音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

川のカンタータ

2024-09-10 21:04:00 | バロック
月曜日は午前中、京都今出川大宮の富久田先生レッスン。
久しぶりの快晴。
前回は停電に巻き込まれ、樟葉で足止めでしたが、今回は何事もなく無事バスに乗れました。



ヘンデルのフルートソナタヘ長調八番をチェロとピアノで吹くので見ていただきました。

基本に立ち返って、タンギング。
音程。楽器を、叩かないなど今一度省みる名曲です。


バスから見た御所
今日は1回戻って夕方から渡辺橋プリンシパルてエスカルの練習なので、まっすぐ帰ってきました。

枚方市は大阪の東の端でちょうど京都駅と大阪駅の間。
どちらも同じ距離で行けます。
この鴨川は枚方の手前の八幡市で木津川、宇治川と合流し、支流に別れたりしながら渡辺橋の先で大阪湾に流れ込みます。

筑前橋から大阪湾に向かって流れています。反対側は渡辺橋

Schlicht, spieleende Wellen
「忍び寄れ、きらめく波よ」BWV 206は、
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

がライプツィヒで作曲し、1736 年 10 月 7 日に初演された 世俗カンタータです。

バッハはポーランド王ザクセン選帝侯アウグスト 3 世

のためにこのカンタータを作曲しました。

この曲は、1736 年の10月7日彼の 40 歳の誕生日に、ライプツィヒのカフェ ツィンマーマン

ツィマーマンコーヒーハウスのあるエルテルの家、ヨハン・ジョージ・シュライバーの版画より(1720年)
でコレギウム ムジクムによって初演されました。 2 回目の公演は 1740 年 8 月 3 日に再びカフェ ツィンマーマン

で行われました。

この作品の台本作者は不明ですが、クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリチ(ピカンダー1700-1760年詩人、バッハの台本作家)である可能性が高いです。

このカンタータは、バッハがライプツィヒ大学の祝典のために書いた作品の一つに数えられています。
この曲は〝音楽による劇〟で、この王様の領地を流れる次の4つの川が擬人化されて、登場人物となっています。

ソプラノ プライセ川=ライプツィヒを流れる川

アルト ドナウ川=オーストリアの首都ウィーンを流れる川

テノール エルベ川=ザクセンの首都ドレスデンを流れる川

バス ヴィスワ川=ポーランドの首都ワルシャワを流れる川

内容は、ザクセン選帝侯がポーランド王を兼ねるという、当時の特殊な政治状況を反映しています。

主君を讃える音楽ですが、劇のような形にすることで、市民も楽しめるドラマに仕立てています。

主人公は川たちという音楽劇です。

ザクセンを流れるエルベ川は、ヴィスワ川に対し、アウグスト陛下はあくまでもわれらの君主であり、ポーランドには貸しているだけで、あげたわけではないぞ、と釘を刺しています。

もし自分がアウグスト王のことを忘れたなら、遠くインドのガンジス川に呑まれて、マラバル人(インドの西南部地方)のものになってしまうだろう、といいます。ヨーロッパの川ではなくなって、野蛮人の川になってしまう、と歌います。

1.Chorus:這い、波を奏で、優しくつぶやく
しのび流れよ、戯れる波、せせらぎの音も穏やかに!

いや、ざわめき急げ

岸を、岩を、鳴りどよめかせ!

われらの流れをかきたて

すべての波をさざめかせる喜びよ

堰を破れ!

川の水をよどませる偽りと憚りの堰を!

2.レチタティーヴォ(バス):おお、幸せな変化よ

3.アリア(バス):ヤヌス神殿の扉を閉める
4.レチタティーヴォ(テノール):そうなんです!楽しいヴィスワ川
5.アリア(テノール):私の波のすべて
6.レチタティーヴォ(アルト):私は同時にあなたの喜びを分かち合います
7.アリア(アルト):ハプスブルク家の高等部族の米
8.レチタティーヴォ(ソプラノ):許してください、強い川の苔むした頭たち
9.アリア(ソプラノ):聞いてください!優しいフルート合唱団
10.レチタティーヴォ ( SATB ):従順でなければならない、従順でありたい

11.コーラス:永遠の善に対する天の警告



初演200周年ベートーヴェン

2024-09-09 21:03:00 | 古典
日曜日はフェニーチェ堺で、プロージット室内管弦楽団の練習です。
「それどこにあるの?」から始まって、うーん駅から歩いて900メートル。
午後3:00集合。
暑そう。
夫と次男が空いています。
頼みました。

半分は私のためではありません。
止めっぱなしのスカイラインを動かすため。と言っても助かります。
牧野から1時間足らずで着きました。

オールベートーヴェンプログラム。
第九初演プログラム再現特別演奏会

10月20日(日)14:15開場15:00開演14:40より指揮者木許裕介氏によるプレトーク

ソプラノ杉浦希未 メゾソプラノ谷田奈央 テノール清原邦仁 バリトン池田昌巳
コンサートマスター友永健二

献堂式は、ベートーヴェンにしてはあまり上演されない曲ですが、1824年5月7日 今からちょうど二百年前に第九初演時にミサ・ソレムニスと共に演奏されました。

この時の演奏会はどんな様子だったのでしょう。

『献堂式』序曲(けんどうしきじょきょく、Ouvertüre „Die Weihe des Hauses“) 作品124は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲した序曲です。ベートーヴェンが純粋管弦楽のために作曲した最後の作品にあたり、1820年代に書かれた唯一の序曲でもあります。

出版:1825年にマインツのショット社より出版。
献呈:ニコラウス・ガリツィン侯爵。

1822年に、ウィーンに新築されたヨーゼフシュタット劇場


ヨーゼフシュタットの kk 特権劇場、1844 年
のこけら落としのために作曲された祝典劇の序曲です。

劇場の支配人カール・フリードリヒ・ヘンスラーは作家のカール・マイスル(Karl Meisl, 1761年 - 1825年)

に劇の制作を依頼し、マイスルが制作した作品は『侯爵の肖像』と『献堂式』の2作品でした。

祝典劇の『献堂式』はかつてブダペストで上演された付随音楽『アテネの廃墟』(コツェブー原作)を翻案することが決まったため、マイスルは内容を一部変更し、同時にベートーヴェンも劇の音楽を改作することになりました(ただし大半は『アテネの廃墟』からの転用でした。)。この改作で生み出された作品が合唱曲(WoO.98)と『献堂式序曲』です。

祝典劇の初演は1822年10月3日に、ウィーンのヨーゼフシュタット劇場でフランツ・グレーザーの指揮で行われた。

また、1824年5月7日に交響曲第9番が初演された際に、ミサ・ソレムニスからの3曲(プログラムには「三つの大賛歌」として記載)とともにこの曲も演奏されています。

ミサ・ソレムニスは 
1824年4月7日にサンクトペテルブルクでの「音楽家未亡人のための慈善演奏会」で初演されています。

ウィーン初演は1ヵ月後の5月7日で交響曲第9番とともに演奏されましたが、全曲ではなく、『キリエ』、『クレド』、『アニュス・デイ』しか演奏されませんでした。楽譜の初出版は1827年。

『キリエ』冒頭には「心より出で-願わくば再び-心に向かうよう」にと記され、

自筆、キリエの冒頭、有名な献辞「Von Herzen...」と演奏アドバイス「Mit Andacht」(「献身的に」)付き
『アニュス・デイ』では戦争を暗示する軍楽調の部分や「内と外の平和を願って」
とのベートーヴェン自身による指示が書き込まれています。これらは、ベートーヴェンが心の平安と外的な平和を統一して希求する音楽として作曲していたことを示しています。

『アニュス・デイ』においては、ヘンデルの影響も古くから指摘されています。

ベートーヴェンは交響曲をアレクサンドル1世に、『ミサ・ソレムニス』を皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナにそれぞれ献呈し、その見返りとしてロシア帝室からの年金の下賜を期待していた節があります。

その後の推移ははっきりしていませんが、1825年11月25日付のショット社宛の書簡では「献呈はまだ決めていない」と記していて、それから間もない12月1日にアレクサンドル1世は崩御。

年明けた1826年1月28日付ショット社宛の書簡では「皇帝アレクサンドルに捧げられることが決まっていましたが」と記しており、同時に新しい献呈先を近いうちに知らせると記しています。

当時のウィーンではロッシーニのオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していました。
しかし、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い止まります。

初演は1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場

においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」や「献堂式」序曲とともに初演されました。

ベートーヴェンは「総指揮者」として作品に立ち会いましたが、指揮者としてのブランクや、聴力の衰えもあったことから、実際の指揮はミヒャエル・ウムラウフが行いました。

初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説あります)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成でした。

合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デル・マーは「合唱団は40人」としていますが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」になります。

参加者の証言によると、第九の初演はリハーサル不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)で、かなり不完全だったといわれています。

ソプラノソロのヘンリエッテ ゾンターク
 
ゾンターク1825年
は18歳、
アルトソロのカロリーネ ウンガー

は21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えています。

さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足でした。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られています)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていました。
 
一方で、初演は大成功を収めました。

『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載があります。

ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がりました。

1815年ベートーヴェン
ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気づきませんでした。

見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンを聴衆の方に向かせ、初めて拍手を見ることができました。

観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っています。

このように「好評」の逸話が残る初演ですが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話で、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もあります。 

なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられています。

シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかったと思われます。

次の再演では予め1200グルデンがベートーヴェンに支払われています。



ジプシー(ロマ)の歌

2024-09-08 21:01:00 | ロマン派
奈良県音楽芸術協会のファインアーツコンサート。大和郡山城ホール。
オペラパークオーケストラのピッコロとフルートで出演してきました。

緊張しました…けど楽しかった。
私はピッコロ参加と、3rdフルート2小節。なので入って、吹いたと思ったら引っ込んでと言う具合で
クラリネットの降り番の人や、打楽器の降り番の人と

舞台袖で待機。

入った時は、楽器をベストの状態で保つために、空気を入れて温めて…。
ほぼこれが仕事と言っていいでしょう。
幸せな時間はあっという間に過ぎてしまいました。

終演後バブアゼ先生に会ったら「ありがとう。また、ぜひ出演してください。」と言われて感激しました。

優しい!
他のソリストのみなさんも名手揃いでした。
フルートパートで写真。

幸せ!
メゾソプラノの堀口莉絵さんに会って写真撮ってもらぃした。

「カルメン」の「ハバネラ」「セギディーリャ」「ジプシーの歌」のすごい表現力。
楽しくてパワフルですっかりファンになってしまいました。

堀口さんの動画チャンネル

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ブージヴァル没

の歌劇「カルメン」はオペラ『カルメン』は、プロスペル・メリメ(1806-1872年)

の小説『カルメン』を元に、アンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィがリブレット(台本)を作り、ビゼーが作曲した4幕もののオペラです。

音楽(歌)の間をレチタティーヴォではなくメロディのない台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれていました。

1875年3月3日、パリのオペラ=コミック座

オペラ=コミック座が、1840年から1887年まで本拠とした、第2代サル・ファヴァール
で初演されました。
初演は不評でしたが、その後の客入りと評判は決して悪くなく、ビゼーのもとには『カルメン』のウィーン公演と、そのために台詞をレチタティーヴォに改めたグランド・オペラ版への改作が依頼されました。

この契約を受けたビゼーでしたが、持病の慢性扁桃炎による体調不良から静養中の6月4日、心臓発作を起こして急死してしまいます。

そこで友人の作曲家エルネスト・ギロー(1837-1892年)

が改作を担当してウィーン上演にこぎつけます。
以降フランス・オペラの代表作として世界的な人気作品となりました。

リブレットはフランス語で書かれていますが、物語の舞台はスペインです。
音楽もハバネラやセギディーリャなどスペインの民族音楽を取り入れて作曲されています。

タバコ工場の女カルメンは仲間と喧嘩騒ぎを起こし牢に囚われることになります。

セビリアの旧タバコ工場、現在は大学になっています。

しかし、護送を命じられた竜騎兵の兵長ホセを誘惑し、脱獄に成功します。ホセは代わりに牢に囚われます。

「1月後にリリアス・バスティアの酒場で会おう。」というカルメンの言葉に、1ヶ月後、釈放されたホセが酒場に行くと、自由になったカルメンは仲間と「ジプシーの歌」を歌い踊っています。

ロマ(Roma、単数はロム)は、インド北部が起源と考えられ、中東欧を主として世界各地に居住する民族グループです。

「ジプシーのキャンプ」と題されたジャック・カロの銅版画を転載した挿絵

英語の「ジプシー」など、欧州を中心にさまざまな呼称が使われています。

1971年に世界ロマ会議の出席者により従来の呼称は差別的ニュアンスが含まれているとして、「ロマ」の呼称を用いるよう決議されました。

ロマの起源は5世紀に遡ります。
8世紀には、ムルタンの近くのシルマン山にヤットという名称のロマの集団が住んでいました。

彼らはインドの支配から独立を望み、アラブによるインドへの侵攻時にアラブと手を組みました。
ところがアラブがインドに敗北してしまったため、714年、退却するアラブの軍勢とともに西へ移動しました。
これがロマの起源です。
他にもいろいろなルートや起源説が混在しています。

ロマの荷馬車(1935年、ドイツ)

16世紀半ばにはイギリスの各地の地方自治体はロマに退去命令を出しました。

1561年にはフランスのシャルル6世がロマを2ヶ月以内に領土から追放するよう命令を出し、この命令に従わないロマは頭髪を剃り落とされ、罪人として晒し者にされ、ガレー船の漕手として3年間の重労働に服さなければなリませんでした。

1596年にはイギリスで放浪中のロマ196人が捕縛され、うち106人が死刑の宣告を受けました。このうち9人が実際に死刑となり、残りは出身地に連れ戻されました。

1714年にはドイツでマインツの大司教
がロマに対して裁判抜きの処刑・鞭打・追放・重労働を命じました。

1761年、オーストリア

マリア・テレジアのロマの同化政策
ではロマの定住化が図られ、ロマの青年に対して徴兵や職業訓練をおこない、領主への従属や納税の義務を課し、ロマ同士の結婚を禁じ、ロマの子はロマではない家庭に入れて育てることとしました。

これは人道的な同化策でしたが、定住や(ヨーロッパ人の考える)文化的な生活の押し付けとなり、ロマたちの拒否することとなりました。

1773年にプロイセンのフリードリヒ大王

がロマを隔離して定住させようとしましたが、結局失敗しています。

1935年になるとナチスドイツがロマを劣等民族と法律で定め、断種政策、絶滅計画が実施されました。

カルメンはそのロマの1人。
タバコ工場で仲間たちと同化できず、押さえつけられて、牢に囚われても自分の力でなんとかして飛び出し、自由を得てロマの仲間たちと歌い踊ります。
流浪の民のエネルギーが炸裂します。

セヴィリアの町外れにあるリリアス・パスティアの酒場

「ジプシーの歌」
鈴が鋭い音を鳴らす
金属的な響きをあげて
するとこの不思議な音楽に
ジプシー女たちが立ち上がる
タンバリンが調子を取ると
ギターは狂おしく
しつこく掻き鳴らされる
同じ歌、同じルフラン!
トラ・ラ・ラ・ラ…

銅と銀の腕輪が
浅黒い肌に輝く
オレンジと赤の縞模様の
衣が風にひるがえる,
踊りは歌とひとつになる
初めは小さく、ぼやけているが
次第に生き生きと、テンポを上げて
高鳴る、高鳴る、高鳴っていく!
トラ・ラ・ラ・ラ…

ジプシー男は力の限り
激しく楽器を掻き鳴らす
目もくらむようなどよめきは.
ジプシー女をとりこにする
歌のリズムに
燃えて狂って興奮した
女たちは有頂天になって
この渦に身を任せる
トラ・ラ・ラ・ラ…




水の戯れ

2024-09-07 21:00:00 | 近代
朝、子育てサロンのスタッフYさんとファミリーポートひらかたへ行きました。

お目当ては、これ。

次の火曜日に子育てサロンで使うボールプールを借りに来ました。

本物のプールには敵わないけれど、ひんやり冷たくてコロコロの感触は子どもたちに人気です。

サロンの子どもたちにも味わってもらいたくて!
プールの囲いはポートのスタッフのみなさんが作った牛乳パックを布で包んだ普段は椅子に使っているものです。
動物や電車の模様がついています。
子どもたち喜んでくれるかな?

殿二校区子育てサロン 毎月第二火曜日(8月は無し)10:00-11:30
会館トノ二 申込み不要 無料
子育て中の保護者と子ども、妊婦さん、ぜひおいでください。
子育て仲間と出会いませんか?

モーリス ラヴェル(1875-1935年)フランス共和国シブール生まれ、フランス共和国パリ没

『水の戯れ』(みずのたわむれ、仏: Jeux d'eau)は、ラヴェルがパリ音楽院在学中の1901年に作曲したピアノ曲です。

当時の作曲の師であるガブリエル・フォーレ(1845〜1924年)

に献呈されました。
初演は1902年4月5日、サル・プレイエル


で行われた国民音楽協会主催のリカルド・ビニェス
リカルド・ヴィニェス(左)とラヴェル
ヴィニェスはラヴェルやドビュッシーの初演を数多くつとめた優れたピアニストであり、文学にも造詣が深く、ラヴェルに影響を与えました
のピアノ・リサイタルで『亡き王女のためのパヴァーヌ』とともに初演されました。

ホ長調、4分の4拍子、8分音符=144、きわめて優しく。

ラヴェルは「テンポ、リズムも一定なのが望ましい」書いています。

楽譜の冒頭に、「水にくすぐられて笑う河神(ポタモイ)」というアンリ・ド・レニエ(1864-1936年)

の詩の一節を題辞として掲げています。

曲の構成はソナタ形式。
また、七の和音、九の和音、並行和声が多用されており、初演当時としてはきわめて斬新な響きの作品でした。

実際初演時には『亡き王女のためのパヴァーヌ』と比較され、耳障りで複雑すぎるとの評価がくだされました。

出版時には「まったくの不協和音」というカミーユ・サン=サーンスの酷評をも招きました。

しかし、今日では「水の運動と様態を描いてこれほど見事な作品はあるまい」(三善晃)などと高い評価を得ています。
また、ピアノ音楽における印象主義の幕開けを告げた作品とされています。

ラヴェル「水の戯れ」



細川ガラシャの戯曲1689年

2024-09-06 21:04:00 | 現代
京丹波に出張した夫が、栗を買ってきました。
バーキングエリアから入れる道の駅「味夢の里」
最近できたみたい。
「野菜は?」と聞くと
「帰りの時間が遅かったから、茄子とゴーヤしかなかった。」残念。
仕事だから仕方ないね。
栗だけは行きにトイレに寄った時に買ったそうです。

栗の袋も…丹波栗。
昨日の栗だから安かったそうです。帰りに見たら当日のは倍の値段!
びっくり。
栗の最高級だものね。 

福知山城も外から見たらしい。
明智光秀の城
光秀自販機


明智光秀

の娘 玉

全像本朝古今列女伝
はキリスト教に改宗しました。
ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していました。

そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容のラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が制作されました。

この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)
1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演されました。

脚本は当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウト(1654-1712年)が作曲しました。

アドルフは、この戯曲の要約文書[において、物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」であると述べています。
さらに、彼が執筆に際して直接の典拠としたのは、コルネリウス・ハザルト著「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」

の独訳本の第1部第13章、「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」だったことをも明記しています。

戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれています。 夫の君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きだそうです。

この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれました。

マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1680-1741年)

マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ ((1683-1754年)

マリア・マグダレーナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1689-1743年)

さすがにこの音楽は見つけることができませんでした。
台本はバイエルン州立図書館にデジタル化されて残されています。

2014年上智大学で(抜粋上演)
2023年東京音楽学校奏楽堂で再演されたことはあるようですが…。

細川ガラシャの辞世の句

散りぬべき 時しりてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ

鈴木静一(1907-1980年)

東京府出身。幼時よりオルガンや謡曲に親しみ、中学教師より作曲法と和声法を学びました。

父親の希望により慶應義塾に入学しました。
しかし、在日イタリア人の声楽家アドルフォ・サルコリにマンドリンと作曲を師事し、大学を中退。

作曲家・マンドリニストとして活動を開始します。

1927年には「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催の第1回マンドリンオーケストラ作曲コンクールで『空』が1位なしの2位を獲得し、翌年の第2回コンクールでも『北夷』が1位なしの2位を獲得しました。

このころ新交響楽団常任指揮者ヨゼフ・ケーニヒより指揮法を、声楽家ヘルマン・ヴーハープフェニッヒより和声を学びます。

戦中・戦後には黒澤明監督の『姿三四郎』を始めとする数多くの映画音楽や流行歌を手掛け、マンドリン音楽界から遠ざかります。

しかし1966年頃からマンドリン界に復帰し、その死に至るまでの十数年間に数多くのマンドリンオーケストラ曲を作曲しました。

1968年に作曲した劇的序楽「細川ガラシャ」はマンドリンオーケストラにフルート、打楽器が入った壮大な曲になっていて、日本のマンドリンオーケストラの古典になっています。









パステルとラ・シルフィード

2024-09-05 21:00:00 | ロマン派
火曜と水曜の夕方は5歳児を幼稚園に迎えに行って自宅で遊んでからお家に送っていきます。

先週からハマっているすごろく作り。新作が続々とできています。
お迎えに行くと「はよ帰って…あれ、あれ使わんと。」と言いながらやってきました。
「何のこと?」という私に
「あれやん、描くやつ!」
昨日うちにおいてあったパステル!
時間切れで使えなかった。よく覚えています。


手を真っ黒にして描いてくれました。

今日のすごろく…パステルです。

私も2日目で完成。
スウィーツすごろく。
「お菓子何かある?」と聞きながら描いたら「アンパンマンチョコピスケッチヨ」とか、「スニッカーズ」「m&m's」「アンパンマンうどん」
「スナック菓子みたいなもんばっかりやね。」と言うと
「ホールのチョコレートケーキと、いちごケーキ描いて!」

色鉛筆は写真には色が薄いです。
「芯が減って描けなくなってきたわ。」と言うと「クレヨンで描いたらいいやん。」と言います。

「そうだ!」と小さな鉛筆削りを出すとキョトンとしています。
「これでね。削るの。そうすると鉛筆がまた使えるの。やる?」
削ってくれました。
鉛筆を削ったのは初めてだそうです。
ハマりました。

全部ピンピン!

できたすごろくで遊んでいると途中で時間になりました。
「え〜!まだやりたい!帰りたくない!」
というのを、「また、来週ね。」と帰しました。

パステル(Pastel)は、炭酸カルシウムなどの顔料に着色顔料やトラガカントゴムなどの接着剤を練り合わせて固めた画材です。
語源はフランス語の「練り固める」という意から転じているそうです。

パステルの製造は15世紀に始まっりました。
1499年にミラノに到着したレオナルド・ダ・ヴィンチは、フランスの画家ジャン・ペレアールからパステルという画材について学びました。

レオナルド ダ・ビンチ (1510–13)
右向きの聖母頭部四分の三像 パステル

パステルは17世紀以降に珍重され、その大胆な色彩と、布地や質感、光を忠実に模倣する能力によって、肖像画の芸術とは切り離せないものとなっていきます。

ロザルバ・カッリエーラ(1675-1757年)イタリア ヴェネツィア 自画像パステル
18世紀はパステルの黄金時代。
この画材を肖像画を描くのに使うことが流行となり、ガッシュとの混合技法で描かれることもありました。
今では姿を消したパステルの定着法も開発されました。

ポンパドゥール夫人の肖像 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール1752年 パステル ルーブル美術館

アンシャン・レジームの優雅さの象徴だったパステル画は、フランス革命後まもなく廃れ、油絵に取って代わられました。
しかし、パステル画は使われ続け、印象派のエドガー・ドガやトゥールーズ=ロートレック、ナビ派(エドゥアール・ヴュイヤールなどを含む)によってさらに発展し、1890年代には象徴主義運動によって真のルネサンスを迎えます。

1950年代にはパステル技法はすっかり姿を消したかに見えました。
1965年頃からドライパステルが開発され、新しい表現を生み出しています。

画家エドガー ドガ(1834-1917年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国パリ没

彼はパステル画をよく描きました。
これは銀行家だった父が負債を隠したまま亡くなった上に、兄が事業に失敗して負債を抱えたため、その負債を返済するために大量に絵を描く必要があったので、早く描けるパステルを多用しました。

《エトワール》(1876-77年、オルセー美術館)
有名なエトワールも


【踊り子たち、ピンクと緑】
制作年:1894年
原画サイズ:66 x 47cm
所蔵:吉野石膏株式会社
この絵もパステル画です。

生涯独身で女性と目を合わせるのも難しかったドガは劇場に通うか、踊り子をモデルとして雇って描きました。

踊り子の作品群は生前は発表されず、ドガの死後発見されました。
ドガ画 エトワール オペラ座のオーケストラ
どのバレエ音楽を聞いていたかははっきりとはわかりませんが、その頃流行ったロマンティックバレエを聴いていたに違いありません。

フレデリック ショパン(1810-1849年)ワルシャワ公国ジェラソヴァ ヴォラ生まれ、フランス共和国パリ没 

の音楽を用いたバレエ「ラ・シルフィード」
1832年パリオペラ座で初演されました。
フィリッポ タリオーニ振付、音楽はジャン・マドレーヌ・シュナイツホーファの編曲でした。


シルフィード役を演じるマリー・タリオーニ

「ラ・シルフィード」
あらすじ
スコットランドの農村。
婚約者エフィとの結婚式を控えたジェイムズの前にシルフィードが現れて魅惑的に踊り彼を魅了します。

親戚や友人たちが祝福に訪れますが、エフィを愛するグエンは彼女を諦められない。

占い師マッジはエフィに「幸福な結婚をするが相手はジェイムズではなくグエンである」と告げ、怒ったジェイムズによって追い出されます。

ひとびとが式の準備に出てジェイムズがひとりになると再びシルフィードが現れ、結婚を知ると嘆き悲しみながら愛を告白します。

やがて結婚式が行われるが、シルフィードが指輪を奪い去り、ジェイムズは彼女を追って森へ入って行きます。


第二幕
ジェイムズはシルフィードを追いますが、触れようとするとすり抜けていくシルフィードに想いが募ります。

マッジにそれを肩にかけると飛べなくなるというショールをもらい受けます。
しかしそれは実は呪いのショールでした。

そうとは知らずジェイムズがシルフィードの肩にかけると、シルフィードの背中の羽が落ち、もがき苦しみながら、「愛に後悔はない。」と告げて死んでしまいます。

そこへエフィとグエンの結婚式の鐘が鳴り、すべてを失ったジェイムズは嘆きながら息絶えます。


バレエ「ラ・シルフィード」よりショパン ワルツop70





トムとジェリーが指揮

2024-09-04 21:00:00 | ロマン派
阪急の「トムとジェリー号」
オペラパークオーケストラの練習の後、塚口から梅田まで乗りました。

普通電車。



中にも

います。


トムとジェリーの「星空の音楽会」
Tom and Jerry in the Hollywood Bowl,1950年9月16日)は、「トムとジェリー」の作品の一つです。

ヨハン シュトラウス2世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没
オペレッタ「こうもり」は1874年アン・デア・ウィーン劇場で初演されました。
1954年にデュッセルドルフで上演された時の様子
ロデリヒ・ベンディックスの喜劇『牢獄』(1851年)に基づいた、アンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィが執筆した喜劇『夜食』(1872年)が原作。
舞台化はカール・ハフナーとリヒャルト・ジュネが担当しました。

ウィンナ・オペレッタの最高峰とされる作品で、「オペレッタの王様」ともよばれています。

当時パリで大成功を収め、「シャンゼリゼのモーツァルト」とよばれていたジャック・オッフェンバック(1819-1880年)

は1865年、ウィーンに自作の『美しきエレーヌ』を持ち込んできました。
ウィーンで大変な成功を収めます。
オッフェンバックはシュトラウスに初めて会い「あなたはオペレッタを作曲すべきだ」と言ったそうです。

しかし、シュトラウスはそうしませんでした。なぜなら、既にウィーンではフランツ・フォン・スッペ(1819-1895年)

の作品が大成功を収めていて、自分の入る余地がないと考えていました。

1868年『美しく青きドナウ』を発表して大成功を収めていたシュトラウスに、劇場の支配人たちが、いずれシュトラウスが劇作品を発表しだすと考え始めました。

その中の一人にアン・デア・ウィーン劇場


支配人マックス・シュタイナーがシュトラウスの妻ヘンリエッテ(イェッティ)(元女優で顔が広い女性でもあった)

に夫にオペレッタ作曲を作るように勧めるよう依頼しました。

これを引き受けた妻は夫を説得し、最初のオペレッタの台本『ウィンザーの陽気な女房たち』が渡され、作曲が開始されました。しかし、主役を誰が演じるかでプリマドンナ2人が激しく争い、これにうんざりしたシュトラウス。上演は頓挫しました。

しかしシュタイナーは諦めず、次の台本『インディゴと40人の盗賊』を渡しました。
1871年2月10日、シュトラウスのオペレッタ第1作『インディゴと40人の盗賊』


はアン・デア・ウィーン劇場で初演されました。

この作品はある程度の成功を収めたものの、台本の不備が次第に観客に露呈したことで、上演打ち切りに追い込まれました。

しかしシュトラウスは諦めず、1873年。
オペレッタ第2作『ローマの謝肉祭』

が同年3月1日にアン・デア・ウィーン劇場で初演されます。しかし、この作品は失敗に終わります。

そしてついに1874年アン・デア・ウィーン劇場の支配人シュタイナーのところに『こうもり』の原作となるアンリ・メイヤックとリュドヴィ・アレヴィ作の戯曲『夜食』(Le Réveillon)が届けられます。

シュタイナーはこの作品を、ウィーンの聴衆とシュトラウスに合うように台本作家のカール・ハフナーとリヒャルト・ジュネに手直しをさせてから、シュトラウスに渡しました。

一読して台本に魅了されたシュトラウスは自宅にこもり、6週間でこの作品を書き上げたと言われています。

そして1874年4月5日、『こうもり』は初演の日を迎えました。


アン・デア・ウィーン劇場での初演は大成功を収め、その後16回演奏されます。

ベルリンでも成功します。

今ではウィーン国立歌劇場の年末年始の「こうもり」上演が恒例行事になっています。

このオペレッタ「こうもり」の序曲を
「トムとジェリー」が指揮しています。



宮城道雄BBCでの演奏

2024-09-03 21:13:00 | 日本
晴れています。
今朝は懸案のこの生地。丈夫で軽いポリエステル。

母に貸したら返してくれないミシン。
返してもらおうかと思ったら「あれを作ろうと思って…。」
「これに襟をつけようと思って…。」
といろいろ言ってくるので、面倒になって私が実家に行って、自分のミシンを使っています‥

裁断だけは夕べうちでやって

飾りのレースと内ポケットをつけ
その後は写真を撮る余裕がなくなって、夕方には家に帰つまて練習しなくちゃ。

そのうち母が帰宅。
お花やお菓子や記念品?をたくさんもらっているのでどうしたのか?
聞いたら、
宮城道雄の弟子たちで作っている箏曲の全国組織の宮城会の理事会の送別会。
いよいよ定年退職だそうです。
85歳定年。

お疲れ様でした。

しばらく世間話しをしながら、私の製作を見ていましたが、夕方かかりつけ医院に行くとかで出かけていきました。

私は製作を続け、夕方までになんとか完成できました。


フルートがちょうどぴったり入ります。
ピッコロとA4楽譜も入れられます。
譜面台と水筒も!
中身だけで重いのです。

昔使っていたバッグのカンを再利用。
持ち手の長さも調整できます。
大きい!…でも、軽いです。
持ち手は共布にして太くしたのは肩がこらないため。
きっと、威力を発揮してくれるでしょう。

宮城道雄(1894-1956年)兵庫県神戸市生まれ、愛知県豊田病院没



1953年(昭和28年)夏、フランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された『国際民族音楽舞踊祭』に日本代表として参加、道雄は賛美され最優等賞を獲得しました。

この旅ではまた、イギリスのロンドンにも寄り、そこで、即興的に作曲した「ロンドンの夜の雨」を英国放送協会BBCより放送初演しました。

・・・目あきには 見物の邪魔になるが、 盲音楽家にとっては、 音に聞こえ 肌に感ずる雨は、 むしろ詩情を 誘うものであった。

「ある夜、 一晩中降り読いたこと があって、 その音が いかにも印象的だった。 高い建物から 伝わって落ちる雫を、 銀色の球のように 想像した。 濡れた大地を 走る車の音にも 情緒を感じた。 私は、 昔から数多く出た 英国の詩人のことなどを よもすがら 想像しながら 作曲した。」 ・・・

「ロンドンの夜の雨」宮城道雄自身の演奏です。



オベラバーク管弦楽団最終合わせ

2024-09-02 21:00:00 | 民謡
阪急塚口駅近くのt-raumで.オベラバークオーケストラの最後の合わせでした。
初参加、しかもピッコロです。

3曲、フルートは2小節だけ。

ハーキュレスのスタンド。鉄の塊。重いけれど事故のないように頑丈なものを使用。


ピッコロは耳栓必須。
音階とスケール練習は耳栓をして耳を守りながらやります。

あまりの高音に耳が、やられないか?心配になります。が、これは個人差があると思います。
曲の時は外します。

そして出番は少ないけれど、オケの最高音ピッコロだけは逃げも隠れもできません。

めちゃくちゃ緊張します。
一音集中、一音入魂!

本番は来週末
9月7日(土)13:30開場14:00開演

奈良県音楽芸術協会主催
ファインアーツコンサート
大和郡山城ホール大ホール 
指揮ゲオルギ バブアゼ先生
オベラバーク管弦楽団
ぜひおいでください。

プログラムは

メゾソプラノの堀口莉絵さん
ビゼーの「カルメン」より「ハバネラ」「セギディーリャ」「ジプシーの歌」

ソプラノの上山弥容子さん
ドボルザーク「ルサルカ」より「月に寄せる歌」
ドニゼッティ「道化師」より「鳥の歌」

ソプラノ小林有里さんでヨハン シュトラウスの歌劇「こうもり」より「侯爵様、あなたのような御方ならば」
「ウィーン気質」より
「おはよう、懐かしき我が愛の家よ」

マリンバの丸谷千夏さんで本邦初公開岩井久美子作曲「マリンバ協奏曲第2番」

ピアノ北村祐子さんでショパン「ピアノ協奏曲第1番」

クラリネットの三宅洋子さんでモーツァルトの「クラリネット協奏曲」

ヴァイオリン岩谷弦さんとパブアゼ先生でバッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」
です。


シュランメル音楽というのは19世紀後半に発達したオーストリア民族音楽てす。

ヴァイオリニストだったヨハン・シュランメル(Johann Schrammel, 1850年 - 1893年)とヨーゼフ・シュランメル(Josef Schrammel, 1852年 - 1895年)は、オーストリア北部出身の音楽家兄弟です。 

シュランメル四重奏団1890年

父はクラリネット奏者、母は名の知られた歌手であり、両親の影響を受けて育ちました。
二人は11歳ごろから両親とともにヴァイオリンを弾いて料理店や酒場などに出演するようになります。

1878年、兄弟はコントラギター奏者のアントン・シュトロマイヤー(Anton Strohmayer, 1848年 - 1937年)とアンサンブルを結成します。 

都会と田舎の両方の影響を受けてきた3人は、民謡、行進曲、ワルツやポルカなどの舞曲をウィーンのホイリゲ(ワイン居酒屋)や宿屋で演奏し、人気を博します。

当初、彼らはよく演奏活動を行っていたヌスドルフ村にちなんで「ヌスドルフ三重奏団」を名乗っていましたが、1884年にクラリネット奏者のゲオルク・デンツァー(Georg Dänzer, 1848年 - 1893年)が加入して「シュランメル四重奏団」と改めました。

アンサンブルは宮殿や大邸宅のサロンに招かれて演奏し、「シュランメルの陶酔」はウィーンのエリート層を虜にしました。

その中にはヨハネス・ブラームスとヨハン・シュトラウス2世もいた。彼らの人気は全ヨーロッパ中に拡大し、1893年にはシカゴ万国博覧会


に招待されました。

音楽に関心を持たなかったといわれるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世


でさえ、愛人?カタリーナ・シュラット


とともにシュランメル音楽を聴きに行くことを好みました。

シュランメル兄弟の作品は200曲以上にのぼります。

ヨハンは1893年に、ヨーゼフは1895年に死去しますが、以後、類似の形態の音楽を「シュランメル音楽」と呼ぶようになりました。

その後、人名に由来する呼び方だったものが、ウィーン風の庶民的な音楽の代名詞となっていきました。
また、シュランメル音楽を演奏する多くの人々(楽団)のことを、シュランメルの複数形で「シュランメルン(Schrammeln)」と総称するようになりました。

曲調はメランコリックな「泣き(weinende)」が特徴で、オーストリア以外にもハンガリー、スロベニア、モラヴィア、バイエルンの民俗音楽の影響を受けています。

シュランメル音楽はブラームス、シュトラウス2世をはじめとして、アルノルト・シェーンベルクといったウィーンの作曲家たちにも愛好されました。

「ウィーンはいつもウィーン」
ヨハン・シュランメルにより1877年に作曲。
当初はヴァイオリン、コントラバス、ギターによるシュランメル音楽として作曲されましたが、人気が出て、吹奏楽に編曲されました。
その後、各種編曲譜も出版されました。

Wien bleibt Wien!ピアノ譜の表紙(C.A.シュピーナ社出版)
日本では1952年からABCラジオのスポーツ中継のテーマ曲としてながく使用されました。

オベラバーク管弦楽団 指揮ゲオルギ バブアゼ コンサートマスター友永健二で「ウィーンはいつもウィーン」





夕映えの中で

2024-09-01 21:00:00 | ロマン派
熱帯低気圧になったとは言え、まだ日本を縦断するらしいです。
夕方、買い物に出たら雲が美しい。

爽やかな夕暮れ。本当にまたサンサンは帰ってくるのでしょうか?

フランツ シューベルト(1797-1828年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国リヒテンタール生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

ヴィルヘルム・アウグスト・リーダーによって描かれたシューベルトの肖像画(1825年)
シューベルトの過去数年の苦難は1825年28歳の時に報われました。

楽譜の出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放されました。
夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行もしました。

旅行中にはウォルター・スコット(1771年 - 1832年)の詩による歌曲集を出版し、それまでの作品で最高額の収入を得ることができました。

1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられました。

1827年3月26日、ベートーヴェンが死去。
ウィーン市民2万人の大葬列の中、シューベルトは棺を担ぐ大任を負いました。

フランツ・シュテーバー作『ベートーヴェンの葬儀』
その後、友人たちと酒場に行き、「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとりました。
そして、彼の寿命はその翌年で尽きました。

『夕映えに』(Im Abendrot)D799は、カール・ゴットリープ・ラッペ(1773-1843年)ヴスターフーゼン生まれ、 シュトラールズント没。


ポメラニアンの詩人。文芸週刊誌『サンディーン』の共同創設者。
の詩に作曲した歌曲です。
『夕映えの中で』とも訳されます。

1825年2月に作曲された第1稿

と、 1827年夏から秋ごろに作曲された第2稿

があります。
一般的には1832年に出版された第2稿が演奏されます(第1稿は1992年出版)。

夕映えの中で

おお、なんと美しいのだ、
御身の世界は、
父よ、世界が金の光を放つ時!
また、御身の輝きが降り注ぎ、
ほこりを微光で色づける時、
雲の中でちらついている紅が
私の静かな窓辺に沈み込んでくる時!
私は嘆き、ためらっているのだろうか?
御身も自分も信じられないのだろうか?
いや、私は胸にしかと抱こう、
もうここにある御身の天空を。
そして、この心は、
もろく崩れ落ちる前に
さらに赤熱を飲み込み、
光をすすり入れるのだ