音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

85歳現役の作曲家

2024-07-21 21:15:00 | 現代
西宮ギター練習会…の前に梅田ドルチェ楽器さんで伊藤公一先生のレッスン。
あい変わらずスケールとアルペジオから

簡単な物を吹けなくて、難しい曲が吹けるわけはない。
ということはおっしゃいませんが、そうなのだろうなとひしひしと感じます。

スラーの意味イチからやり直しました。
指の不具合が音の移動の歪みや、滑らかさを害う動きを生みます。
何年やってもやっぱり基本が大事。

午後から西宮ギター練習会
今津公民館でした。
阪急電車は天神祭りモード。
間に合いました。

私は渡邉信行さんとオブリビオンとイベールの間奏曲を演奏します。

フルートの竹内聡さんと3人で「ロンドントリオ」の1番をしました。

写真は竹内さんと渡邉さんのテデスコの「ソナチネ」2.3楽章です。

オブリビオンは7月7日に亡くなった国田さんの追悼演奏でした。
みんなで黙祷をしてから演奏しました。
前にも書きましたが、国田さんの不機嫌な顔を一度もみませんでした。
いつもニコニコ、優しい笑顔しか思い出せません。

さて追悼演奏が終わった後、イベール。
この曲はよくやっていますが渡邉さんとは久しぶりでした。

渡邉さんは推進力が強いです。
その力に押されてつい吹いてしまう感じ、演奏はそれぞれ個性があって、それぞれにみんなおもしろいです。
これだからやめられない。

ハイドンの「ロンドントリオ」は旧知の渡邉さん、竹内さんにせっかくなので入れてもらいました。
竹内さんはフルートアンサンブルエスカルのメンバーでもあるので私とも縁があります。
楽しかった!

今日はクラリネットの人もきていました。
実はギターを探しているということで岡山さんをご紹介しました。
「タンゴの歴史」1.2を珍しい編成で聴きました。クラリネットのタンゴも素敵でした。

なんだか音楽の輪がどんどん広がっている気がします。
そしてまあ、とにかく皆さん熱演。
こうして1ヵ月に一度発表するとなるとみんな目に見えてうまくなってきます。   

私も牧野生涯学習センター音楽室で「聴き合い会」をやっています。
第14回7月29日(月)
第15回8月23日(金)
13:00開演

こちら、どんな楽器でもOK。
1枠15分 協力金500円
お互いの演奏を聴き合い励まし合いましょう。
ということで勇気を奮ってご参加ください。


さて、西宮に戻るとコンクール荒らしのようなツワモノも。

ブローウェルという作曲家がいますが、鈴木さんはブローウェルマニアというくらい大好きな人です。

エテュードを何曲も弾かれました。
存命のブローウェルの新作もご存知で、ソナタの楽譜も忍ばせていました。どれだけ好きなの?!

レオ ブローウェル(1939年生まれ〜)85歳キューバ ハバナ生まれ、

作曲家でギタリスト。
アメリカ合衆国に留学し、ハートフォード大学、さらにジュリアード音楽学校で学びました。

ジュリアード音楽学校ではステファン・ウォルペに師事。初期の作品はキューバの民俗音楽の影響を示しています。

しかし1960年代から1970年代にかけてルイージ・ノーノやヤニス・クセナキスのような現代音楽の作曲家に興味を持ち、「ソノグラマ1」のような作品では不確定要素を取り入れています。

この時期の他の作品には「雅歌」(1968年)、「永遠の螺旋」(1971年)、「パラボラ」(1973年)、「狂おしい思い」(1974年)などがあります。

近年では調性と形式美に傾き、ギター独奏曲の「黒いデカメロン」(1981年)、「鐘のなるキューバの風景」(1987年)、「ソナタ」(1990年、ジュリアン・ブリームに献呈)などでその傾向を示しています。

ギタリストとしては1980年代まで活動していましたが、右手中指の腱を痛めたのがもとで以降は指揮活動を中心に活動しています。

ブローウェルはキューバで映画音楽協会の理事など多くの公職についています。彼の作品の大部分はギター独奏曲ですが、ギター協奏曲や40本以上の映画音楽も手がけています。

ギター協奏曲第11番は「レクイエム―武満徹の思い出に」です。

彼の代表作の一つ《シンプルなエチュード》。
この作品は、1973年に1-10番が、そして2001年には《新シンプルなエチュード》として11-20番までが作曲されました。

『エチュード』は『練習曲』の意味で、それぞれの楽章は特定の演奏テクニックの習得に役立つように書かれています。


水の妖精のいたずら

2024-07-20 20:58:00 | ルネッサンス
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米のカルテットレッスンでした。

今日は8月4日木村門下発表会最後の練習でした。
力が入ります。
直子先生の適確なご指導で音楽の流れが変わります。
私もアウフタクトの取り方、中途半端な演奏をしているとすぐに見透かされてしまいます。

まだ課題が残る中、とりあえず宿題を頂いで終了。

いつものケーキタイム。
いつものケーキ屋さんが閉店されたので、牧野で有名なれんげそうで、買ってから行きました。
1時間以上、やっぱり少し崩れてしまいました。

直子先生、初めは冷たいペットボトルの紅茶を、ケーキ時にはフォートナム&メイスンのアールグレイを入れてくださいました。

駅からの歩くので、来た時は冷たいもの練習の後はケーキに合う温かい紅茶。
この気遣いが沁みます。
来月の発表会にも俄然やる気が出てきました。…単純!

帰ろうとマンションを出たら、なんだか膝の裏が冷たい。
「あれ?」と思って下を見たら、ポタポタと水滴が、「あっ!」と思うと道路に染み…。

バッグの中に入れた水筒が何かのはずみで蓋が空いたみたい。 
家から入れてきた紅茶が、ほぼすべてバッグの中でこぼれ出しまっていました。
すぐに直子先生に電話。
「どうしたの?」
「バッグの中の水筒の蓋が空いてこぼれてしまいました。ごめんなさい。部屋の中で床を汚したかもしれません。」
「あらら…。こっちは大丈夫みたいよ。久米さんは大丈夫?」
「はい。ごめんなさい。床は大丈夫でしょうか?」もうパニックで何言ってるのか?!
家帰ってみたら、フルートはポリエチレンの気泡緩衝材で包んでいたので濡れませんでした。
楽譜もクリアケースの閉じてる方が濡れていたので無事。

こぼれた紅茶のほとんどは運の良いことにハンドタオルとエコバックが吸ってくれていました。
洗えばいいだけ。

ビニールのカードケースがずぶ濡れで紙のポイントカードが数枚ブヨブヨになっただけで、ブラのカードは乾けば実害無し…よかった。

なぜ開いたのかなぁ?今までこんなことは一度もありません。
水の精(ニンフ)のいたずらかも?
(ただの不注意)

ロレンツォ・アレグリ(1567年 - 1648年)はイタリアの作曲家で、フィレンツェのメディチ家の宮廷で活動しました。

彼は主にリュート奏者として知られ、リュートのために舞曲を作曲し、時には歌も作曲しました。

ロレンツィーノ・トデスコやテデスコと呼ばれることもあるため、ドイツ系であると考えられます。

ヘンリエッタ ラエ「水の精」1919年

「センナのニンフたち」の5つの踊り


宮廷バロック劇場243年前の再演!

2024-07-19 20:25:00 | バロック
先日のコンサートは実家の松井山手から学研都市線に乗って京橋駅から寝屋川を渡って、いずみホールに行きました。

いずみホールは大阪城のお掘りの内側にあります。
植込みにヒベリカム。金糸梅が咲いていました。
ジュゼッペ スカルラッティ(1712-1777年)ナポリ王国ナポリ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
音楽家一族として有名なスカルラッティ家のひとりで、正確な系譜は不明ですがアレッサンドロ・スカルラッティの孫でおそらくアレッサンドロの長男でナポリの宮廷オルガニストだったピエトロ・フィリッポ (Pietro Filippo Scarlatti) の子と考えられ、
ドメニコ・スカルラッティ
ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757年)
の甥にあたります。

最初の作品は1739年にローマで初演された宗教作品『受胎告知された聖処女マリア』(La santissima Vergine Annunziata)です。
翌年やはりローマでオペラ『メロペ』(Merope、リブレット(台本)はアポストロ・ゼーノ)を上演しています。

1741年から1751年にかけてトスカーナで働いています。

1750年代にはヴェネツィアほかの北イタリアの都市に劇場作品を提供し、この時期にカルロ・ゴルドーニ(1704-1792年)

のリブレットに曲をつけるようになりました。 

フランチェスコ・ロレダン (Francesco Loredan1685-1762年)

が新たにヴェネツィア共和国のドージェ(国家元首)に就任したことを祝って書かれたセレナータ『祖国の愛』(L’amor della patria、1752年5月11日初演)が最初のゴルドーニとの共作です。

1750年代末からはウィーンに居を定め、作曲だけでなくチェンバロ奏者および音楽教育家、とくにシュヴァルツェンベルク家の教師として働きました。

1768年にシュヴァルツェンベルク家
シュヴァルツェンベルク公の紋章
の居城であるチェスキー・クルムロフ城内劇場で『愛あるところに嫉妬あり』(Dove è amore è gelosia、リブレットはコルテッリーニ)を上演しています。

チェスキー・クロムロフ城 

はチェコ共和国ボヘミアの有力な一族であったヴィートコフ家により最初の城が建設されました。1250年以前のことてした。

その後、14世紀頃にヴィートコフ家と縁続きであるローゼンベルク家が一帯を支配するようになり、城は16世紀にはルネサンス様式に改修されました。

プラーシュティ橋

その後、ハプスブルク家及びエゲンベルク家の所有物となりました。

18世紀にはシュヴァルツェンベルク侯家の所有となり、バロック様式の建築が付け加えられました。

18世紀の末から19世紀にはチェスキー・クルムロフの街が停滞し、やがてシュヴァルツェンベルク家の人々もこの城に住まなくなりました。

1947年にチェスキー・クルムロフ城を含むシュヴァルツェンベルク侯家の財産はチェコスロバキアの地方自治体に移管され、1950年に国有財産となりました。
1963年には街が保全指定を受け、1989年には地域が国の指定史跡となり、1992年にはUNESCOより世界遺産に指定されました。 

ローゼンベルク家の人々は15世紀から演劇に関心を示していました。

エゲンベルク家とその周辺の人々も舞台芸術に関心があり、チェスキー・クルムロフ城には1675年から芝居が上演できる設備がありました。

1680年から1682年頃にかけて、オペラを愛好していたエゲンベルク家の当主ヤン・クリスティアーンが現在バロック劇場がある場所に劇場を作りました。
 
現存するバロック劇場のステージ
1765年から1766年頃にかけてチェスキー・クルムロフ城の劇場は大幅に改装され、現在残っている形に近いバロック劇場が完成しました。

バロック劇場舞台下にある機構

オペラ「愛あるところ嫉妬あり」「Dove è amore è gelosia 」は2幕構成のオペラです。
シュヴァルツェンベルク公ヨーゼフ1世の長男であるネポムク公ヨハネ1世の結婚式のために作曲され、初演は1768年7月24日にチェスキー・クルムロフ城バロック劇場で行われました。

2011年に243年前の「愛あるところ嫉妬あり」の再演が、チェスキー・クルムロフ城のバロック劇場で行われました。





毒がいっぱい。

2024-07-18 21:00:00 | 古典
先週行った里山にドクセリ毒芹。 


セリ科ドクゼリ属の多年草。有毒植物。別名、オオゼリ(大芹)。ドクウツギ、トリカブトと並んで日本三大有毒植物の一つとされているそうです。

Franz Eugen Köhler, Köhler's Medizinal-Pflanzen •1897年
全草有毒で、誤食すると嘔吐、精神錯乱、呼吸困難となって死に至る場合もあるそうです。

春先の若葉の形状が食用のセリとよく似ている上に、同じようなところに生えるので、若葉をセリと間違って摘み、中毒者が後を絶たないそうです。

ただし、葉や茎にセリ特有の香りがない点や、セリと違って地下茎が存在する点に注意すれば区別は比較的容易です。

オペラでは、よく毒が使われています。
有名なところでは、
シャルル グノー(1818-1893年)


「ロメオとジュリエット」(1867) や、
セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)

の「ロミオとジュリエット」
ロメオとジュリエットのバルコニーの場面フランク ディクシー1884年

ジュリエットは両親が勧める結婚をしたくなく、「仮死状態になる薬」を飲みます。
死体安置所で行違いで彼女が仮死状態とは知らないロメオがやってきて、彼女か死んだと思って毒薬を飲んで死んでしまいます。
入れ違いで目覚めたジュリエットは残った毒を飲んで死のうとしますが、毒は飲み干されていて、ロメオの短剣を 自らの胸に刺し、息絶えます。

アミルカレ・ポンキエッリ(1884-1836年)

の「ジョコンダ」(1876)  

ジョコンダの盲目の母を助けたラウラ(裁判官長官の妻)に、エンツォとの不貞疑惑が持ち上がります。
嫉妬に狂った長官が妻 ラウラを毒殺しようとします。

その時にジョコンダが「仮死状態になる薬」にすり替え、ジョコンダは、 愛するエンツォとラウラを小舟に乗せて、長官から逃がします。

ガエターノ・ドニゼッティ(1797-1847年)


のオペラ「ルクレツィア・ボルジア」(1833)  

バルトロメオ・ヴェネトが1510年ごろに描いたルクレツィアの肖像画。

ルネサンス期に実在した恋多き悪女。ルクレツィアは、現夫大公から毒を飲ませられた自分の息子(母とは知らない)に「解毒剤」を与えて救います。

後日、再度大公は 敵対する6人に復讐のため毒ワインを飲ませます。しかも息子もまた毒を飲んでしまいます。
ルクレツィアは再度「解毒剤」で救おうとするも、 息子は「仲間と一緒に死ぬ」と拒否して死んでいきます。

もうお腹いっぱい!
しかし、まだまだ毒を使ったオペラは多数。

ルイジ ケルビーニ(1760-1742年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス王国パリ没


作曲オペラ「メデア」(1797年初演)

初演時のポスター

アルゴー号の冒険の主人公ジャゾーニ


はコルキスの王女メデア


と結婚し二人の子どももいます。

ヴォーカルスコア表紙

ところが帰国するや、子どもを取り上げ、コリントの王女グラウチェ


と結婚式をあげます。 

哀願するメデアに「魔女!」と罵り追い払います。

メデアはなだめても怒ってもジャゾーニの気持ちが変わらないと知ると、王冠と打掛けを子どもに持たせてグラウチェに贈ります。

しばらくすると王冠と打掛けを着たグラウチエが死んだと叫び声が上がります。
王冠と打掛けには毒がしこまれていたのです。


1909年アルフォンス ミュシャ
「メデアに死を!」と叫ぶ大衆を逃れ宮殿に入ったメデアは二人の子どもを刺殺し、呆然とするジャゾーニに 「復習は終わった。」と告げ、宮殿に火を放ち、自ら炎に包まれます。




ロンドンデリーの歌

2024-07-17 20:57:00 | 民謡
火曜日は塚口駅近くのt?raumでハープのレッスンでした。

今週の日曜日にハープの発表会があるので、かなり焦ってます。

曲は「ロンドンデリーの歌」。
優しくていい曲なのですが、アレンジが私にすれば難しいです。
先生「上手くなったけれど、もうちょっと強弱をつけたらいいよね~。」とにっこり。

は〜い。頑張ります。

「ロンドンデリーの歌」(Londonderry Air)は、アイルランドの民謡です。

イギリス領北アイルランドでは事実上の国歌としての扱いを受け、アイルランド移民の間でも人気があるそうです。

世界で最も広く親しまれるアイルランド民謡の一つです。
様々な歌詞によって歌われ、特に「ダニー・ボーイ」のタイトルのものが有名です。

1913年出版アメリカのフレデリック ウェザリーがロンドンデリーの歌につけた歌詞
ロンドンデリーは北アイルランドの県の名で、この曲はロンドンデリー県/デリー県リマヴァディのジェイン・ロスにより採譜されました。 

ロスが聴いたのはタイトルも歌詞もない器楽曲としての演奏でしたが、いつどこで誰から聴いたのかなどについて詳しいことはわかっていないそうです。

ロスはこれを音楽収集家のジョージ・ペトリに預け、ペトリは、自分の編纂した「The Ancient Music of Ireland(アイルランドの古代音楽)」(1855年発行)

収録しました。

そこに「ロンドンデリーのジェイン・ロスの収集による」という註がつけられたため、この曲は「ロンドンデリーの歌」として知られることとなりました。

この曲の起源についての詳細は長い間謎に包まれていました。

ロス以外の収集家にはこのメロディーと出会った者がなく、知られている例はいずれもペトリの発表に由来するものでした。

ペトリによる出版後に最初にこの曲に歌詞をつけたのはアルフレッド・パーシヴァル・グレイヴズてす。
1870年代後半に作られた彼の詞は「Would I Were Erin's Apple Blossom o'er You(私がお前の上で咲くリンゴの花だったなら)」とタイトルがつけられました。

もう一つの謎はその音域の広さです。特に曲の終盤の旋律は極めて高い音域におよび、この部分はプロの歌手にとっては聴かせどころとなっている一方で一般の人にはなかなか歌うのが難しくなっています。
これは伝統的な民謡としては極めて異例なことです。

アン・ゲデス・ギルクリストは1934年の論文で、ロスが聴いたのはルバートのきつい演奏だったために、本来3拍子とするべきところを彼女が誤って4拍子として記譜してしまった可能性を指摘しました。  

ギルクリストはさらに、この曲のリズムを3拍子として編曲し直すことによって本来のアイルランドの民謡に近い特徴を備えた音楽になると主張しました。

1974年、ヒュー・シールズは「Aislean an Oigfear」(若者の夢)
として知られる伝統的な曲のある特定のバージョンがギルクリストによる修正版に極めてよく似ていることに気がつきました。

「若者の夢」の版は1792年のベルファストのハープ音楽祭でハープ奏者のデニス・ヘンプソンが演奏したものをエドワード・バンティングが採譜し、1796年に発表したものです。

ヘンプソンが暮らしたのはロスの家のあるリマヴァディから程近いマギリガンであり、彼はそこで1807年まで生きました。

「ロンドンデリーの歌」は「若者の夢」のヴァリアントの一つなのであろうと考えられています。

ブライアン・オードリーは2000年に発表した論文の中で、「ロンドンデリーの歌」の高音域の部分はバンティングによって採譜された「若者の夢」のうち、手稿には記されていましたが、印刷された版では省かれてしまったリフレインに由来するものであることを示しました。

彼は「若者の夢」の別の二つのヴァリアントにも「ロンドンデリーの歌」の高音域の部分とよく似たリフレインがあることを指摘しています。

彼はまた、「若者の夢」のヴァリアントとして最初に歌詞をつけて歌われたのが「The Confession of Devorgilla」(デヴォージラの告白)
(レンスター王ダーモット マクマローがブレフニ王子ティアナン オルークの妻デヴォルギラと駆け落ちしました。

オルークは誘拐の復讐としてマクマローを要塞から追い出しました。
その後、マクマローはヘンリー 2 世の協力を得て、イングランドによるアイルランド侵攻の第一歩を踏み出しました。最終的にデヴォルギラは夫の元に戻り、この歌では彼女が告解室で「ああ!彼女は赦しを乞うて、「お父様、私を殺してください…」と歌っています。)
であったことを突き止めました。

この歌はエドワード・フィッツシモンズによって1814年に公刊された書物に収録されたものです。
彼は「ロンドンデリーの歌」は元々「Oh Shrive Me Father」
として知られていた、というロスの同時代人による証言があることを指摘しています。

このタイトルは「デヴォージラの告白」の最初の一行と一致することから同じ歌のことを指していると考えられます。
またこの証言によるとこの歌はロンドンデリー県のみならずドニゴール県でもよく知られていたそうです。

オードリーは曲のリズムが三拍子から四拍子に変化した理由については奏者によるルバートや採譜したロスのミスではなく、こうした伝統音楽特有のダイナミズムによるものだろうと推論しています。

つまり、オリジナルの楽譜という概念自体が存在しない伝統音楽の世界では、奏者から奏者へと伝えられていくうちに曲の形が様々に変化していくのは普通のことです。

「アイルランドの恋の歌」
キャサリン・タイナン・ヒンクソンは1894年に「Irish Love Song(アイルランドの恋の歌)」として歌詞をつけました。このメロディーはこの時初めて彼女によって「ロンドンデリーの歌」と呼ばれました。

これは
「もし私がりんごの花びらだったら
ふわりと降りて君の胸にとまりたい…」で始まる恋の歌です。

ロンドンデリーの歌 ヴァリエーションop20 グランジャニー作曲


辻彩奈、阪田知樹デュオリサイタル

2024-07-16 21:01:00 | ロマン派
連休最終日は、レッスンの後、いずみホールで

ヴァイオリン辻彩奈さん、ピアノソロ阪田知樹さんのデュオリサイタルコンサートを聴きに行きました。

アンケートを取って、人気の曲で第1部を決められたそうです。

ヴァイオリンと言えばこの曲と言う小品が並びました。

エルガーの「愛の挨拶」op12
シューマンの「3つのロマンス」op94
クライスラーの「愛喜び」「愛の悲しみ」「美しきロスマリン」
ブラームスの「ハンガリー舞曲第1番、第5番」ヨアヒム編曲

数々の海外コンクールで優勝してきた2人は2020年にもツアーで全国を回り、今回の公演も名古屋、札幌、神奈川などを回り最終日の6番目もいうことで、息もピッタリ。

辻さんのヴァイオリンは呼吸する感じで、深い息の中で演奏されていて素晴らしかったです。
そのフレージングの中で阪田さんのアルペジオがなっていて素晴らしかったです。
小品と言えどクライスラーはテクニック的に難しいですが、肩肘張らず自然な感じで演奏されていました。

ブラームスのハンガリー舞曲の第1番と第5番、ノスタルジックでダイナミック。

第2部はシューマンのヴァイオリンソナタ第一番。シューマンの曲の中では比較的わかりやすく古典的な作品を、奇をてらわず、素直なフレージングが素敵でした。
最後はブラームスのヴァイオリンソナタ第3番op108
重厚で内面的なこの作品を力まずに最後まで弾ききられました。

アンコールはホラスタカートとシシリエンヌ。

ロベルト シューマン(1810-1856年)プロイセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没

ピアノ四重奏曲変ホ長調op47

1842年、ピアノ五重奏曲 作品44の完成に引き続いて作曲されました。
この年はシューマンの「室内楽の年」と呼ばれています。

1840年にクララ ヴィーク


と結婚し、より経済的に安定する仕事を求めていました。

この作品以外に『幻想小曲集』作品88や3曲の弦楽四重奏曲 作品41などを書いています。

作曲は1842年10月24日から11月26日にかけて行われました。
スケッチは10月24日から30日に行われ、11月7日から26日間で全曲を完成させました。

翌1843年6月に改訂を施した後、8月にライプツィヒの出版社フリードリヒ・ウィストリング社から出版されました。

初演は1843年4月5日に作曲者の自宅で非公開に行われました。

公開初演は1844年12月8日にライプツィヒで、クララ・シューマン(ピアノ)、フェルディナント・ダヴィッド(ヴァイオリン)、ニルス・ゲーゼ(ヴィオラ)、カール・ヴィットマン(チェロ)の演奏で行われました。

シューマン 「ピアノ四重奏」op47
ヴァイオリン 辻彩奈 ヴィオラ 田原綾子 チェロ 岡本侑也 ピアノ 阪本知樹


マンドリン アンサンブル フィオーレ ディ オオサカ

2024-07-15 21:00:00 | バロック
14日午後からマンドリンアンサンブルフィオーレ ディ オオサカのコンサートでした。

加えてプロージットオーケストラの練習日。
前回コロナで休み、次回カルテットの本番でお休み。
絶対行かなけれは!

と言っていつも助けてくれる友だちのコンサートも…!
コンサートは淀屋橋フェニックスホールで13:00開演。
オケはミサソレニムスから入るので降り番の私は15:00第9に間に合えばいい。

しかし、場所はなるお会館。
阪神、武庫川女子大学駅前。
どこそれ?という私。
ヤフー路線検索してみたら淀屋橋から50分弱で行けるらしい。

で、フィオーレの第1部を見てから、淀屋橋にと思ったけれど、よく考えたら歩いて梅田まで行って阪神に乗ったほうが早いんじゃないかな? 

googleの中の人は歩くのが早いみたい。
フェニックスホールから淀屋橋まで帰るのに私の足だと10分以上かかります。そこから梅田まで御堂筋線で行って阪神というルートです。

フェニックスホールから直接梅田まで歩いて、そこから阪神に乗ったほうが早い…と思う。たぶん。そちらにかけて、ちょっとドキドキしながら梅田に向かって歩きました。

初めの予定の10分後に出て、阪神梅田で予定の10分前の電車に乗れました。やった!今回は成功。



武庫川女子大学駅に43分に着いて、余裕でオケの練習に間に合いました。
余裕は大事。

残念ながらフィオーレは第1部、終わったところで退出しましたが、

第1部のプログラム

ラニエリの前奏曲
ベルッティのメヌエット
ミユールのメヌエット
ミユールの小組曲「子どもたちの遊び」より
1.踊り
2.人形への子守唄
3.ジロトンド 回れ回れ薔薇の輪に

小品ながら、繊細な表現が必要な前奏曲とメヌエット2曲。
力が抜けて優しい演奏でした。

ミケーリは1889年生まれのイタリアのヴァイオリン奏者で、2人の息子を生後すぐに相次いで亡くし、子どもたちが生きていたらこんなふうに遊びたかったという思いのこもった曲でした。
フィオーレはこういう繊細な曲が本当に素敵です。

第2部は日本を代表する現代音楽の作曲家菅原明朗先生の曲でした。
聴きたかった! 
明朗先生の曲をみんなで演奏させていただいた後に、声をかけて頂いたことがあります。
すごく怖かった!
叱られるのかと思ったら、「頑張りなさい。」でした。

卒業後も関西マンドリン合奏団に川口先生に呼ばれて明朗先生のマンドリンオーケストラ曲のフルートを吹かせて頂いたこともありました。

菅原明朗(1897-1987年)兵庫県明石生まれ、菅原道真の菅原氏の末流。


プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の明石市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。

1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを学びました。

1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで画学校に通うかたわら作曲家の大沼哲に師事し、1915年(18歳)より作品を発表します。

また、大田黒元雄・堀内敬三等の「新音楽グループ」に入り、雑誌「音楽と文学」同人となりました。

1917年(20歳)、
武井守成(1890-1949年)
 
主宰のマンドリン楽団、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」に入団し、また、「軍艦行進曲」で有名な瀬戸口藤吉に対位法を学びました。

1924年(27歳)初夏より1年あまり同志社大学マンドリン倶楽部の指揮をとり、1926年(29歳)、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」の指揮者となりました。

この頃から、音楽作品が認められるようになります。
当時のマンドリンオーケストラの編成は巨大化する傾向にあり、菅原の代表作「内燃機関」もフルート、バスクラリネット、トロンボーン、ピアノ、ハーモニウム、打楽器を加えたものでした。
しかし1932年に「雑感」という文章を発表し、本格的な管弦楽の普及により、その代用としての巨大化したマンドリンオーケストラの役割は終わったとして、新しいマンドリンオーケストラの在り方を模索するよう主張し、マンドリン音楽界から去りました。

その一方で1930年(33歳)、私立「帝国音楽学校」

の作曲科主任教授となり、また、箕作秋吉、清瀬保二、橋本国彦、松平頼則ら16人と「新興作曲家連盟」を、さらに、1936年、門下の深井史郎らと「楽団創生」を結成しました。

1938年、歌劇「葛飾情話」の上演後、そのときのアルト歌手、永井智子(1908-1998年)

と結婚。

その後ドイツ系が主流だった当時の日本の洋楽界に、フランス流の新風を吹き込みます。

1930年代中ごろからはイタリア音楽に接近し、チマローザやピツェッティに傾倒しました。
指揮活動は、自作の指揮ばかりでなく、たとえば1942年には、アルチュール・オネゲルのオラトリオ「ダヴィデ王」を松竹交響楽団により日本初演しています。

戦後はグレゴリオ聖歌に影響を受けた作品が多く、またキリスト教に関連する作品も多数残しました。

さらに1963年に神戸で活動する関西マンドリン合奏団

と出会ってマンドリン界に復帰し、最晩年まで関西マンドリン合奏団のために多くの作曲や編曲を行いました。

1967年の最初のイタリア旅行以降、彼はたびたびイタリアに長期滞在し、ピツェッティと親交を深めました。
長寿の最期まで現役で、ハーモニカ奏者の崎元譲やアコーディオン奏者の御喜美江など若い演奏者のために作品を提供しました。

1981年4月、芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展5 菅原明朗」が開催されました。

1988年4月2日、「ヨハネの黙示録」に基づいたカンタータ作曲の途上、亡くなりました。(享年91歳)

2022年のアンサンブルフィオーレ ディ オオサカ演奏の菅原明朗編曲バッハの「パッサカリア」の動画ありました。残念ながら、菅原明朗先生の曲を演奏したフィオーレの動画はありませんでしたので…。








緑の袖 

2024-07-14 21:00:00 | 近代
三連休の始まりは実家でレッスンの後、里山へ

お茶の緑が濃いです。

松尾神社の手前の池には


ねむの木の花が…。
今にも降りそうですが、降らない。
湿気が多くて、そのうち霧まで出てきて幻想的でした。

幻想曲(げんそうきょく)は、ファンタジア。
一般に作曲者の自由な想像力に基づいて創作される器楽作品の名称として用いられます。
しかしその実例は、即興的なものから厳格な対位法によるもの、小品から多楽章形式の大規模な作品までいろいろです。

レイフ ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958年)イングランド ダウンアンプニー生まれ、イングランド ロンドン没
 
「グリーンスリーブス幻想曲」は、彼の作品の中で最も有名なものです。

イングランドの古い歌『グリーンスリーヴス』に基づきます。

『グリーンスリーヴス』はエリザベス朝時代(1558-1603年)から知られている曲です。

My Lady Greensleeves
ダンテ・G・ロセッティ画

ヴォーン・ウィリアムズはシェークスピアの喜劇「ウィンザーの陽気な女房たち」を基にしたオペラ『恋するサー・ジョン』 (Sir John in Love) を1928年に完成しました。

この歌劇は、サー・ジョン・フォルスタッフ(恋人、詐欺師、魅力的な男性、みすぼらしい騎士)の活躍を描きます。
2人の純真な若い恋人、数人の不運な求婚者、陰謀、策謀、そして善意の復讐の物語です。

この劇の中の曲をラルフ・グリーヴズ(Ralph Greaves)が編曲し、独立させた作品が『グリーンスリーヴスによる幻想曲』です。

初演は1934年9月27日、ロンドンにおいてヴォーン・ウィリアムズ自身の指揮で行われました。

なお、このグリーヴズの編曲以外にも、様々な編成のための編曲が数多くの人の手で行われているほか、作曲者自身によるピアノ独奏版も存在します。

ヘ短調、レント、8分の6拍子でフルート独奏の導入部の後、ヴァイオリンとヴィオラが「グリーンスリーヴス」を奏でます。

イ短調、アレグレット、4分の4拍子の中間部ではヴィオラとチェロに新たな旋律が現れますが、これはヴォーン・ウィリアムズがノーフォークで採集した民謡『ラブリー・ジョーン』(Lovely Joan)です。

フルート独奏のカデンツァをはさんで再び導入部と「グリーンスリーヴス」に戻り、静かに曲を閉じます。


雨と雪が天から降ってくるように

2024-07-13 21:00:00 | バロック
先月コロナで飛ばしてしまった富久田先生のレッスン。
偶然、京阪特急2階建て車両、2階に乗れました。
テンション上がります。
京都も雨。

出町柳大橋。
バスの車窓から撮りました。
御所。
よくわからないなぁ。と思っていたら夫が出張した時の写真くれました。
この緑の四角が御所です。
天皇陛下が居られなくても、京都の人は大切に守っています。
私物化したり、御所を売り払ったり、開発したりは考えられません。


ヨハン セバスチャン バツハ(1685- 1750年)神聖ローマ帝国ザクセン公国アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

のカンタータ「空から雨と雪が降るように」BWV18

1713年に四旬節前(復活祭前40日)の第 2 日曜日、ワイマールのセクサゲシマ(60日目7月の日曜日)のためにヨハン・ゼバスティアン・バッハによって書かれた最初の教会カンタータの 1 つです。

ワイマール城教会

1708年からバッハはワイマールの宮廷で働きました。

1714年3月2日、バッハは、共同統治者であるザクセン・ワイマール公ウィリアム・エルンスト

とエルンスト・アウグスト


のワイマール宮廷礼拝堂のコンサートマイスターに任命されました。

この役職で、彼は新しい作品、特にシュロス教会(宮殿の教会)のためのカンタータを毎月作曲する主な責任を負いました。
バッハは、灰の水曜日(祈り断食の日です。この日の前には告解の火曜日があり復活祭前の 6 週間の苦行期間である四旬節初日です)の前の第 2 日曜日、セクサゲシマのためにワイマールに滞在中にこの作品を作曲しました。

このカンタータは、バッハのカンタータ作曲の比較的初期に登場します。

この曲は 1715 年 2 月 24 日に作曲された可能性がありますが、それより 1 ~ 2 年前の可能性もあります。

バッハは1724年にライプツィヒでこのカンタータを、より広範なオーケストレーションと異なる調で再度演奏しました。
ヤン・ルイケンによる種まき人の寓話
聖ルカによる福音書の中の種蒔く人から、第 2 楽章ではイザヤの言葉を引用しています。「雨と雪が天から降ってくるように…私の言葉もそうなるでしょう…」

恵みの雨となりますように。




新ショウガ漬けてみました。

2024-07-12 21:01:00 | ロマン派
新生姜漬けてみました。

①皮を薄く剥いて(赤いところは色つきになるので落とさない)

スライサーでスライス…のはずが、フードプロセッサーのスライスコースでやってみたら生姜が固すぎたのか?プロセッサーが古くてだめになってきたのか?ほとんど粉砕!
途中で気づいて、包丁でスライス。
初めから包丁にすればよかった。

②一分茹でて辛味を取ると書いてありましたが、心配なので2分30秒。
辛いのだめなんです。

③30分水にさらします。
④塩振って20分おきます。
⑤軽く絞って

⑥熱湯消毒した密封容器に移して、らっきょう酢をひたひたまで入れます。

⑦次の日から食べられます。

次の日。辛くない!
我ながら上手くできました。
(粉砕部分多いですが)

そのまま食べてもいいけれど、お魚を煮たりするのにも良さそうです。

生姜は5000年前から東南アジア周辺で利用されてきました。
特にインド、中国、日本では薬効のある食材として知られてきました。

アジアからヨーロッパに輸出された初めのスパイスだそうです。

ショウガに関する最初の記録は、中国の戦国時代(紀元前475-221年)に孔子の弟子たちによって書かれた『論語』です。

その中で、孔子は毎食ショウガを食べていたとされています。

406年、法顕僧侶は、ショウガは鉢植えで栽培され、壊血病を防ぐために中国の船で運ばれたと書いています。

ショウガはアラブ人によって地中海にもたらされ、150年、クラウディウス プトレマイオス(100-170年頃)

ユストゥス・ファン・ヘントとペドロ・ベルゲテによるプトレマイオスの肖像画(1476)
はショウガがセイロン(スリランカ)で生産されていると記しています。

ショウガは、その近縁種であるガランガルとともに、腎臓など富裕層しか買えない非常に高価な薬草療法の一部としてローマ帝国に輸入されました。

中世には、ヨーロッパ人の嗜好がショウガの料理として好意的に変化した後、生のショウガと保存されたショウガがヨーロッパに大量に輸入されました。

ケーラーの薬用植物の1896年カラー図版
この時期、ショウガはいくつかの国の公式薬局方にも記載されています。

14世紀のイギリスでは、ショウガ1ポンドの値段は羊1頭分でした。

北西ヨーロッパにおけるショウガの考古学的証拠は、デンマーク・ノルウェーの旗艦グリブシュンデン号の難破船から得られます。

考古学者は2022年グリブシュンデン号の船尾を調査しています。写真:ブレット・シーモア

この船は1495年の夏、ハンス王をスウェーデン評議会との首脳会談に運ぶ途中、スウェーデン南岸沖で沈没しました。
船に積まれていた高級品の中には、ショウガ、クローブ、サフラン、コショウなどがありました。

西洋料理では、ショウガは伝統的に主にジンジャーエール、ジンジャーブレッド
ジンジャーブレッドマンとジンジャーブレッドハウスの奥さん
ジンジャースナップ(ビスケット)、パーキン
パーキン、オートミールと黒糖蜜で作られるジンジャーブレッドケーキで、ヨークシャー北イングランド発祥。
スペキュラース

 
スペキュラース:船、農家、象、馬
スペキュラーススパイス(ショウガ、グローブ、シナモン、ナツメグ、カルダモン、コショウ)を使って焼いたスパイス入りショートクラスト ビスケットの一種
などの甘い食べ物に使用されています。 

カントンと呼ばれるショウガ風味のリキュールは、フランスのジャルナックで生産されています。

ジンジャーワインは、

英国発祥のショウガ風味のワインです。
ショウガは、ホットコーヒーや紅茶に加​​えるスパイスとしても使用されます。

エンゲルベルト フンパーディンク(1854-1921年)プロイセン王国ジークブルク生まれ、ノイストシュトレーリッツ没 


1872年にケルン音楽院に入学してフェルディナント・ヒラーに師事。

1876年に奨学金を得てミュンヘンに行き、フランツ・パウル・ラハナーと、後にヨーゼフ・ラインベルガーに師事。

1879年にベルリンよりメンデルスゾーン基金を得てイタリアに行き、ナポリでリヒャルト・ワーグナー

の信頼を得ます。

ワーグナーに招かれてバイロイトに行き、1880年から1881年の間《パルジファル》の上演を輔佐します。

再び学資金を得て、イタリアからフランス、スペインを旅行し、2年間バルセロナのリセウ高等音楽院で教鞭を執りました。

1887年にケルンに戻り、1890年にフランクフルト・ホーホ音楽院

の教授に就任、シュトックハウゼン声楽塾の和声法の教師も務めます。
この頃までに、フンパーディンクの合唱曲や管弦楽曲が流行り出します。1900年にベルリンに行き、マイスターシューレの作曲教授に任命されました。

メルヘンオペラ『ヘンゼルとグレーテル』三幕は
1893年12月23日、リヒャルト・シュトラウス指揮

によりヴァイマルで初演されました。

こんにちでも上演される、唯一のメルヘンオペラで、その宗教的な内容からクリスマスの時期に上演されることが多く、特にドイツでは今でも人気のオペラです。

グリム童話が原作のこのオペラの中で、ヘンゼルとグレーテルが森の中をさまよって見つけた家。
これがジンジャーブレッドハウスと呼ばれる、生姜パンでできた家でした。

屋根がケーキ、壁がジンジャーパン、窓が砂糖で作られた小さな家。
お腹を減らした2人は夢中になってお菓子の家を食べるのでした。
すると…。

組曲「ヘンゼルとグレーテル」オーケストラのための編曲版より
ジンジャーブレッドハウス。