音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

フランス生まれ?メヌエット

2024-09-20 21:00:00 | バロック
次男の左脚膝のチタンを抜く日がやってきました。

木曜日入院受付。
半年前に職場で転倒し、左脚膝蓋骨を骨折。
半年、自転車で15分の職場まで車通勤していましたが、ようやく卒業です。
明日金曜日手術の後、少し会えるみたいですが、入院してしまうと面会は15分、2人までです。
看護師さんの説明を受けて、部屋に入ってしまうともう会えません。
まあ、大人だから大丈夫かと帰ってきました。

ここの病院の駐車場にも萩の花。

ここだけ秋ですが、35度。

お天気悪いですが、しっかり、じっとり暑いです。

メヌエットはフランスの舞踊だと言われています。
が、その起源は明らかになっていません。
ポワトゥー地方のブランルから発祥したとされていますがよくわかってはいません。

その名前はフランス語のmenu(ムニュ、「小さい」)に指小辞がついたもので、小股でステップを踏むためにそう呼ばれました。

フランス語ではムニュエですが、イタリア語化してミヌエット(minuetto、フランス語のmenuに対応するイタリア語がminutoであるため)またはメヌエット(menuetto)と呼ばれるようになりました。

シャルル・デュパール(1676-1751年)フランス王国パリ生まれ、フランス王国パリ近郊サン・ジェルマン シュルエコール没

フランスのチェンバロ奏者、バイオリニスト、作曲家です。

父はルイ14世のグランド・エキュリー(大監)の平凡な音楽家、ニコラ・デュパール(? - 1700年)。
ある時、デュパールは、パリ近郊のサンジェルマンアンレーに亡命中のイングランド王ジェームズ2世

を訪ねていたロチェスターのエリザベス・ウィルモット、サンドウィッチ伯爵夫人、ジャック・ペジブルと親しくなりました。

これがきっかけで1700年頃にロンドンに渡ります。
しかし、1712年頃からは主に教師として収入を得るようになり、晩年は貧困に陥りました。

今日では、ヨハン・セバスチャン・バッハのイギリス組曲に影響を与えた「6つのクラヴェッサン組曲」で最もよく知られています。

デュパールの幼少期や教育の詳細は不明です。
デュパールに関する最も古い文献は1695年のパリの納税記録で、そこには彼がチェンバロや他の楽器を習得していたと書かれています。

1701年、アムステルダムで『クラベッサンのための6つの組曲』を出版しました。

次に彼のことが知られるのは1703年2月11日、ロンドンでガスパロ・ヴィスコンティと共にコレッリ
アルカンジェロ・コレッリ(1653- 1713年)
の音楽をドルリー・レーン劇場で演奏したときです。 

デュパールはロンドンに定住し、やがてドルリー・レーン劇場の音楽界の重要メンバーとなりました。
彼は劇作家ピーター・アンソニー・モトゥー、作曲家トーマス・クレイトンなどと共演し、ジョヴァンニ・ボノンチーニやドメニコ・スカルラッティ
サンティアゴ騎士団を身に着けたスカルラッティの肖像画(1738年)
といったイタリアの作曲家の音楽の演奏にも参加しました。

1707年後半、デュパールはロンドンのヘイマーケットにあるクイーンズ劇場でオペラのプロジェクトを立ち上げることに関わりました。

彼はこのプロジェクトで重要な役割を果たしたようですが、1年ほど経った1708年後半に経営陣から解雇されました。

デュパールは1711年と1712年にヨーク・ビルディングで一連のコンサートを企画しようとしましたが、結局数回しか開催できませんでした。

1712年以降は主に教師として活動していました。

彼の作品は少なくとも1726年まではコンサートで演奏され、ドルリー・レーン管弦楽団の常連メンバーだったようです。

デュパールが最後に公の場に姿を現したのは1724年です。
彼は高齢で貧困のうちに亡くなったと思われていましたが、この情報は最近になって誤りであることが判明しました。

公文書によれば、彼は1744年にパリ近郊のムランで結婚し、1751年に近くの小さな村サンジェルマンシュルエコールで亡くなったことが示されていました。

1701年に作曲された「6つのクラヴェッサン(クラヴサン チェンバロ)組曲」Fminor 第6番からメヌエット
クラヴェッサン、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ ダ ガンバ


最愛の兄との別れ

2024-09-19 21:00:00 | バロック
今朝はSさんのレッスン。
90歳になるお姉さまのお誕生祝いにフルート演奏をプレゼントしようと準備中です。

ピアノ伴奏はないので、CD音源をプレーヤーで流しながら演奏するつもりです。

曲は来生たかお作曲の「シークレット・ロマンス」とマルグリット・モノー作曲エディット・ピアフ作詞「愛の讃歌」

「シークレット・ロマンス」は初めのシンコペーションの部分。
タイで繋がったところはいつものクラッシック音楽の奏法では息を足したりしませんが、タイの後の音符に少し息を足して吹くとリズムがでやすいですよ。

「愛の讃歌」はアウフタクトが拍頭より大きくならないように、丁寧に優しく吹いてください。
付点四分音符は入ったら安心して音を抜かないで次の頂点を目指して吹き込んでいってください。

中間部はささやく語りなので、大きくしなくていいですが、言葉の意味を考えてフレーズの方向、切れ目をよく考えながら吹きましょう。

Sさん、とっても頑張っています。
お姉さまの誕生祝い、うまくいくといいですね。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没
は8人兄弟の末っ子として生まれました。
1694年5月(9歳)には母エリザベートが亡くなり、父は同年11月に再婚したものの、翌年の1695年2月に父も他界しました。

その後、バッハは兄ヨハン・ヤーコプ (1682-1722年)
と共にオーアドルフの教会オルガニストを務めていた兄ヨハン・クリストフ (1671-1721年)

の家に引き取られます。

勉学に励み、クラヴィーア演奏の基礎もここで学びました。

1704年、兄ヨハン・ヤーコプはスウェーデン国王カール12世(1682-1718年)

の軍隊でオーボエ奏者を務め、後にはフルート奏者を務めることになります。

ヨハン・ゼバスティアンはその兄との別れに際してカプリッチョ「最愛の兄の旅立ちに寄せて」BWV992を書きます。

惜しむような口調で別れの挨拶が述べられ、一同は嘆き悲しむが、やがてご機嫌な調子で馬車がやってきます。

最後は郵便ラッパを模したフーガで終わります。

1.アリオーソ、旅を思いとどまらせようとする友人たちのやさしい言葉 

2.他国で起こるかもしれないさまざまな不幸の想像 
   
3.友人一同の嘆き 
4.友人たちは(どうしようもないと知って)集まり、別れを告げる 

5.郵便馬車の御者のアリア 

6.郵便ラッパを模したフーガ 










月見て想う

2024-09-18 21:05:00 | ロマン派
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、ヴィオラ金重美代さん、チェロ木村政雄先生、フルート久米素子のカルテットレッスン。

モーツァルトのカルテットAdurが発表できたので、次の曲をお探し中。
ピアノを入れたドボルザークのクインテットop81の1楽章…ほぼ初見2分の2拍子が取りにくくまた、練習してくることになりました。

ヨハン クリスチャン バッハのフルート四重奏。
いい曲ですが、何ヶ月も練習するほどでもありません。

ホフマイスターのフルート四重奏いい曲ですが、楽譜に不具合があって読みにくい上にフルートパートだけ何小節か飛んでいます。それにチェロだけなぜか手描き譜で読みにくい。
二楽章まで行って、また新しい楽譜でやり直すことになりました。

フルート四重奏っていい曲がなかなかありません。

ホフマイスターは曲は良さそうなので、楽譜を、手に入れるところからやり直しです。

今回は十五夜のお月見にちなんで月見団子とくず氷室。

枚方には氷室と言って、他よりも少し涼しいところがあります。平安時代、そこで氷を保管。少しずつ御所に送って宮中では夏も氷を食べたとか…。

その氷室にちなんだ葛でできたお菓子で凍らせて食べますが、常温でも食べられます。

マンゴー味、カルピス味、抹茶味、甘夏味。

月見団子は直子先生の出身の広島では丸いお団子で餡はなく、お砂糖をかけて食べたそうです。

私はずっと大阪なので、これが月見団子です。
絵本で関東風を見たときには驚きました。 

家では中国のお土産の月餅が待っていました。

さつまいもとお餅が入っていました。
素朴で美味しかった!


ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini、1801-1835年)シチリア王国カターニア生まれ、フランス王国パリ没

は、19世紀前半のイタリアを代表する作曲家です。病弱のため若くして世を去りました。

イタリアのお札にはベッリーニ

優美で繊細な旋律のオペラ作品を11作遺し、「オペラのショパン」と称されています。

有名な作品としては「海賊」(初演1827年)、「清教徒」(同1835年)「夢遊病の女」1831年「ノルマ」1831年などがあります。

ベッリーニは、その優美で抒情的な旋律を生かしたサロン歌曲も生涯に30曲ほど作りました。

そのうちの一つ「美しい月よ」(Vaga luna che inargenti、“美しい月”“優雅な月よ”などと訳されることもあります。

『3つの室内アリエッタ』の第3曲で、作詞者は不明です。
1.激しい希求 
2.フィッリデの悲しげな姿よ
3.美しい月よ

ベッリーニがナポリの王立音楽院に在学中だった1824年頃の作とされています。

夜空に浮かぶ月を眺めつつ恋人を想う内容になっています。

「美しい月よ」(Vaga luna che inargenti
Vaga luna, che inargenti
優美な月よ、お前は銀色に輝かす
queste rive e questi fiori
あの岸辺や花々を
ed inspiri agli elementi
そして万物に
il linguaggio dell'amor;
愛を語る舌を与える

testimonio or sei tu sola
いま証すのはお前だけ、
del mio fervido desir,
私の熱い願いを
ed a lei che m'innamora
だから 私の心を奪ったあの女性(ひと)に
conta i palpiti e i sospir.
語っておくれ、どれほど鼓動を高鳴らし、溜息をついているか

Dille pur che lontananza
彼女に伝えておくれ、遠く離れているうちは
il mio duol non può lenire,
私の苦悩は和らぎ得ぬと
che se nutro una speranza,
望みを抱くとすれば
ella è sol nell'avvenir.
未来に対してしか抱けぬと

Dille pur che giorno e sera
彼女に伝えておくれ、朝な夕なに
conto l'ore del dolor,
苦しみの刻を数えていると
che una speme lusinghiera
思わせぶりな希望が
mi conforta nell'amor.
恋する私の慰めだと


海の詩

2024-09-17 21:00:00 | 現代
三連休の最終日、ようやく家族と過ごす日が来ました。
と言っても次男は友だちと飲み会。
午後近くなってから、夫と「海が見たいなあ。」と和歌山方面にドライブ。

途中岸和田パーキングエリアでお昼ごはん。

唐揚げ定食と

ライスバーガー、だし巻きたまごとフィッシュフライが入っています。

「道の駅に行こうか。」とググりながら行くと岬パーキングエリアが道の駅らしい。

淡輪、みさきの丘の灯台がコンセプトの建物。
海が見えます。
新鮮な野菜と、やっぱりお魚が安い!

生タコと
雑魚…小さな鯛が入った袋200円! 
買った後は、その近所のダイソーでアルミの保冷袋を買って氷もセットしました。 
「もう一つ道の駅あるみたい。」
行ってみました。

トットパーク小島。車を停めて
「あれ?ここは?」

海に突き出した巨大な鉄橋を行くと

左側の景色

右側
大きな釣りをする施設。
この先は有料の釣り突堤。
絶景でした。
それからまた海辺を目指してドライブ。

深日港の市場。

立ち寄って見ていると、漁師さんがとってきたばかりの魚をビクからドサドサっと箱に開けて行きます。

まだ生きてます。
「これとこれ。」と言うと締めて袋に入れてくれます。
海老2匹と、カサゴを一匹もらいました。
海老は生きたまま。

後は浜辺に降りて海にタッチ。
貝殻をひろって帰りました。
夜は魚祭。
タコとカサゴは唐揚げで、鯛と海老は焼きで、次男も帰ってきて魚を捌いてくれました。 
美味しゅうございました。
しまった!写真を忘れました。
締めのシラス丼だけ


残った鯛は干物に。

エルネスト ブロッホ(1880-1959年)
スイス ジュネーブ生まれ、アメリカ合衆国ポートランド没

ブリュッセル音楽院でウジェーヌ・イザイほかに師事します。

その後フランクフルト・ホーホ音楽学校にも学びます。
1916年に渡米するまでヨーロッパ各地を転々としました。
1924年に合衆国市民権を取得。
教育者としてアメリカ各地の音楽学校から引く手あまたで、ジョージ・アンタイルやロジャー・セッションズ、クインシー・ポーターらが門人にいます。


1920年12月に、新設されたばかりのクリーブランド音楽学校の首席音楽監督に就任、1925年までその任を務めます。

その後、1930年代はほとんどスイスに帰省していましたが、後にアメリカに戻ります。
オレゴン州ポートランドにて癌により永眠しました。

1922年ブロッホはピアノ曲「海の詩」を書いています。

Waves 波
Chanty 船頭などが歌う労働歌
at sea 海で












アルス・ノヴァ(新技法)

2024-09-16 20:59:00 | ルネッサンス
9月15日は知恩寺手作り市
ご近所のママ友Mさん、Gさんと朝8:52発の電車で行きました。

真っ先にいつもの袋物屋さん。
楽譜入れ、ペン入れ、消しゴム入れ、楽器スタンド入れ、楽器メンテグッズ入れ。
こっちは撮影OKの食品サンプル屋さん、

キーホルダーなど小さなものが人気。

やっぱり暑かった〜!

その場でセットしてくれるミニチュア店舗
疲れたのでお昼は近くのサイゼリア。

食後のコーヒーゼリーとアイスのセット。
Gさんが買った帆布のバッグ。

安くて丈夫です。
今日の収穫。

お土産の招き猫

知恩寺は1212年法然が亡くなった時にその恩に報うために建立されました。
1331年地震が起き、その後流行り病が起き、七日七夜百万遍の念仏を称えながら大念珠繰りをしたところ疫病が治まったことから「百萬遍」の号が下賜されたそうです。(知恩寺ホームページより)

1322年頃にフィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361年)によって書かれた、新しいリズムの分割法と記譜法を論じた音楽理論書『Ars nova (新技法)』

F-Pnm Français 146の Vitry のAman novi/Heu Fortuna/Heu me, tristis est anima mea の原稿、 Roman de Fauvelのバージョン

この本の名前に因んだ音楽様式「アルス・ノヴァ」がヨーロッパに広まります。

フランスの写本『ロマン・ド・フォーヴェル』のページ、パリ、BN Fr. 146(1318年頃)、「アルス・ノヴァ音楽の最初の実用的な情報源」

代表的な作曲家
ギヨーム ド マショー(1300年頃〜1377年)フランス王国ランス近郊生没



シャンパーニュ地方ランス近郊のマショーの貴族出身で聖職者になるための教育を受けます。

ボヘミア王兼ルクセンブルク伯ヨハン
14 世紀のボヘミアの聖ヨハネの胸像、ボヘミアとルクセンブルクの紋章が描かれたプラハの聖ヴィート大聖堂
の秘書となり、ヨハンの兵と共にイタリア、ハンガリー、ボヘミア、シレジア、プロイセン、ポーランド、リトアニアなどヨーロッパ各地に赴きました。

この間、ヨハンよりヴェルダン、アラス、サン・カンタン、さらに1334年もしくは1337年にランスのノートルダム大聖堂(司教座聖参事会員等の名誉職を得ました。

ノートルダム大聖堂

1346年、百年戦争初期のクレシーの戦いでヨハンが戦死すると、後のフランス国王ジャン2世(1350年 - 1364年)の妃であるヨハンの娘ボンヌ
ボンヌとジャン2世
に仕えます。
居をランスに構えます。

その後、1364年からフランス国王になったノルマンディー公シャルル(フランス王シャルル5世)、

同じくジャン2世の末子でブルゴーニュ公になったフィリップ(豪胆公)、

ナバラ王カルロス2世、

サヴォイア伯アメデーオ6世、

華麗な時祷書で知られるベリー公ジャン

など多くのパトロンに仕えました。

Dame, de qui toute ma joie (B42 または RF5)、1342 年以前、Le Remède de Fortuneより 

1349年のペスト(黒死病)大流行の後、自作品を集大成し、これらは数冊の『マショー写本』として残されています。

1359年 - 1360年には、ペスト禍が納まって再び始まった百年戦争のランス包囲戦を経験しています。

1377年4月、ランスにて死去。ノートルダム大聖堂に葬られました。

わが終わりはわが始まり
私の終わりは私の始まり 
わが終わりはわが始める
そして私の始まりと終わり
わが始めはわが終わり







モーツァルト10歳のソナタ

2024-09-15 23:47:00 | 古典
土曜の午後はギターの川原さんと秋冬なコンサートの選曲でした。

10月12日(土)13:00光明寺おてライブ、
11月30日(土)道頓堀ホテルでの依頼演奏、
12月15日(日)10:00西宮ギター練習会コンサート 夙川公民館ホール

ギター川原久美子さんとフルート久米素子で演奏します。

紅茶を持ってきてくれました。
アフタヌーンティーの紅茶ブック。
 

いろいろな種類の紅茶が入っていました。
今回はアップルティー。
爽やかなりんごの風味が残暑にぴったり。
至福〜〜〜💖

真面目に選曲はしましたよ。
いつもの定番曲だけでなく、新しい曲にもチャレンジ。
モーツァルトのソナタの第二楽章を演奏することにしました。
練習しなくっちゃ!

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

1763年6月9日7歳から1766年11月29日11歳までの約3年半、モーツァルト一家は西方への大旅行をしました。

その中でロンドンで作曲されたのが6曲からなる「ヴァイオリンまたはフルート(およびチェロ)の伴奏で演奏できるクラヴサンのためのソナタ」です。

作曲の目的は(当時20歳の)英王妃シャーロット(1744-1818年)

ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg-Strelitz, 1744年5月19日 - 1818年11月17日[1])は、イギリス国王ジョージ3世の王妃。
1781年、トマス・ゲインズバラ画
に献呈するためでした

1765年1月に「作品3」として出版されました。

これら6曲は(変ロ長調 K.10、ト長調 K.11、イ長調 K.12、ヘ長調 K.13、ハ長調 K.14、変ロ長調 K.15 )で「ロンドン・ソナタ」と呼ばれています。

モーツァルトはバッキンガム宮殿を

1764年の4月と5月の二度訪問し、1760年に即位した国王ジョージ三世(1728-1820年)

に拝謁しています。

そこではクリスティアン・バッハ(当時29歳)が王妃シャーロットの音楽教師をつとめていました。

モーツァルトは神童ぶりを発揮して一堂を驚愕させつつ、クリスティアン・バッハの作品を貪欲に吸収していきました。

ヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Christian Bach, 1735年9月5日 - 1782年1月1日)
そのうちのK.15は
3楽章ともハ長調で、アレグロを2つ続けたあとにメヌエットという構成に工夫がされています。

この曲には舞曲のような雰囲気があります。 第2楽章テーマは、父のレオポルトが病気療養中に、ウォルフガング モーツァルトがさまざまな作曲を試みて書き残した「ロンドンの楽譜帳」の第21曲(K.15v)と同じものです。 第3楽章メヌエットのトリオは「カリヨン(鐘楽)風メヌエット」と題され、鐘の音を真似る工夫をしています。

これら6曲はケッヘル旧全集から第6版まで「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」とされていましたが、新全集では「ピアノ三重奏曲」と位置づけられています。 したがって、この作品は「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第9番」または「ピアノ三重奏曲第5番」ということになっています。

もちろん私たちはフルートとギターで演奏します。






鉄道怖い?!

2024-09-14 21:00:00 | ロマン派
枚方モールがオープンしました。
行くつもりもなかったのですが…上海出張から朝帰ってきた夫が枚方市駅の近くに散髪に行くので、「ついでに枚方モールに行く?」というのでついて行きました。

駅と直結しているのでそう広くはないですが駐車場もあります。
平日なので空いていました。

露天風呂のあるホテルとも直結。
ABCマートでスニーカーを買いました。

店の窓からテラス越しに

京阪電車が見えます。
このロケーションが鉄オタ夫のツボだったらしいです。

お店のお姉さんも小さな息子さんがいるらしく男の子の鉄オタ話しで盛り上がりました。
入場券買って京都駅の新幹線を見に行ったり、梅小路蒸気機関車館に行ったり…。
どうして男の子って電車好きなのかな?って。

まあ、かわいいラッピング電車なんかは私も好きです。
話しているうちに、トーマス電車が通り過ぎて行きました。
あっ!撮りそこなった〜!

これはいいスポットができたかも。
ちなみにテラスには店に入らなくても出られるみたいです。

『観光列車』(かんこうれっしゃ、独: Vergnügungszug)作品281は、
ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

が作曲したポルカです。

ポルカ・シュネル(速いポルカ)に分類されています。

1864年1月19日にレドゥテンザールにて開催された「産業協会舞踏会」のために作曲されました。

オーストリア帝国の地方に観光列車を走らせていた、オーストリア南部鉄道の開通式に着想を受けた作品です。

オーストリア南部鉄道路線図1841年開業

トライアングルが発着の警報を、ホルンが列車の進行を暗示しています。

シュトラウス作品は、旅行や移動手段を記念するものが多いですが、シュトラウス2世自身は旅行に積極的だったわけではありません。

南部鉄道の一部ゼメリング鉄道世界文化遺産になっています。山岳を行く鉄道。
ヨハン・シュトラウス2世自身は、ゼメリング峠の絶壁を登ると仄めかされただけで怖がったそうです。
他も1870年代にボストンへの演奏旅行で鉄道を使うと分かっただけでも嫌がったと伝えられています。

妻ヘンリエッタ・トレフツ


オペラ歌手時代のヘンリエッテ
が書き残したところによると、シュトラウスは「列車に乗ってもう一度アメリカ旅行をするぐらいなら、殺されたほうがましだ。」と打ち明けていたそうです。
本当に?!







最古のバガテル

2024-09-13 21:00:00 | バロック
木曜日朝7:30に牧野を出発。松井山手で母をひらって9:00に京都の病院に到着。
母の心臓の大動脈弁の術後健診2年目です。
病気の駐車場には萩の花が満開でした。
満開と言っても野生の花は楚々としたものです。
表玄関近くの駐車場は9:00と言ってもどこも満車。病院の裏側、一番奥の駐車場は野生の萩が進出しても放置です。
おかげで秋を感じることができました。と言っても31度…暑かった。

血液検査、検尿、CT、エコーと回って、形成外科で傷跡の貼薬を処方してもらって、循環器の先生に会って、次回の予約をしてもらって、もう一度形成外科で同じ日をとってもらって放免。
会計をして、処方箋をFAXしておいて
1:00近く。
松井山手に帰って薬局に寄って薬を頂いて、母の依頼の酒屋さんでノンアルビールを1ケース買って、ようやくお昼を食べて、野菜買って帰りました。

実は車の中の後部シートと後ろの荷台はボールプールと椅子でいっぱい。
昨日はファミリーポートが休みだったので一晩アクアの中で温め。病院にも一緒に行きました。

スタッフのYさんをひろって、ファミリーポートへ行き、ようやく返すことができました。
ついでに使っていないチャイルドシート2台も返却。スッキリしました。

全て片付け帰宅5:00頃。
お花の頭が垂れていたので慌ててお水をあげて
練習しようと思ったけれど、疲れてうとうと。

目が覚めると集中豪雨!
あ〜あ、お水あげたのに。
次男が帰ってきて「1時間雨雲レーダー予報見なくちゃ。」ともっともな意見。
6:00から5歳児を迎えに行かなくちゃ。雨の用意をして出たら前が見えない豪雨。
しかし10分ほどの幼稚園に着いた頃には小雨に。
助かりました。

今日の作品。昨日から作っていたものの続き。 
「ピタゴラスイッチ!」と言っておりましたが、これは「コリントゲーム」?
ボールを転がして遊んでいましたが、途中から数字を自分であちこちに書いて「数字は、どこにあるでしょうか?」ゲームに。
いろいろ考え出して遊ぶものです。

しかし!今日は結局練習できなかった…。

調べて見ると、「コリントゲーム」は昭和初期にこのゲームを入れた小林脳行の紹介したピンホールゲームの名前だそうです。

棒とボールを使ったテーブルゲームは、グラウンドビリヤード、クロッケー、ボーリングなどの屋外ゲームを悪天候時に屋内でプレイできるようにするための取り組みから生まれました。

フランスでは、ルイ14世(1638-1715年)

の長い統治期間1643年から1715年にかけて、ビリヤード台が狭くなり、テーブルの片側に木製のピンまたはスキットルが置かれ、プレーヤーは反対側からスティックまたはキューでボールを打ち出すという、バリエーションが数多く開発されました。

1777年、ルイ16世(1774-1792年)

と王妃(1755-1793年)
ジャン=バティスト・アンドレ・ゴーティエ=ダゴティ作、1775年頃の宮廷衣装を着たマリー・アントワネット王妃
を招いて、王の弟アルトワ伯爵

アルトワ伯爵シャルル10世(シャルル・フィリップ、1757年10月9日 - 1836年11月6日)は、1824年9月16日から1830年8月2日までフランス国王。 戴冠していなかったルイ17世の叔父であり、在位中のルイ16世とルイ18世の弟。
が多額の費用をかけて建てたばかりのバガテル城

バガテル城
バガテル城の裏側
でパーティーが開きました。

そこで行われたゲームは伯爵によってバガテルと名付けられ、その後すぐにフランス中に広まりました。

城の名前「バガテル」とイタリア語のbagattellaから来る名前で、「つまらないもの」「装飾品」を意味します。

パーティーのハイライトは、細長いテーブルとキュースティックを使った新しいテーブルゲームで、傾斜した競技場で象牙のボールを打ち上げるものでした。

19世紀になってアメリカではフォーチュナ、ピンホール、日本ではスマートボールという名前で発展しました。

バガテルは短い音楽作品の名前としても用いられています。

バガテルという名前は「短く気取らない器楽作品」を意味し、作品の軽快なスタイルに由来しています。

バガテルは一般的にピアノ独奏用に書かれていまふが、ピアノ連弾、チェンバロ、ハープ、オルガン、クラシックギター、ビブラフォン、無伴奏オーボエ、クラリネット、バイオリン、ビオラ、様々な室内楽構成、オーケストラ、バンド、声楽とピアノ、アカペラ 合唱用に書かれていることもあります。

最も有名な「バガテル」はベートーヴェンの「エリーゼのために」です。

最も古い「バガテル」はフランソワ・クープラン(1668-1773年)の第10番チェンバロ 協奏曲(1717年)です。


フランソワ ・クープラン(1668.-1773年)
フランス王国パリ生まれ、
オルガン奏者、チェンバロ奏者で作曲家。

音楽一族のクープラン家の一人として生まれ、他のクープランと区別するために特にクープラン・ル・グラン (偉大なるクープラン)と呼ばれています。

1713年にクープランは、王室の特権を申請し、「器楽と声楽のための、合同または分離した作曲による音楽小品」を出版する許可を得て、チェンバロ作品集(全4巻)の第1巻『クラヴサンの小品』を出版しました。

1716年にはチェンバロ演奏教本『 クラヴサンの演奏技法』 (ただし、翌年すぐに回収され再出版されました)、

その他の鍵盤楽器と室内楽集も出版されました。

1717年、クープランはルイ14世によりクラヴサンのための王室室内楽司令官となりました。これは宮廷音楽家にとって最高の地位のひとつでした。








オーボエ再び

2024-09-12 20:57:00 | ロマン派
プロージットオーケストラでお隣のオーボエさんのリードが気になります。
パレットみたいでかわいいです。

譜面台にカップをつけて湿らせながら使います。
もう一人オーボエくんのは、

なんかゴージャスな入れ物。

これは譜面台にトレイをくっつけてカップもパレットも一気に乗せておくタイプ。
整然としてきれいです。

この前オーボエのリードについては書いたので、これだけなのですが、フルートは金属化して自然のもので残っているのはタンポのフェルトとそれをくるんでいる羊の腸の皮くらいです。

以前は自分で調整したりなんかしていましたが、最近は腕の良いリペアマンにお任せなので、自分で調整できるところはほぼありません。

たがらなんだか懐かしく、羨ましくもあるのです。

リヒャルト シュトラウス(1864−1949年)ドイツ連邦バイエルン王国バイエルン生まれ、ドイツ連邦共和国バイエルン州ガルミッシュ=バルテンキルヒエン没

は、1945年に「オーボエ協奏曲」を作曲しています。

第二次世界大戦終戦直後の1945年。スイスのチューリッヒ近郊で作曲されました。

この頃シュトラウスはバイエルン、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの山荘に滞在していました。

そこへアメリカ陸軍の軍曹だったオーボエ奏者のジョン・デ・ランシーが訪れました。

ジョン・デ・ランシー(1921-2002年)

ガルミッシュへの米軍進駐はヒトラー自殺の前日(4月29日)から平和裏に行われ、その中に防諜担当のアルフレッド・マン中尉(Alfred Mann)がいました。

マンはドイツから亡命したユダヤ人で、兵役前は音楽学を専攻していました。5月になってデ・ランシーの所属する部隊が到着した時、マンは以前から面識のあったデ・ランシー軍曹をシュトラウスに紹介しました。

デ・ランシーは

「あなたの作品にはオーボエの素晴らしいソロが多く出てきますが、そのオーボエのための協奏曲を書くつもりはないのですか?」

と問いかけましたが、シュトラウスは「特にありません」と返答しました。

デ・ランシーが引き上げてしばらくした後、シュトラウスは気が変わり、同年の秋から移住したスイスでオーボエ協奏曲の作曲を始めました。

ただシュトラウスはデ・ランシーの名前を正しく憶えておらず、「ピッツバーグ」も「シカゴ」と誤記しています。

初演は翌1946年2月26日にチューリヒで、マルセル・サイエのオーボエ独奏、フォルクマール・アンドレーエの指揮、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団によって行われました。

シュトラウスが独奏者に希望したデ・ランシーは曲の完成すら知らないまま既に除隊・帰国し、後に行われたアメリカ初演でも、在籍していた楽団の都合で結局吹くことができませんでした。

デ・ランシーは1964年になってから1度だけ演奏しています。

シュトラウスはフランス式(世界的に一般的なコンセルヴァトワール型) 

楽器の優越性を早くから公言していて、それによる演奏を想定しています。

ウィーン式の楽器

でも1948年12月18日から20日にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会でハンス・カメシュ(Hans Kamesch)が最初に演奏しています(指揮はヴィルヘルム・フルトヴェングラー)。

1948年にブージー&ホークス社から楽譜が出版された際、シュトラウスは全曲の終結部分を少し長めに書き足しました。

現在はその改訂版で演奏されることが一般的です。



しばしの自由

2024-09-11 21:02:00 | 古典
火曜の朝は子育てサロン。
お名前を呼んで、手遊びをした後、
ボールプール。

受けました。
…めっちゃ受けました。
ボールの海でバシャバシャ泳ぐ子、飛び込む子、ボールを投げて遊ぶ子。
小さなブールでしたが、充分でした。

午後からは天満橋ルーシェ音楽院の部屋を借りてチェロの斉藤千秋さんとハイドンのロンドントリオとヘンデルのフルートソナタを合わせました。

ルーシェは天満橋を渡って川沿いに少し戻ったところです。



時間決めのレンタル練習室は、電子錠、料金は封筒に入れてポストインと徹底的に人を介さないシステムでした。

斉藤さんとは以前、エイパでお会いしました。
ようやくねがいがかなって「聴き合い会」でご一緒することができるようになりました。

ロンドントリオはフルート2本ですが、今川さんのご都合が合わなかったので、一人でファーストを吹きました。

大体のテンポを決めて、それで練習してくることにしました。今川さんにも伝えなくちゃ。

それから、ヘンデル。こちらはピアノの坂田さんとのトリオなので坂田さんにも後で伝えます。

8番のテンポを決めたら時間が余ったのでハ長調も急遽やりました。

ハ長調もいい曲!またやろう。


フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

ピアノ三重奏曲を45曲書いていました。
大部分は鍵盤楽器(チェンバロまたはピアノ)、ヴァイオリン、チェロによります。
が、Hob. XV:15-17の3曲は1790年にロンドンで出版されたときにヴァイオリンではなくフルートを使っていました。

1780年ごろにはエステルハージ家

の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率が増していきました。

の時期には『ロシア四重奏曲 作品33』(1781年)、『チェロ協奏曲第2番 作品101』(1783年)、『ピアノ協奏曲 ニ長調(Hob. XVIII:11)』(1784年出版)などの重要な作品がまとめて書かれました。

またハイドンはウィーンのアルタリア社やロンドンのフォースター社などと契約を結んで楽譜を出版しました。

1785年から翌年にかけてはフランスからの注文で『パリ交響曲』(第82番『熊』~第87番)を作曲しましたが、これはエステルハージ家以外の楽団のために書かれた最初の交響曲でした。

1785年にはスペインからの注文によって、管弦楽曲(後に弦楽四重奏曲やオラトリオに編曲)『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』が作曲されました。

ハイドンは「侯爵が生きている限り、彼のもとを離れるわけにはいかなかった。」といい、長い間イギリスからの招待も断っていました。

また、ハイドンは次のようにも述べています。

「侯爵は私の全ての作品に満足していた。私は承認を得て、オーケストラの楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができたのだ。私は世間から隔絶されていて、私の周りには行く手を惑わせたり邪魔したりする者は誰もいなかった。だから、私は独創的にならざるをえなかった。」

1790年、エステルハージ家のニコラウス侯爵


が死去。
その後継者アントン・エステルハージ (1738–1794))侯爵

は音楽に全くと言っていいほど関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンに年間1400グルデンの年金を与えて年金暮らしにさせてしまいました。 

ただしハイドンにしてみれば、自由に曲を書く機会が与えられながら、同時に安定した収入も得られるという事で、必ずしも悪い話ではありませんでした。

ウィーンに出てきていたハイドンは、ロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで演奏会を開催していた興行主ヨハン・ペーター・ザーロモン(1745−1815年)

の招きにより、イギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになりました(オペラ『哲学者の魂』は完成したものの上演されませんでした)。

ハイドンはエステルハージ家を離れて一時期、自由に作曲活動が行えた時期の作品の1つです。

ピアノ三重奏曲Hob. XY15