音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

養育費を稼いだ作曲家

2025-01-21 20:56:00 | バロック
相変わらずキャベツは高いですが、アスパラ菜というものが安かったので買ってきました。


癖がなくおいしかったです。
太い幹はアスパラのようなのかな?と思ったのですが、香りの薄い菜花の茎のようでした。
これはこれでアリ!

うちはみんなアスパラが好きなので、アスパラと思うと少し違うのですが。

月曜日はおとなしく家で練習。
厄介なハープの発表が終わったので少し落ち着いています。

しかし、明日1月21日(火)
「第21回聴き合い会」を開きます。
プログラムを作ってますが、体調を崩してドタキャンする人が…。

みなさん、お身体お大事にしてくださいね。

これのお世話をした翌日から、左目手術の準備が始まります。
目薬を入れて雑菌を減らして、体温記録。
風邪ひかないようにしなくっちゃ!

バロック時代にも元気な作曲家がいました。
バーバラ ストロッツィ(1619-1677年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、ヴェネツィア共和国パドヴァ没

「ガンバを弾く女」
バルバラ・ストロッツィがモデルを務めたと推測される絵画。あたかも高級娼婦のように描かれていますが、これは当時ヴェネツィア社会の「自立した女性」のイメージでした。

は、当時の最も優れた歌手、最も多作な作曲家の 1 人として称賛されています。

1677 年に亡くなるまでに 8 冊の歌曲集を出版しました。

1644年最初の曲集『Il Primo Libro de Madrigali』

これは、当時の最も有名な作曲家の作品よりも出版された作品数が多いことになります。

有名な詩人ジュリオ・ストロッツィ(1583-1660年モンテベルディの台本作家)

ジュリオ ストロッツィ(ベルナルド ストロッツィ(伯父)画)
の娘(養女、おそらく私生児)であり、フィレンツェで最も有力な一族の 1 つに生まれました。

父ジュリオの音楽討論サークルに歌手や会員として参加し、これは実質的にはストロッツィ邸に集まってバルバラの歌を聴く会であったようです。

バルバラは少なくとも1634年、15歳の頃から「インコニティ」の集会で非公式に歌を披露していましたが、それが余興に収まらなくなってきて、彼女は「ウニーゾニ」の会員ではなく「女主人」として、集会で皆にお題を出したり、賞を与えていたりしていたことが記録されています。

またフランチェスコ・カヴァッリ(1602-1670年)


に作曲を師事。

父親の死後に作曲と作品の出版を精力的に続け、出版譜の献辞から、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世(1578-1637年)


や、リューネブルク公国后妃ゾフィーが初期のパトロンであったと察せられています。

作品の大半はソプラノと通奏低音のために作曲されています。

これらはストロッツィ自身が歌うために作曲されたものと推測されています。

ストロッツィの作風は、モンテヴェルディ(1567-1643年)


の作品によって具体化された「第2の作法」(厳格対位法重んじ不協和音を制限する第一作法から離れて、より自由な表現を重んじる初期バロック音楽を擁護し、これを第二作法と名付けました。)に固く根を下ろしていますが、声それ自体の表現力を基礎として、より叙情性が強調されています。

後半生において、おそらく経済的困難から音楽活動に行き詰まり、音楽界から身を退きました。

その後の消息と没年については長らく不明とされてきましたが、近年になって、養育費の必要から高利貸しを営んでいたことが明らかにされています。

たくましい!

彼女の創造力は実に強力で、カンタータという音楽ジャンル全体の創始者と称されることもあります。 


『Arie, Op. 8』(1664)収録の

「何ができようか」

Che si può fare op. 8


恋の苦悩を歌っています。






ROKUDAN

2025-01-20 21:00:00 | 日本
日曜日は塚口駅近くのt-raumで野田先生のハープ教室の発表会でした。
アンサンブル発表会ということで、みなさん、ハープ同士、ギターとハープなどいろいろなアンサンブルが登場しました。

朝牧野に送ってもらったら京阪が枚方市〜淀屋橋間、人身事故で不通。
しかもやったばかりで予定では11:00回復らしい。

代替輸送というとJRか阪急。
どちらもそこへ行くまでに枚方市駅から電車かバスこれはもう大幅遅刻。

送ってきてもらったばかりの夫にLINEして阪急高槻まで送れるか?聞いてみたら行けるということで、迎えに来てもらいました。

牧野に再度来てもらって乗り込むと「高槻より大山崎の方が近い。」と夫。
「高槻の方が近いんと違うの?」
「混んでるかもしれない。分からないけど」
しばらくしたら「梅田まで送ろうか?」
「?!」
素早く計算する私。
「梅田に近寄ると混むから、だったら塚口で行った方が早いんと違う?」
「わかった。それだったら車を替えて、次男を連れて行く。」ということですぐにUターン。家まで帰って車をアクアからスカイラインに替えて、次男を乗せて出発。なんで次男?ってスカイラインを後で実家に置いてあるオデッセイと交換するためかな?

大山崎から名神に乗って、50分で塚口に、結局、アンサンブル仲間の誰よりも早く着きました。

11:50から金重さんのハープと久米フルートでアルルの女の間奏曲のリハ。
次に渡邊さんのヴァイオリンと久米ハープで「カヴァレリア ルスティカーナの間奏曲」
最後がハープの鈴木健司さんと、ヴィオラ金重さん、フルート久米で「ベルガマスク組曲のメヌエット」
「カヴァレリアルスティカーナ」以外は良い出来です。

とにかくリハに間に合ってよかった。
2時から本番。
プログラム2番に「アルルの女」のメヌエット。


最後から3番目に「カヴァレリアルスティカーナ」一曲置いて最後が「ベルガマスク組曲」
「アルルの女」は金重さんのハープ、途中展開部から、住谷さんのピアノが入ります。
さすが住谷さん上手いです。

ゆったりとしたテンポで上手く演奏できたと思います。

「カヴァレリアルスティカーナ」はリハよりはよかったと言っておきます。
…精進、精進!

「ベルガマスク組曲」はとにかく鈴木さんが難しいハープを弾きこなし、アンサンブルが楽しかったです。



今日、おもしろかったのは八橋検校の「ROKUDAN」黛敏郎編曲のハープ独奏です。

八橋検校(やつはし けんぎょう、慶長19年(1614年 - 1685年)

は、出身は諸説ありますが、山田松黒が安永8年(1779年)に記した『箏曲大意抄(そうきょくたいいしょう)』により陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県いわき市)が定説とされています。
他に摂津国(現・大阪府北中部、ほか)とする説もある。名は磐城説で城談(じょうだん)、摂津説で城秀(じょうしゅう)。

八橋検校は、寛永年間(1624-1645年)の初め頃、摂津で城秀と称して三味線の分野で活躍しました。

三味線
その後、江戸にくだり、筑紫善導寺

の僧・法水に師事して筑紫流箏曲を学びました。

この箏曲を基に現在の日本の箏の基礎を作り上げました。
独奏楽器としての楽器や奏法の改良、段物などの楽式の定型化など、箏曲の発展に努めました。

代表作に組歌の
『梅が枝(うめがえ)』、『菜蕗(ふき)』、『心尽し』、『雲井の曲(くもいのきょく)』など

また、段ものの『六段の調』、『乱(みだれ)』(乱輪舌[みだれ りんぜつ])、『八段の調』も八橋の作と伝えられています。

寛永13年(1636年)に上洛し、母親が俳人・藤本箕山(ふじもと きざん、畠山箕山)配下の山住(やまずみ)某(なにがし)に扶持されていたことにちなんで山住勾当(やまずみ こうとう)を名乗りました。

1639年〈寛永16年)にも再び上洛して上永検校と称し、さらにのち、八橋検校と改めます。

その芸術は高く評価され、磐城平藩専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられたこともあります。

胡弓、三味線の名手でもあり、胡弓の弓の改良も行っています。

江戸時代の琴屋
六段の調(ろくだんのしらべ、六段調、六段)は段物と呼ばれる箏曲のひとつで、段物または調べ物の中の代表曲。

箏の調弦は平調子。

(後に雲井調子の替え手も出来た)各段が52拍子(104拍・初段のみ54拍子)で六段の構成となっています。

箏組歌や大多数の地歌曲と異なり、歌を伴わない純器楽曲です。

本来は箏の独奏曲ですが、後世合奏用にいくつもの箏の替手が作られて合奏されることも多く、また三絃にも移され、さらにその替手が作られ、加えて胡弓や尺八各派でも手付けがされており、三曲合奏や箏の替手とあわせ二重奏など、いろいろな合奏編成で演奏されることも多いです。

黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929年〈昭和4年〉2月20日 - 1997年〈平成9年〉4月10日)

は、日本の作曲家。戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人。東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたりました。

ROKUDAN ハープのための(1989年)この曲は、篠崎史子のために黛敏郎が作曲しました。世界中で上演されるハープソロの傑作です。箏の名曲である「六段」からインスパイアされた創作です。

松岡みやびさんによる演奏です。


兵士たち

2025-01-19 21:00:00 | 現代
今日もこもってハープの練習。
何時間もやりましたが、ちっとも解決しませんが…
仕方ありません。これで行くしかありません。
16日に母とランチをしようと歩いた藤森駅のちかくには「軍人湯」という銭湯があります。

外から見ても何の変哲もない感じですが、名前の由来は、向いにある現在の聖母女学院本館に





かつて「第16師団本部司令部」があり、当時の軍人たちが汗を流した銭湯=軍人湯ということだそうです。

今でも師団街道、第一軍道、第二軍道という名前が残っている通り伏見は戦前、軍都でした。

「第16師団本部司令部」と言うと1905年日露戦争の時に、本土を守るために設営されました。
1919年には満州に駐在。
1937年には日中戦争が始まり、参戦。

太平洋戦争では1941年(昭和16年)11月6日に第14軍戦闘序列に編入。
緒戦のフィリピン攻略に参戦し、マニラ陥落後フィリピンに駐屯しました。

1944年(昭和19年)8月からは第35軍隷下となりレイテ島に移駐。この年の10月20日に連合国軍がレイテ島に上陸。大本営はレイテ島での決戦を予定しましたが第16師団は壊滅しました。

当初13,000名で臨んだレイテ決戦も生還者は僅か620名で、3人の連隊長が戦死。

師団長牧野四郎中将も1945年(昭和20年)8月10日に自決しました。

ベルント・アロイス・ツィンマーマン(Bernd Alois Zimmermann, 1918-1970年)ドイツ ブリースハイム生まれ、ドイツ ケーニヒスドルフ没

はドイツの現代音楽の作曲家です。

途中戦争による中断がありましたがケルン音楽大学とケルン大学で学んだのち、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会に参加、ルネ・レイボヴィッツからセリエリズムの影響を受けます。

1956年にISCMドイツのプレジデントに昇格。

1957年に母校の音大でフランク・マルタンの後任として作曲科の教授を勤め、篠原眞やヨハネス・フリッチェなどを育て、後年のシュトックハウゼン(1923-2007年)

体制の橋渡しをします。
晩年には最後の作品である

『私は私を望んでいる、そして私は太陽の下ですべてを許さない』

の楽譜を完成させて から5日後、謎のピストル自殺を遂げています。

1965年オペラ「兵士たち」を作曲しています。

オペラ「兵士たち」
商人の娘マリーはストルジウスと付き合っていますが、若い貴族のデスポルテスに誘惑されます。

デスポルテスは少しの間、付き合った挙句マリーを漁場番に与え、マリーは暴行を受けます。

マリーは行方不明になり、ストルジウスは傭兵に変装し、デスポルテスに近づき彼を毒殺。
自らも毒を飲み死にます。

マリーは物乞いとなり、街をさすらっています。
そこに父親が通りがかり、娘とは知らずにお金を与えます。

最後のシーンは幻影的です。
父親は奴隷にされ、戦死した兵士たちの果てしない行列に加わり、酔っ払った将校たちも参加します。
行列は地獄の光景へと盛り上がります。
人間同士も、個人も、集団の良心も、軍の力によって強姦されると終幕。



アルルの女のメヌエットの原曲

2025-01-18 21:45:00 | ロマン派
金曜日は、塚口近くのt-raumで発表会前最後のハープの合わせでした。
午後7:30〜
渡邊信行さんのヴァイオリンとハープ久米で「カヴァレリア ルスティカーナ」の「間奏曲」。
退院してから毎日4時間は練習していますが、ホントにちっとも上手くなりません。

先生「ゆっくりしましょう。」とニッコリ。

渡邊さんも「弓が足りないなぁ。」と言いながらも、ゆっくり弾いてくれました。

せめて一拍40位ではやりたいのですが、30でもようやっと…。

合わせるどころではありません。
ハープは難しい!

8:00からは鈴木健司さんのハープ、ヴィオラの金重美代さんと久米のフルートでベルガマスク組曲〜「メヌエット」超絶技巧のハープを鈴木さん、ちゃんとインテンポにしてきました。すごい!
野田先生にアドバイス頂いてもちゃんとすぐに演奏が変わります。
さすがです。
これは楽しめそうです。

最後に9:00から金重さんのハープと久米のフルートで「アルルの女」の「メヌエット」ピアノも入りますが、今回は当日のみ。
金重さん昨年11月から腕を骨折していたので練習できていません。かわいそう!
私はこれは「どんなになっても合わせるからね。」と余裕の言葉。
安心して弾いてもらいたいから。

でも、本当のところこの曲は大変難しいです。
超絶技巧というわけではありませんが、フルートという楽器の特性上、音程が特に取りにくいのです。
ゆっくりすれば、ゆっくりするほどアラが目立ちます。
基礎ができているか?が試される曲です。
試練になりました。

t-raumの猫さん

明後日 21日本番です。
頑張ろう!
特に私はハープ!

組曲「アルルの女」は
エルネスト ギロー(1837-1892年)

が4曲を選んで構成したものです。

有名な「メヌエット」は、ビゼーの「美しきバースの娘」という歌劇の中の音楽から採ったものです。
ややこしい。

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)

1875年ビゼー

『パースの美しい乙女』は、全4幕のオペラで、台本はジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュとジュール・アデニが、サー・ウォルター・スコットの1828年の小説『パースの美しい乙女』に基づいています。

この作品は、1867 年 12 月 26 日にパリのテアトル・リリック(テアトル・リリック・アンペリアル・デュ・シャトレ)で初演されました。

観客は大変感激し、半数の客が作家たちに次回作の制作を依頼するチップを残しました

14世紀、内乱期のスコットランドの王都パースが舞台。
婚約を間近に控えたキャサリン

とスミスが、些細なトラブルが元で互いに不貞を働いたと誤解してしまいます。

2人のいさかいは領主やジプシーの女王らを巻き込んで一大事となってしまいますが、最後は誤解が解けて結ばれます。

美しきバースの娘」の中で領主のロスセー公爵とジプシーの女王マブが歌う二重唱。
「ここにいる私たちは。孤独です。」
組曲「アルルの女」のメヌエットにギローが編曲する前の曲です。
こちらは、「アルルの女」のメヌエット。


楽園へ

2025-01-18 07:05:00 | ロマン派
阪神淡路大震災から30年。
5時46分。枚方市にいましたが、じとーっとした空気に目が覚め、「なぜ目が覚めたんだろう?変な空気。」と思っているとゴオッーとすごい音がして、ドーンと音がして地面が30センチ位吹っ飛んた気がしました。
思わず隣で寝ていたまだ赤ちゃんの次男の上にかぶさっって、夫の隣で寝ている長男を助けてもらおうと夫を起こしたら
「大丈夫。今のは震度5。」と言ってまた寝入ってしまいました。
それでもその後長い事揺れていたので、次男にかぶさったまま、恐怖に震えていました。
しかし、夫が、よく寝ているのでおさまったら寝てしまいました。
朝になってテレビを見ながら夫が「大変なことが起きたみたいだ。」
阪神高速が倒れた映像が映っていました。
それでも落ち着いて仕事に出かけてしまった夫を見て、私もパイアスが働いていたのか、いつものように子どもを連れて近くの公園に行きました。
さすがに誰もいず、…そうかぁ…。と思ってすぐに家に帰りました。

うちは食器棚の中のカップが1個割れただけでした。

でもご近所の幼稚園児3人の母は、長くDVを夫から受けていて、離婚して神戸の実家に帰ろうとしていた矢先の震災。
実家が全壊。
絶望して自ら死を選ばれました。

わたしとはあまり関わりがなかったのに、亡くなる2ヶ月ほど前に雪柳の花を手に抱えられないほどの大きな束にして玄関に立っておられました。

何を話したか覚えていない。お天気の話しとか、とりとめのない話しをして「あまりよく知らない方なのに、なぜ、こんなに親切にしてくれるんだろう?」と疑問を持ったまま雪柳を頂いて別れました。

まだ若かった私は人への理解が足りなくて何もしなかった。
もっとちゃんと向き合って入れば、震災がなかったら、彼女は今も生きていたかもしれない。

いや、そんなに私は万能では無い、救えたかもなんて考えるのは傲慢なこと。

それでも毎年この時期になると彼女のことを思い出さずにはいられないのです。

そして、私がそれから10年の間、

CAP子どもへの暴力防止プログラム
https://cap-j.net/program
に取り組んだのは彼女のような境遇の親や子どもをなんとかしたかったからだったんだ。と思い至りました。
やっぱり傲慢〜!

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没

ジョン・シンガー・サージェントによるフォーレ、1889年
の「レクイエム」ニ短調op48
作曲の動機は、父親が1885年7月、母親が1887年12月にそれぞれ死去したことと言われていますが、フォーレが残しているスケッチによると、遅くとも1887年秋には作曲に着手していて、母親の死は直接関係していないと考えられます。

さらにフォーレは、
「私のレクイエムは、特定の人物や事柄を意識して書いたものではありません。……あえていえば、楽しみのためでしょうか」
と書き残しています。

また、マドレーヌ寺院での初演では、寺院の司祭から斬新過ぎると叱責されました。

初演マドレーヌ寺院の祭壇
このほか、当時から
「死の恐ろしさが表現されていない」「異教徒的」などとの批判が出されました。

フォーレのレクイエムは当時のカトリックの死者ミサでは必須であった「怒りの日」を欠き、そのままではミサに用いることの出来ない形式をとっています。

これに対してフォーレは1902年に次のような手紙を書いています。

「私のレクイエム……は、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます。しかし、私には、死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、むしろ永遠の至福の喜びに満ちた開放感に他なりません」

また、晩年の1921年にルネ・フォーショワ(歌劇『ペネロペ』の脚本を手がけた脚本家)への手紙に次のように書いていまする。

「私が宗教的幻想として抱いたものは、すべてレクイエムの中に込めました。それに、このレクイエムですら、徹頭徹尾、人間的な感情によって支配されているのです。つまり、それは永遠的安らぎに対する信頼感です」

レクイエムの初稿

第1曲 イントロイトゥスとキリエ(Introitus et Kyrie)
前奏曲と神の憐れみ給え

第2曲 オッフェルトリウム(Offertorium)
パンと葡萄酒を聖壇に捧げる

第3曲 サンクトゥス(Sanctus)
聖なるかな

第4曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)
慈悲深いイエス

第5曲 アニュス・デイ(Agnus Dei)
神の子羊

第6曲 リベラ・メ(Libera me)
我を救い給え

第7曲 イン・パラディスム(In paradisum)楽園へ

イン・パラディウム
天使たちがあなたを楽園へと導きますように。

あなたの到着にあたって 殉教者たちがあなたを迎えますように。

そしてあなたを聖なる都エルサレムへと 導きますように。

天使たちの聖歌隊があなたを迎えますように。

かつて貧しかったラザロと共に あなたが永遠のやすらぎを得られますように。






とかげÖdlan

2025-01-16 20:57:00 | ロマン派
15日はGさん、Mさんと知恩寺手作り市に行く予定でした。
目はだいぶマシになってきましたが、16日に診察を受けるまでは安静を続けてください。と言われてしまったので今回は泣く泣く欠席。

家にこもって今日もハープを練習。
やっぱりうまくならない💦

するとお昼過ぎにMさんから電話が…。
二人でお土産を買ってきてくれたらしい。
しばらくするとMさんが、クリームパンとあみぐるみのお店で買ってきてくれたとかげさんのあみぐるみ。
「かわいい💖」
「今日は寒いのと、少し雨降ったでしょう。それとインフルのせいでお休みのお店が多かったわ。」
「いつもの3分1位。」
「何を買ったの?」
「昭和ガラスの小さな引き出し。」これがなかなかレトロでいい感じ、Mさん前回は小さな棚を買っていました。
これで揃える気みたいです。
LINEを見たらGさんは

ハシビロコウのフェルトバッチを買ったみたい。これもかわいいです💞

迷惑かけたのに気にかけてくれてうれしいです。
感謝💖

今回はお店が少なく早目に帰ったのでいつも行列のできているオムライスのお店に入れたらしい。
いいなぁ〜!
次は私も…。

『とかげ』(スウェーデン語: Ödlan) 作品8は、ジャン・シベリウス
(1865-1957年)フィンランド大公国ハメ州ハメーリンナ生まれ、フィンランドウーシマー州ヤルヴェンパー没

1913年シベリウス
が作曲した劇付随音楽です。

フィンランドの作家ミカエル リーベックMikael Lybeck(1864年-1925年) 

の象徴主義劇「とかげ」のために書かれています。

シベリウスは第2幕第1場と第2幕第3場の2つの場面に音楽を提供しました。

完成は1909年で初演は1910年4月6日にヘルシンキのスウェーデン劇場

で作曲者自身の指揮によって行われましたた。

演奏回数こそ少ないものの、シベリウス自身は本作について友人でありパトロンでもあったアクセル・カルペランに「私が書いた中でも指折りの精巧な作品です」と述べています。

この作品が書かれたのは1908年から1912年の「危機」(シベリウスが喉のがんにかかり手術をおこない療養し、寛解しました。)の時期でした。

編成は独奏ヴァイオリンと弦楽アンサンブル。

とかげ(オードラン)1909年戯曲の台本
「とかげ」

劇中、アイリンゲ家の紋章に描かれ、16個の白い星に囲まれた緑色のトカゲ。悪の象徴となっています。

劇中の主人公アルバン(Alban)伯爵は、全ての清いものを象徴する若い看護婦のエリシフ(Elisiv)と婚約します。

初演時エリシフを演じたカリン モランデル

しかし悪魔の化身であるアルバンの従妹アルダ(Alda)
初演時アルダを演じたヴァルボルグ・ハンソン
が、アルバンに恐れと情熱の両方を目覚めさせます。

エリシフとアルダが互いにアルバンの魂を自らの側へ留めようと争います。

エリシフは躓き、倒れ、戦いに命を落としますが、その仇としてアルバンは自身の中に住まう悪魔、アルダの息の根を止めます。






超有名な理髪師

2025-01-15 21:01:00 | ロマン派
自力洗髪洗顔禁止なので、介護用品のコーナーで買った洗顔ペーパータオルで顔を拭いて、ついでに髪のホコリを拭いてしのいでいましたが、7日目ともなるといよいよ気持ち悪くなってきました。

ご近所の美容院に行くと、干支飾りの巳年のパズルや
お花で大にぎわい。

「かわいいもの好きなスタッフがいるんです。」
きれいにシャンプーしてもらって、せっかくなのでカットもしてもらってすっきり。

「シャンプーだけでも来てくださいね。」
シャンプー上手かったです。
ほぼ自分でカット、毛染めも自分ですが、たまにはこういう時間もいいものですね。

理容は先史時代からあり、考古遺物としては青銅器時代にあたる紀元前3500年頃の剃刀が発見されているそうです。
また、『旧約聖書』「エゼキエル書」にも理容のことが書かれています。

エゼキエル書

釈迦十大弟子の一人であるウパーリは、出家前は釈迦族の理髪師であったことが知られています。

マケドニア人(アレクサンドロス3世(大王)時)に征服される前の古代ギリシアでは、主人の調髪や、頭髪、髭、指の爪などのスタイルを整えていました。

整髪は、古代ギリシアの植民地で当時の技術的最先端地域であったシチリア島から紀元前296年に共和政ローマに渡り、間もなく人気を博しました。

古代ギリシア
古代ローマの自由市民は髭を剃らなければいけませんでしたが、一方、男性奴隷は髭を伸ばすことと決められていました。

朝、公衆浴場と共に理髪師を訪れて身を正すことは習慣となり、また、青年が生まれて初めて髭を剃ること (tonsura) は青年と見なされるための通過儀礼の一部となっていました。

ローマ人理髪師の中には裕福になって栄えた者もいました。
彼らは店先の通りにスツール(椅子)を並べ、クォドランス(当時の硬貨、通貨単位でクォーター)の料金で髭を剃っていました。

鋳造硬貨。表はヘールクレースの頭部と3つのペレット、裏面はガレー船の船首と3つのペレットが描かれている。

剃刀による剃髪が嫌いな客には脱毛も行いました。

紀元前54年、共和政ローマのガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100-紀元前44年)

が軍を率いてグレートブリテン島に上陸したときには、先住民であるブリトン人は唇の上部以外の顔の髭を剃っていました。 

イングランドでは歴史的に、シェービング(剃髪、髭・髪に関わらず)は法律で義務づけられていました。

中世以降
イングランドにおいて、ノルマンディー公ギヨーム2世(イングランド王ウィリアム1世)によるノルマン・コンクエスト(ノルマン征服)1066-1071年
イングランド兵と戦うノルマン騎兵
の時代には、敵方であり最後のアングロ・サクソン系イングランド王となったハロルド2世(1022-1066年)

とその家来は顎髭(あごひげ)を剃っていました。

中世の欧米諸国では理容師は外科的処置を行う外科医、歯科医師でもありました。

その頃、医学は内科学主流とされていたため、怪我の処置や四肢の切断等に至るまで、理容師がこれを行っていました。

「瀉血(血抜き)」、吸角法、ヒル療法、浣腸、抜歯を行いました。

そのため、彼らは "barber surgeon(理髪外科医)" と呼ばれ、1094年に最初の組合を作りました。

イングランドにおける理容師は、イングランド王エドワード4世(1442-1483年)

によって1462年、ギルド(職業組合)として法定化され、外科医はその30年後にギルドができまし。

1540年にヘンリー8世(1491-1547年)

により、"The United Barber Surgeons Company"(理髪・外科医組合)とされました。

エリザベス1世(1533-1603年)

は「生活が活発でないことの証明だから」という理由によって2週間以上髭を伸ばした者に税金を課していました。

17 - 18世紀のロシア皇帝ピョートル1世(ピョートル大帝)(1672-1725年)

は、1699年、西洋化改革の始まりを示すべく、ロシア正教上の習慣に逆らって口髭・顎鬚を剃り落とすよう全国民に強要し、違反者には身分上の貴卑の別なく課税しました。
ロシアの民衆版画であるルボークにもこの様子は描かれています。

ルボーク民衆版画 『床屋の髭切り』
17世紀末のロシア帝国にて、勅令に従って“髭刈り”を執行する床屋(理容師。右)と、抵抗の意志を見せながらも応じざるを得ない古儀式派の大貴族(左)を描いた戯画。18世紀初頭の作

ジョージ1世時の1745年、外科医は理容と分けることが法定されました。

18世紀、オスマン帝国の理容師のエプロン

音楽史上最も有名な理髪師と言えばジョキアキーノ ロッシーニ(1792-1868年)教皇領ペーザロ生まれ、教皇領ボローニャ没
の歌劇「セビリアの理髪師」のフィガロ。

1816年、フランスの劇作家ボーマルシェ(1732-1799年)の戯曲(Le barbier de Séville ou la précaution inutile 「セビリアの理髪師あるいは無用の用心」)を題材に作曲した2幕のメロドランマ・ブッフォ(Almaviva o sia L'inutile precauzione、一般には Il Barbiere di Siviglia )の中の主人公フィガロです。


セヴィリャの理髪師
あらすじ
18世紀、スペインのセヴィリャ
【第1幕】
時は18世紀、舞台はセヴィリャの医師バルトロ邸。
若くして親から莫大な遺産を継いだロジーナ

ジュヌヴィエーヴ・マテュー・ルッツ(ロジーナ役)、1907 年
は、後見人である医師バルトロ

の家に身を寄せていましたが、一方のバルトロは、ロジーナと結婚できれば美女と財産を一気に手に入れることができると目論んで、他の男が言い寄らないように監視しています。

スペインの貴族アルマヴィーヴァ伯爵
はロジーナを見そめて、窓の下からセレナードを歌いますが、バルトロ邸の監視が厳しく二人は会うことができません。

そこに「セヴィリャの理髪師」のフィガロ

が通りかかったので、伯爵は、報酬をはずむから協力するよう依頼します。

そのとき、ロジーナは窓からこっそり「身分と名前を教えて」というメモを落としました。伯爵は彼女の誠実な気持ちを試すため、貧しい学生リンドーロと名乗ることにします。

理髪師としてバルトロ邸に入り込んだフィガロは、ロジーナにリンドーロ宛の手紙を書くように勧めます。
彼女はすでに書き終えていて、それをフィガロに託します。 

ロジーナはフィガロに手紙をアルマヴィーヴァ伯爵に渡す。ヴィルヘルム マーストラン
その後、伯爵が酔っぱらった兵士に変装してバルトロ邸にやって来てロジーナと話をしようとしますが、この作戦はバルトロに怪しまれて失敗します。
 
【第2幕】
伯爵は、今度はバルトロの腹心の音楽教師バジリオの「弟子」に変装しました。

しかし、それでもバルトロに怪しまれたので、仕方なくロジーナが書いたリンドーロ宛の手紙を、伯爵の手から盗んだと言って渡し、味方だと思い込ませます。

伯爵とロジーナは音楽のレッスンをしている間に、二人で今夜駆け落ちすることを約束します。
 
このときフィガロは、バルトロの髭を剃りながら、バルコニーの鍵を手に入れていました。

伯爵とフィガロが去ったあと、バルトロはロジーナに例の手紙を見せ、リンドーロはお前を伯爵に売ろうとしているのだと言います。

怒ったロジーナはバルトロとでも誰とでも結婚すると言い出します。喜んだバルトロは公証人を呼び寄せておきました。

その夜、伯爵とフィガロがバルコニーから忍び込むと、ロジーナは怒っています。伯爵が身分を明かして説明すると一件落着。
ちょうどそこへバルトロが呼んでおいた公証人がやって来たので、その場で二人は結婚してしまいました。
バルトロが現れたときはすでに時遅し。それでも伯爵がロジーナの財産はいらないと言ったので、バルトロはとりあえず満足できたのでした。

セビリアの理髪師 フィガロがやってきて「おれは街のなんでも屋」と歌います。
みんな俺を必要としている。人生は楽しい!




ヨーロッパにおける紅茶の始まり

2025-01-14 21:00:00 | バロック
「これ何かなぁ?」
夫が出張でもらってきた韓国のお土産。悩んでいると、
夜勤明けの次男が
「写メ撮ってLENSや。」

やってみました。
お茶みたい。
これはナッツ茶。
もう一種は薬膳茶。
入れてみました。

薬膳茶は、トウキ、天弓、シナモン、甘草、白芍薬、黄耆、熟旨黄。甘い!
養命酒を煮詰めた感じかな。

ナッツ茶はアーモンド、クルミ、ナツメ、ヒマワリの種。
こちらは香ばしい感じでおいしかったです。カップに残ったナッツがいい感じにふやけてておいしいので残さず食べました。

ハープを何時間も練習してしまいましたが、なかなかうまくなりません。
目は見えるようになったので楽譜は読みやすいのですが…。
ガードのついた保護メガネが邪魔。

1679年東インド会社

がロンドンで中国から来た3樽のボヘア茶(武夷茶、ホビー茶とも言われていますがはっきりはわかっていません)をオークションにかけました。

これがヨーロッパにおける紅茶の始まりだそうです。

1712年頃にはイギリス東インド会社が中国茶のヨーロッパへの輸入を独占するようになりました。

1717年にはトーマス・トワイニング
(1675-1741年)

が紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」
ロンドンのストランドにあるトワイニングの店舗入口
を開業して成功を収めています。

また、1765年には砂糖革命が起き、砂糖を入れた紅茶は中産階級への普及が進みました。

ゲオルク フリードリヒ ヘンデル(1685-1795年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレードブリテン王国イングランド ロンドン

ハノーファーでジョージ1世に引き留められたにも関わらず無視して、イタリアなどを2年間回り、イギリスに渡ります。

そこに、ジョージ1世がイングランド王になりやってきます。
そこで彼に仕えるようになります。
オペラや水上の音楽などジョージ1世の王宮での曲を作曲しています。

トワイニングが1706年に紅茶をゴールデンライオンで販売を初め、1717年には三店舗にも拡張しました。

その頃ヘンデルが作曲したのはHWV389 トリオ・ソナタ フルート、ヴァイオリンと通奏低音のための曲です。

ジョージ1世の食事やお茶の時間にも演奏されていたかもしれません。



4大元素カオス

2025-01-13 21:00:00 | バロック
連休中日、さすがに家で過ごしました。
やることはいっぱいあります。
ハープの発表会が19日にあるので練習もあるし、フルートは何曲も持っています。
次男は休日出勤、おまけに夜勤。
インフルエンザでお休みする人が出て
代わりに出勤。
インフル増えているようです。みなさんも気をつけてくださいね。
昨日行った近江八幡市の八幡堀。
日牟禮神社の鳥居の横から入れますが、今回は橋の上から左右を見るだ。



ここに来たらこれを見なくちゃ帰れません。
そう言ったら
車を少し停めて『待ってるから撮っておいで。』と夫が言ってくれました。

八幡堀の現在の文化的景観は1585年(天正13年)豊臣秀次(1568-1595年)秀吉の甥

が八幡山城を築城し、城下町を建設したことを起源として形成されました。

豊臣秀次は安土城下などから商人・職人を呼び寄せるとともに、西の湖を経て琵琶湖に至る八幡堀を開削しました。

昨日ロープウェイで昇る時に見えた西の湖

1595年(文禄4年)八幡城は廃城となったものの町は残され、この地を根拠地とした近江商人は八幡堀の地の利を活かして商業を行い、町は江戸時代を通じて繁栄しました。

近江八幡の商家町(日牟禮八幡宮境内地、八幡堀を含む)は、近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。

戦後汚染が進んで埋め立て計画も持ち上がりましたが、1975年商工会の青年会議所が埋め立て反対を表明し、自主的に清掃をし署名を集めます。
『よみがえる近江八幡の会」が設立され、4年にわたる清掃、掘削工事を経て景観を甦らせます。

ジャン=フェリ・ルベル(Jean-Féry Rebel, 1666- 1747年)フランス帝国パリ生没


フランス盛期バロック音楽の作曲家・ヴァイオリニスト。

ルベルは、ルイ14世

の私設礼拝堂のテノール歌手、ジャン・ルベルの最も有名な子供で、幼いころからバイオリンの天才として活躍しました。

後に彼は、偉大なバイオリニスト、歌手、指揮者、作曲家であるジャン=バティスト・リュリ
の弟子になりました。

1699年、33歳でルベルは王立音楽アカデミー(オペラ座としても知られる)

の第一ヴァイオリン奏者となりした。

1700年にスペインを訪問。 
1705年に帰国後まもなく、宮廷楽団の一つ「王の24人のヴァイオリンLes Vingt-quatre Violons du Roy」に入団しました。
 
1716年に音楽長に選ばれました。

1726年に宮廷で最も重要な役職は室内楽作曲家で、その称号を授かりました。
ルベルはルイ14世の宮廷作曲家やアカデミーの音楽長を務め、コンセール・スピリチュアルを指揮しました(1734~1735年)。


1865 年のチュイルリー宮殿。中央パビリオンの 2 階でコンサート スピリチュエルが開催されました。
ルベルはイタリア風のソナタを作曲した最初のフランス人音楽家の一人です。
彼の作品の多くは、複雑な対リズムや大胆なハーモニーなど、当時の聴衆にはあまり理解されなかった独創性に富んでいます。

彼の作品『ダンスの特徴』は、フランスの伝統であるダンスと音楽を融合させ、革新的な韻律の発明を提示しました。

この作品は人気があり、1725年にロンドンでゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの指揮で上演されました。
ルベールは師に敬意を表して『リュリ氏の墓』(文字通りには「リュリ氏の墓」、比喩的には「リュリへの賛歌」)を作曲しました。

ルベルの作品のいくつかは、振り付けされた「交響曲」と評されています。

彼の最も大胆なオリジナル作品の一つに、世界の創造を描いた「Les Élémens(4大元素)」があります。

4大元素
1.Le cahos(彫刻された楽譜からの綴り)または混沌
L’Eau - L’Air - La Terre - Le Feu [00:00​]​

この楽章はダンスのない器楽作品です。「Le cahos」は、聖書の創世記の創造物語に記述されている世界の創造の 7 日間を示す 7 つの部分に分かれています。不協和音のクラスターで始まります。

フルートの「l'eau」(水)は下降する旋律の動きで表現され、その後、規則的なジョイント値で徐々に上昇する。ピッコロの「l'air」(空気)は高い B♭ トリル(音楽)で表現される。これは、高いジャークで表現されるバイオリンの「le feu」(火)と同時に発生する。第 2 カオスの最後のテーマはベース楽器の「la terre」(地球)で、次の小節では長い音符で表現される。これらのテーマは、次のカオスで展開される。より短い第 7 カオスは、一般的にはより穏やかで、以前のカオスのようなハーモニーやリズムの不規則性がなく、ニ長調の長い終止音楽で終わります。

2.ルールI: 大地と水
3.シャコンヌ:火
4.暴走: 空気 
5.ロシニョール 
6.ルーレ II 愛の空気 
7.タンバリンI & II 水
8.シシリエンヌ ロンド:愛の歌
9.カプリス

冒頭の「Le Chaos」は驚くほど現代的です…というか、私は度肝を抜かれました。
本当にバロック時代に書かれたのか?!
本当は八幡堀に因んで『水』を取り上げようと思ったのですが、これを聞いて第1番『カオス』





山の中で軍隊は眠り続ける

2025-01-12 21:00:00 | 国民楽派
安静第一の術後ですが、車に乗ってるだけならいいだろう。ということで母を誘って夫、次男と近江八幡へ、

八幡山のロープウェイに乗って

山頂から琵琶湖が見えます。

そして猫さん。丸々太ってた。妊娠中か?

雪だるま

日陰には雪が残っていました。

絶景を楽しんだ後、日牟禮神社にお参り。

たねやさんで最中を買って帰りました。

途中、鏡の里

でキャベツ230円だったので、昨日した決意をもう翻して買ってしまいました。
近江の畑にはキャベツが並んでいました。寒くても採れるのですね。

それにしても息子に腕を下から抱えられて歩くようになるとは…。
そこまでして昇るか?!
ぼちぼちですが、いい空気を吸って気分もスッキリ。とにかく治りつつあるみたいです。

『ブラニークのバラード』( Balada Blanická)、
原題『ブラニークの騎士』(チェコ語:で Blaničtí rytíři)は、
ヤロスラフ・ヴルチリッキー(1853-1912年)チェコの抒情詩人


のテキストに基づいて
レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928年)オーストリア帝国モラヴィア辺境伯フクヴァルディ生まれ、チェコスロバキア、オストラヴァ没

が1920年に作曲した交響詩です。  

ヤナーチェクの3番目の交響詩。
初演は1920年3月21日にブルノで行われました。

この作品は、独立の強力な支持者の当時のチェコスロバキア大統領トマーシュ・ガリグ・マサリク(1850-1937年)

に捧げられました。
チェコスロバキアは、ヤナーチェクが作曲を始める前年の1918年に独立国となっていました。

ヤナーチェクは、ブラニーク山

に眠る小さな軍隊についてのチェコの伝説に基づく、ヴルチリツキーの農民のバラッド(チェコ語でセルスケー・バラディ)の物語詩を原典としました。

以前にも、この伝説に触発されたチェコの作曲家がおり、その中には、交響詩集『わが祖国』を「ブラニーク」という曲で締めくくったベドジフ・スメタナや、同名のオペラを作曲したズデニェク・フィビフがいます。

しかし、ヴルチリツキーは、この伝説に独自の平和主義的なひねりを加えました。
元の伝説によると、困難な時期に軍隊が目覚め、チェコ人の敵を殺すということになっています

しかし、ヴルチリツキーのユートピア版の物語では、武器が根絶されたため、軍隊は眠り続けています。