラウス1世の4男(3男フェルディナンドは夭折)、ヨハン シュトラウス2世、ヨーゼフ シュトラウスの弟です。

彼は語学に長け、外交官になる夢を抱いていましたが、長男のヨハンによって強引にハープを学ばされ、音楽の世界に引きずり込まれました。

作曲家としては、父や兄たちほど成功しませんでしたが、指揮者としては遥かにうまく、シュトラウス楽団を引き継ぎました。

彼の最も成功した曲が
「テープは切られた。」op.45です。

1869年カイザー フェルディナンド 北部鉄道が開業30周年を迎えたことで開かれた記念舞踏会で演奏する為に作曲されました。

この鉄道は、ウィーンからブルノ(当時はブルン)、クラコフ(ポーランド領で当時はクラカウという名)を経由してワルシャワまで行く路線です。

1837年オーストリア帝国で最も早く開業した蒸気機関鉄道です。
1908年ウィーン駅






呻吟9年のピアノ五重奏曲

2024-05-07 21:03:00 | 近代
連休最終日は、枚方市文化芸術センターのリハーサル室でAPAの弾き合い(散らし会)でした。
チェロの有馬善一さんから誘われて
金重さんとほぼ一発合わせの室内楽会に行ってきました。

私はモーツァルトのフルート四重奏のDdurを演奏しました。
他にもモーツァルト弦楽五重奏やチャイコフスキーセレナーデ、フォーレピアノ五重奏曲、ドヴォルザークピアノ五重奏曲、 モーツァルトピアノ五重奏、ブラームス弦楽六重奏などなど、名曲揃い。

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没


1889年
ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 Op.89の
作曲期間は、およそ1890年から1894年にかけての5年間と1903年から1905年にかけての3年間に分かれています。

ピアノ四重奏曲第2番の初演後まもない1887年9月、友人のマルグリート・ボニーに宛てたフォーレの手紙によれば、フォーレはピアノと弦楽器のための新たな作品を構想し始めました。

1887年夏のスケッチ帳の中に、この作品の第3楽章で用いられることになる主題がヘ長調で記されています。

当初はピアノ四重奏曲としてスケッチされたこの曲は、やがて第2ヴァイオリンをつけ加えたピアノ五重奏曲に編成が拡大されました。

これについて、ベルギーのヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年)
曲の初演者となったウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年、1913年ごろ
が自身のソロ活動とともに弦楽四重奏団(en:Ysaÿe Quartet (1886))を率いていて、1888年及び1889年にブリュッセルでフォーレのヴァイオリンソナタ第1番と2曲のピアノ四重奏曲を四重奏団とピアノのフォーレと共演していたからと言われています。

五重奏曲の草稿は1890年の終わりごろにはかなり書き進められており、フォーレの次男フィリップによれば、アレグロとアンダンテの楽章がほぼ同時期に書かれていたといそうです。

このころイザイは彼の弦楽四重奏団のメンバーとともにパリのフォーレ宅

フォーレの自宅
を訪れ、書き上げられた部分を試演したました。このときの様子をフィリップは次のように述べています。

「アレグロの提示部は書き改められた。なぜならピアノのアルペジオに軽快さを欠いていたからだ。イザイが彼の四重奏団のメンバーとともにパリを訪れ、マルゼルブ大通りのサロンで書き上げられた部分を試演した。このときイザイは感激を表した。そして『五重奏曲』は彼に捧げられることが約束された。しかし、ガブリエル・フォーレは満足していなかった。気にかかっていた展開部がやはりよくなかったからだ。」— フィリップ・フォーレ=フレミエ

五重奏曲の作曲は一時中断され、フォーレは1891年5月から初めてヴェネツィアに滞在します。

現地で後のポリニャック公爵夫人(フランス革命のもととなったポリニャック夫人の孫)ウィナレッタ・シンガー(1865年 - 1943年)


に迎えられたフォーレは、同年9月にポール・ヴェルレーヌの詩に基づく『5つのヴェネツィアの歌』(作品58)を完成します。

また、エンマ・バルダック
エンマ バルダック後のドビュッシーの妻
との交際から、1892年から1894年にかけて連作歌曲『優しい歌』(作品61)を作曲し、このことでフォーレ夫妻の間には気まずい雰囲気が流れ始めました。

1894年6月、フォーレはポリニャック公爵夫人に宛てた手紙に「(五重奏曲が)完成するまでは決してこの曲から離れない」という固い決意で臨み、出版社のアメル社は1896年の春にこの曲が作品番号60として目下印刷中であると公表しました。

この間、1894年の7月には夜想曲第6番、同年9月には舟歌第5番と、フォーレの「第二期」を代表するピアノ曲が完成されています。 しかし、ピアノ五重奏曲の筆は進まず、フォーレはまたしても作曲を中断、長らく放置されることになりました。

ピアノ五重奏曲第1番の作曲が再開されたのは1903年で、フォーレ58歳のときです。

前年の1902年秋からフォーレはスランプに陥っていました。 フォーレの友人エミリ・ジレットの日記では、フォーレの疲れ果てた状態について「ひどい偏頭痛に苦しみ、黄ばんだ顔で、光のない眼、……とにかく驚くような」と記しています。

1903年3月からフォーレは「フィガロ」紙

の音楽批評を担当し、4月にはレジオンドヌール勲章(勲四等)を授与されました。

一方で、晩年のフォーレを悩ませた聴覚障害の兆候が同じ年の夏から始まっています。

この年からフォーレは夏の休暇をスイスで過ごすようになり、これは1914年まで続くことになります。

1903年8月、スイス滞在が始まると、フォーレは新しい作品を書き始めました。当初はヴァイオリンソナタが念頭にありましたが、その後これはピアノ五重奏曲第1番の緩徐楽章となっていき、この年から3年間の夏を通じてこの曲は完全に書き改められ、さらに新しい部分がつけ加えられました。

1905年の夏、チューリヒのシュテルンヴァルテ荘でフォーレはピアノ五重奏曲第1番をついに完成させました。

1905年
同年10月、「ラヴェル事件」(1905年ローマ賞の選考で実績のあるラヴェルを予選で落としたことにより責めを負いました)によって辞任したテオドール・デュボワ


の後任として、フォーレはパリ音楽院

の院長に就任します。またこのためにマドレーヌ寺院の主席オルガニストと音楽学校視学官を辞任しています。

フォーレの手紙から
スイス滞在中にフォーレは妻マリーに宛てて頻繁に手紙を書き、ピアノ五重奏曲第1番の進捗状況を伝えています。このうち1903年にローザンヌから出された手紙には、フォーレの音楽や室内楽ジャンルに対する姿勢が表明されています。

「この新しい室内楽作品についての君の助言に感謝します。君が言うとおり、このジャンルはたしかに重要なものです。真の音楽、一人の人格のもっとも真摯な自己表現というものは、管弦楽か、あるいは室内楽を通じてのみ実現できると思っています。」
— 1903年8月27日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙
1889年のフォーレとマリー

「私にとって芸術、とりわけ音楽はわれわれ人間をこの世に存在するものよりはるかに上の最も遠いところに高めることに存在している。」
— 1903年、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

翌1904年、チューリヒからの手紙では、作曲が難航し呻吟している様子が伝えられています。

「第1楽章のとても微妙な書き直しには、大変神経を使いました。今こうやって見直してみると、見違えるほど自然な曲になりました。」
— 1904年8月31日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

「曲を作ると言うことはなんと大変なことなのか……。そして、自分を天才だと思い込んで、つまらない作品にも満足できるような人々はどれほど幸せなことだろう! 私はそういった人たちを羨ましく思います。」
— 1904年9月1日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

「へとへとになるまで仕事をしたというのに(……)全く、何もできなかった! 厚い壁が立ちふさがっている。」
— 1904年9月2日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

1906年3月23日、ブリュッセルのセルクル・アルティスティク(Cercle artistique)にて初演。パリ初演は1906年4月30日、サル・プレイエルにて。

サル プレイエル
いずれもフォーレのピアノとイザイ四重奏団(ウジェーヌ・イザイ、エドゥアル・ドリュ、レオン・ヴァン・ホウト、ヨゼフ・ヤコブ)の演奏によります。

ブリュッセルでの初演当日、フォーレは妻に宛てた手紙に次のように記しています。

「イザイが、この五重奏曲の作風は私の二つの四重奏曲のものより優れており、格調が高く、それにどのような作品にも見いだし得ない純粋な絶対音楽の響きが備わっていると指摘してくれました。

私は、彼がこんな印象を持ってくれたことを、とても嬉しく思っています。

目下のところ私は、音楽という媒体を通じて、すべてを指向しようとするものだと考えているので、なおさら嬉しく思えるのです。

ロジェ=デュカスは、この作品が格調の高さと純粋さだけで後世に残るということに対しては、恐らく不満を感じることでしょう。
でもそんなことは私にとっては全くどうでもよいことなのです。

なぜなら、私は自らの音楽表現が万人に理解してもらえるなどとは、心底期待していないのですから。」
— ピアノ五重奏曲第1番の初演当日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

曲は試演時の約束どおり、イザイに献呈されました。

1907年、ニューヨークのシャーマー社から出版されました。






シューベルトが食べたかもしれないお菓子

2024-05-06 21:04:00 | ロマン派
3日は私は家でギターと合わせでしたが、夫と次男は和束町まで行っていたようです。

和束町ホームページより
和束町は「茶源郷」
宇治茶の里です。宇治茶の4割を生産しているそうです。

鎌倉時代に海住山寺にいた高僧「慈心上人」

が、茶業興隆の祖と言われる「栂ノ尾の明恵上人」から茶の種子の分与を受け、鷲峰山山麓

に栽培したのが始まりであると言われています。

また、天正年間(1573~1592年)には、和束郷原山の地に57アールほどの畑を開き、茶の実を蒔いたと言う記録が残されています。その当時は自家用に使われていたと言われています。

和束町原山の円形茶園
1700年中期からはお茶の栽培が増え、煎茶を専門にする農家が出始め、江戸時代中期からの茶保護施策により、和束茶業も一層発展し今日に至っています。
(和束町ホームページより)

ということで、

新茶の季節です。

茶団子は、煎茶、ほうじ茶、玄米茶味の3本。
もちろん、

バラして、刺しなおして三色団子にして

和束町の新茶と頂きました。

極楽、極楽…。

フランツ シューベルト(1797-1828年)神聖帝国オーストリア大公国リヒテンタール生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
ヴィルヘルム・アウグスト・リーダーによって描かれたシューベルトの肖像画(1825年)
がウィーンで通ったというレストラン
Restaurant zu den drai Hacken
 
今も営業しています。

お茶というより、カフェでもあるので、当時大流行りしていたコーヒーを飲んでいたと思われます。

お菓子のメニューの1番目には

キャラメリゼしたウィーン風カイザーシュマーレン、ローストプラム添えと書いてあります。今のカイザーシュマーレンは凝っています。

もともとのウィーン伝統のお菓子カイザーシュマーレンは、薄いパンケーキで、小麦粉、卵、砂糖、塩、牛乳を混ぜ合わせた甘い生地をバターで焼いて作ります。

卵白と卵黄を分け、卵白を固くつのが立つまで泡立てから、小麦粉、砂糖と混ぜた卵黄、ラム酒に浸けた干しぶどうを入れます。

パンケーキを焼いて固まりかけたら引き裂いて小片にして、粉砂糖をふりかけ、アップルソースやプラムソース、またはスモモ、コケモモ、イチゴやリンゴといった果物のコンポートを添えて温製でだされます。

シューベルトも食べたかもしれない…と思ってここまで書いたら、新事実発見!

カイザーシュマーレンのカイザーは皇帝の意味で伝説によるとフランツヨーゼフ一世皇后エリーザベト
新婚の皇帝夫妻

エリーザベト
が太らないために低カロリーのデザートばかり食べるのを気にして作らせたのがカイザーシュマーレン。

エリーザベトはこの栄養豊富なデザートを見て、やはり食べるのを拒否。
怒った皇帝は「「即席」シュマーレンshmarrnで作ったのか?」と皮肉を言ったそうです。
が、結局のところこのデザートを気に入り2人分を食べたそう。
たがらカイザーシュマーレンと名がつけられたとか。
この話は本当かどうか?わかりません。

本当ならシューベルトは食べたことがないです。フランツ一世が生まれる2年前に亡くなったから。

シューベルトは、お料理を作るのが好きで、野菜くずと牛肉とうまく炊いて友達に振る舞ったりしたそうです。
美味しいけれど余り物で作ったのを恥じてかレシピを教えなかったそう。

きれいに焼いたパンケーキをわざわざちぎってグダグダにして作るシュマーレンはシューベルトに似合っているように思えて…。

ハンガリーでは庶民がお菓子としてではなく、食事の代わりに食べていたそうなので皇帝の話しは後付けのような気がします。
知らんけど😅💦

シューベルトが天国の女神よりも現世のラウラの微笑みの方が嬉しいと歌う曲を作っています。
カフェでシュマーレンを彼女とたべながらシューベルトも至福の時を味わっていたのかも。

歌詞はルートヴィヒ ヘルティ(1748-1776年)神聖ローマ帝国ハノーファー生没


「至福」
数え切れないほどの喜びが
天国の広間に咲いている!
天使や聖者もいると
神父さんは教えてくれた
ああ、そこへ行って
永遠の喜びを得たいものだ

天国の女神が
だれにでも微笑みかける
ハープがなって、
みな踊り、歌うんだ
ああ、そこに行って
永遠の喜びを得たいものだ

でも僕はこの地上にいる事にする
ラウラが僕に微笑みかければ
一度のまなざしで
僕の嘆きは消え去ってしまう
だから僕は彼女と幸せに
永遠にここにいるんだ




湖畔で生まれた曲

2024-05-05 21:01:00 | ロマン派
午前中レッスンをして午後から栗東の長男宅へ。

お昼を近所のスーパーで買い込んで行ってお昼ご飯を部屋で食べました。

その後、オトコ3人は琵琶湖で釣り。

私は部屋で練習。
近江富士が見えます。

夕方、
釣りから帰って来た3人。
「どうだった?釣れた?」
釣れました。

ブルーギル。
これはリリース禁止。
次男がさばいて
フライに。

これを野菜と

パンの上に乗せてタルタルソース

ブルーギルバーガー

野菜もこんもり。
カブの浅漬は、半分は冷蔵庫に入れて、明日からの長男の食料に。

ヨハネス ブラームス(1833-1897年)
自由ハンザ都市ハンブルク生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

は、1872年に詩人のJ.V.ヴィートマンとチューリヒで知り合い長い交流が続きました。

ヴィートマンにブラームスは「トゥーンはいいところだよ」と言われて、1886(51歳)〜1888年(53歳)の夏の間、トゥーンに滞在することになりました。


オーヴァーホーエン城(スイス政府観光局)

トゥーンを紹介したヴィートマンは、近くのベルンに住んでいたため、ブラームスは週末になるとベルンへ赴いてヴィートマンの家に居たそうです。

トゥーン湖に面したニーゼン山に、ヴィートマンと一緒に登ったこともあります。

標高は2362m。

しかし1888年ここで滞在中に友人の訃報を耳にしたブラームスは、トゥーンへ足を運ぶことはなくなりました。

トゥーンで作曲された作品(1886〜1888年)
チェロ・ソナタ第2番 ヘ長調 作品99
ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100
ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調 作品101
ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102
ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108

チェロソナタ 第2番ヘ長調 作品99



は、第1番完成から21年経過してからの2番です。
ヴィートマンがチェロを弾いたことからトゥーンで演奏する為に作曲されたのではないかと言われています。

ジャクリーヌ デュ プレとダニエル バレンボイムの演奏が残っていました。










パリ音楽院の教授

2024-05-04 21:00:00 | ロマン派
連休、うちはみんな暦通り。やっとお休み。
3日、ギターの川原久美子さんが合わせに来てくれました。

5月18日(土)堺市都市緑化センター
「緑のホールコンサート」に二人で出演します。
イベールの「間奏曲」ピアソラの「オブリビオン」「リベルタンゴ」を演奏します。
何度もやっているので慣れているはずですが、結構何か起こりがち、特に「オブリビオン」音符少ないから
油断しちゃうからかも…集中、集中!

今日のお菓子
6月30日西宮ギター練習会でやるジュリアーニの「協奏的大二重奏曲」op85第1.2.4楽章をします。
川原さんとは第1.2楽章は初めてなので、大体のテンポや方向だけ決めました。
真面目に練習した後は、くずはモールでランチ。
新装開店した五穀 
山里定食

豆乳汁を出してから温めてくれるのが新しく、ダシが効いていて美味しかったです。
五穀ご飯も!

チェロの有馬さんから5月6日に枚方市文化芸術センターで演奏するファランクのトリオ第1楽章と第2楽章の楽譜、先週決めたばかり…ファランクって誰?という始末。
しかもお休みなので明日は家族でどこか行くとか言ってるし…。
大丈夫か?

ルイーズ ファランク(1804-1875年)フランス パリ生没

彫刻家の父の元に生まれました。
幼い頃からセシル・ソリアにピアノを学び初めました。
イグナス・モシェレスやヨハン・ネポムク・フンメルなどの巨匠からレッスンを受け、才能を発揮し、1819年両親は彼女をピアニストにすることを決めました。

15歳、パリ音楽院の作曲教師アントン・ライヒャに作曲を学びます。

しかし、当時は女性が伝統的な作曲クラスに参加することが禁止されていたため、彼女は個人レッスンで学びました。

1821年、彼女は10歳年上のフルートの学生であったアリスティド・ファランクと結婚し、彼女はルイーズの家族が住んでいたソルボンヌ大学で定期的に開催されるコンサートの一部に出演しました。

結婚後、ファランクは学業を中断し、夫とともにフランス全土でコンサートを行いました。

しかし、夫はすぐにコンサート生活に飽き、彼女の援助でパリに出版社を設立し、エディション・ファランクとして40年近くフランスを代表する音楽出版社の一つとなりました。

パリでは、ファランクはライヒャのもとで学業に戻り、その後コンサート活動を再開しましたが、1826年に娘ヴィクトリーヌを出産したため一時中断しました。

1830 年代に、ファランクは演奏家としてかなりの名声を獲得し、その名声により 1842 年にはパリ音楽院のピアノ教授の常任職に任命されました。

ファレンクの肖像画 (1835 年) 作:ルイージ・ルビオ

彼女はこの職を30 年間にわたり務めました。

ファランクは、19 世紀を通じてパリ音楽院で尊敬される地位と階級を維持した唯一の女性でした。

当時の記述には、彼女が優れた指導者であり、多くの生徒が一等賞で卒業し、プロの音楽家になったことが記録されています。
それにもかかわらず、10年近くの間、男性の同僚よりも給料が低く抑えられていました。

有名なヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムも参加した『ノネット』(九重奏曲)の初演が勝利を収めた後になって初めて、彼女は同一賃金を要求し、受け取るようになりました。

娘のヴィクトリーヌもコンサート・ピアニストとなりましたが、1859年に30歳で結核のため亡くなりました。

ファランクは教育と演奏のキャリアに加えて、古楽の演奏スタイルに関する影響力のある本「ピアニストの至宝」(Le Trésor des pianistes)を制作および編集し、 1861 年にアカデミー・デ・ボザールのシャルティエ賞を 2 度受賞しました。
1865年 夫のアリスティドが亡くなります。その後ファランクは作曲から遠ざかり1869年リで亡くなりした。

フルート、チェロ、ピアノのためのトリオ ホ短調 op. 45 (1862)

作曲家として、ファランクは多作で、交響曲からピアノ独奏の小品まで、さまざまなジャンルで作曲しました。

しかし、彼女の最も重要な成果はおそらく室内楽です。
1839 年から 1862 年にかけて、彼女はさまざまな楽器の組み合わせによる一連のソナタ、トリオ、五重奏曲、六重奏曲、およびノネットを完成させました。フルート、チェロ、ピアノのためのホ短調三重奏曲は、当時もその後も前例の少ないアンサンブルで、これが彼女が作曲した最後のアンサンブルでした。

やってみたらドラマティックでなかなかいい曲です。頑張ろうっと。



バラの名前になった詩人

2024-05-03 20:54:00 | ルネッサンス
うちのピエール・ド・ロンサールが咲いてきました。
バラのアーチ全体はまだもう少しなのですが。


ピエール・ド・ロンサール(1524-1585年)フランス王国ロワール=エ=シェール県ラ・ポワソニエール生まれ、


貴族の家で末っ子として生まれました。彼の一族はドナウ川の北のルーマニア一帯の出身でした。

12歳の時、パリのコレージュ・ド・ナヴァルへ送られました。
そこで王太子フランソワ

1518- 1536年18歳没
の小姓に列せられ、次いでその弟オルレアン公シャルル
1522-1545年23歳没
に仕えました。

マドレーヌ王女
1537年結婚しますが、結核でその年に16歳で亡くなりました。
がスコットランド王ジェームズ5世と結婚した時には、彼女に付き従い、その後3年間をスコットランドで過ごしました。

1540年にフランスに帰還すると、再びオルレアン公シャルルに仕えました。

この職で彼はフランドルに派遣され、それから改めてスコットランドに派遣されました。

その後、ジャン=アントワーヌ・ド・バイフ

1532-1589年プレイヤード派の詩人
の父ラザルの秘書となります。ジャン=アントワーヌは、ロンサールの友人でもあり、後には同じプレイヤード派(ギリシャ時代の文芸を規範とする詩人の一派)に加わることになります。

ロンサールの前途洋々たる外交的な職歴は、不治の難聴に見舞われたことにより、突然の中断を余儀なくされます。

そこで彼は、学問に生涯を捧げることを決意しました。

ロンサールの学び直しは7年に及びました。
そしてとうとう処女作『オード』四部集(1550年)を公刊しました。
1552年には、『恋愛詩集』と同時に『オード』第五部が出版されました。

これらの作品集は、フランス文学界に論争を巻き起こしました。

マロ派(クレマン・マロの影響を受けた一派)の首魁メラン・ド・サン=ジュレ
は、国王の前でロンサールの詩を詠み上げる時に、こき下ろす目的で滑稽に詠みました。

しかしある時、王妹マルグリット(後のサヴォイア公妃)

1523-1574年51歳没 フランソワ一世の子どもで唯一長生きしました。
が、メランの手から詩集を取り上げ、詩本来の素晴らしさを活かして詠み上げました。
詠み終わると、その詩に魅せられた大広間からは、割れんばかりの拍手喝采が沸き起こりました。

その栄光は急激でした。大衆におもねる必要も全くありませんでした。

1555年から1556年には、サヴォイア公妃マルグリットに捧げた『賛歌』を出版しました。

彼は1556年に『恋愛詩集』を完成させました。伝説では1560年にフランソワ2世

1544-1560年16歳没
と結婚したメアリー・スチュアート

1542-1567年スコットランド女王。1559年フランソワ2世と結婚。ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートは2度目の夫で、後のイングランド国王ジェームズ1世の母。
の要請で全集を編纂し、1565年には、『フランス詩法の抜粋』と同時に『哀歌、仮面舞踏会、牧歌』を出版しました。

1560年前後にはフランス王は目まぐるしく替わりましたが、ロンサールの立場が悪くなることはありませんでした。フランソワ2世の後に即位したシャルル9世

1550-1574年24歳没
もロンサールに魅せられました。

シャルル9世の死後も、ロンサールの宮廷での厚遇に変化はなかったようです。

ロンサールは多くの友に先立たれ、自身の病気は悪化していましたが、エリザベス1世を含む外国の君主たちは、彼に贈り物をすることがありました。

病状にもかかわらず、ロンサールの創作はなおも優れた水準を保ち、晩年の作品のいずれをとっても傑作でした。
1585年12月27日、ロンサールはトゥールのサン=コーム教会に葬られました。

1545年「恋人よバラを見に行こう」は、カッサンドル サルヴィアティという女性に寄せた詩です。
彼女はイタリアの銀行家の娘で15歳、ロンサールが21歳の時の出会いでした。
恋は成就しませんでした。

オードは歌われることを前提にした詩で、リュートでジェハン シヤルダヴォイン(1538-1580年フランス王国アンジュー生まれ、没地不明)が曲をつけています。

「カッサンドルへのオード」より
恋人よ、見に行こう
けさ、あけぼのの陽をうけて
紅の衣をといた、ばらの花
今宵いま、赤い衣のその襞も
あなたに似た色つやも
色おとろえていないかと。

ああ、ごらん恋人よ、
何とはかない、バラの花 
大地にむくろをさらすとは!
おおつれない自然  
この花のいのちさえ、
あしたから、ゆうべとは。

だから恋人よ、
ぼくのことばを信じるならば、
水々し、花の盛りのその齢に
摘め、摘め、あなたの若さを、
この花ににて、じきにくる老年に
あなたの美しさも褪せるのだから。 
出典:平凡社 世界名詩集大成 
オード集 ロンサール(窪田般弥・高田勇訳)より


5月の曲

2024-05-02 21:00:00 | ロマン派
サプリ村野は枚方市の子育て支援課のある所で、子育てサポートの拠点の1つです。

車を使ったサポート時の保険に加入できることになったということで、お約束していたのが、気づいたら車がなかった…次男が乗っていってました。

言っとかなかった私が悪いのですが…。
初めて電車と歩きでいきました。
行きは迷って道を聞いたご婦人が、同じ方向ということで、近くまで付き添って下さいました。
親切な方で感謝です。

村野小学校をそのまま改装して使っています。

体育館では卓球の音が聞こえていました。
無事手続きを終えて、帰路に。
帰りは余裕で天の川の堤防を歩いて帰りました。


サンザシに
シャリンバイ



コメツブツメクサ

トベラ(トビラノキ)


そして侵略的外来植物ナヨクサフジ

完全侵略されてました。

ファニー メンデルスゾーン(1805-1847年)




彼女はピアニストでもあり有能な作曲家でもありましたが、父エイブラハムは娘に1820年に当てた手紙の中で、こんなことを書いています。

作曲は「あなたにとってそれは単なる飾りであってよく、そうすべきであり、決してあなたの存在や行動の基礎ではない」

弟のフェリックスもファニーの才能を認めていたものの彼女を社会的に応援することはありませんでした。

そんな彼女を変えたのは1829年ヴィルヘルム・ヘンゼル(1794-1861)との結婚でした。

彼は彼女の才能を認め、社会に出るように強く推し進めました。
サロンを開いてお客様を招いて演奏したり、コンサートを開き、曲を披露し、出版も勧めました。

二人目の子どもを流産した後には彼女をイタリア旅行に誘い、ローマで若い作曲家たちの出会いをはかり、刺激を受けたファニーは元気を取り戻し、帰国してから新しい曲作りに乗り出しています。

その中のピアノ曲集が「12の性格的小品」通称一年です。月々の名前のついた曲を作っています。

5月の曲「春の歌」

楽譜には一月ごとにヴィルヘルム ヘンゼルの挿絵がついています。