音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

野菜の画家の時代

2025-01-11 21:01:00 | ルネッサンス
病院の朝食。

お昼ご飯

夕ご飯

お昼ご飯
白ご飯とパンは残しました。
うちの食事より野菜が少なくてびっくりしました。
高いものね。野菜。
近所の安さが売りの業務用スーパーでキャベツ700円…びっくり!

久御山イオンの道の駅でアスパラ菜、わさび菜、水菜が一束100円だったのでそういうのを買ってきて料理しています。
優等生だった小松菜だって198円だったから…。
アスパラ菜って初めてですが、なんとか料理しています。

しかし、年中キャベツがあるなんて元々不思議なことですね。
春までうちではキャベツはお休みです。
旬の白菜が高いのは悲しいけど。

みんな、身体に気をつけて、なんとか乗り切りましょう。

ジュゼッペ・アルチンボルド(1526〜1593年)イタリア ミラノ生没

の描いた「庭師」1587-1590年には
お皿に盛られた大根や玉ねぎなどの野菜が描かれています。
静物画のように緻密に描かれた果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めた、珍奇な肖像画の製作で世に知られています。
この画面を、そのままひっくり返してみてください。

アルチンボルドは画家の息子として生まれました。

1549年よりステンドグラスのデザインを始め、ミラノのドゥオーモに作品を残しました。

1556年、ジュゼッペ・メーダと共にモンツァ大聖堂のフレスコ画を制作します。1558年にはコモ大聖堂聖母マリアを描いたタペストリーのデザインを手がけました。

1562年、アルチンボルドはウィーンにてフェルディナント1世(1503-1564年)

の宮廷画家となり、後にその息子の マクシミリアン2世(1527-1576年)

や孫にあたるルドルフ2世(1552-1612年)

にも仕えました。

アルチンボルドは画家としてだけでなく、宮廷の装飾や衣装のデザインも手がけました。

また、祝典や馬場槍試合の企画、水力技師などで非凡な才能を発揮しました。
ハープシコードのような楽器も発明しましたた。

アルチンボルドが描いた伝統的な宗教画は現在では忘れ去られてしまっていますが、野菜や果物、木の根といったもので構成された独特の肖像画は、現在でも多くの人を魅了し続けています。

多くの学者たちは、アルチンボルドの作風は謎やパズル、風変わりなものに魅了されていたルネサンス期を反映していると言います。

1593年、アルチンボルドはウィーンでの公務を引退した後、故郷のミラノで死去しました(死因は腎結石)。

死の少し前に『フローラ』、

『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』

といった傑作を完成させ、プラハに送っています。

ルドルフ2世はこの風変わりな肖像画を大変気に入り、アルチンボルドに高い地位を与えました。

1648年にスウェーデンがプラハを侵略した際、ルドルフ2世のコレクションから多くの作品が持ち去られました。

アルチンボルドの作品はウィーンの美術史美術館、インスブルックのアンブラス城(ルドルフ2世のその他のコレクションも所蔵)、パリのルーヴル美術館、スウェーデンのいくつかの美術館に分かれて所蔵されています。

「ウェイター」1564年作は中之島美術館に所蔵されています。

この頃ウィーンで活躍した作曲家にルートヴィヒ ゼンフル(1486-1543年)スイス バーゼル生まれ、ミュンヘン没

皇帝マクシミリアン1世(1459-1519年)

のアウクスブルクの宮廷に加わり、1504年の一度きりの里帰りを除いて、バーゼルには二度と帰国しませんでした。

1497年にウィーンの帝室礼拝堂の聖歌隊員となりますが、やがて声変わりを迎えると、当時の聖歌隊を追われました。

当時の習慣に従って、おそらく1500年から1504年までの間に、3年にわたって聖職者を目指して学生生活を送っています。

この間にハインリヒ・イザークに師事し、その浄書係も務めた。イザークのライフワークにして最大の作品である《コラリス・コンスタンティヌス》を写譜したことや、この作品をイザークが完成させられずに世を去ると、ゼンフル青年が補筆して実用版をまとめ上げました。

1508年から1510年までしばらく研修旅行でイタリアを巡った後、ウィーンの帝室礼拝堂に復帰し、1517年に旧師イザークが没すると、その後任としてマクシミリアン1世より宮廷作曲家に任命されました。

翌1518年に狩猟の事故で片足を切断、1年のあいだ廃疾者として過ごします。
そのうえ1519年にマクシミリアン1世が崩御すると、新皇帝カール5世は宮廷楽団員をあらかた解雇し、ゼンフルも職を失いました。

しかもカール5世は、前皇帝がゼンフルに保証した廃疾給付の支払いを反古にしました。

それからゼンフルは2年間、主に職探しのため各地を遍歴しますが、積極的な作曲活動も行ないました。

1521年にはウォルムス帝国議会にも出席し、公式にプロテスタントに改宗したことはなかったものの、
マルティン・ルター(1483-1546年)

に好意的になり、後に宗教裁判所で訊問を受けて僧籍を諦めざるを得なくなります。

1530年よりルター派のプロイセン大公アルブレヒトや、ルター本人と旺盛な文通を行うに至りました。

最終的にゼンフルはミュンヘンの宮廷楽団員として雇われ、そのままこの地で一生を送ることとなりました。

当時のバイエルン大公が、比較的プロテスタントに寛容だったためもあります。アルブレヒト大公との往復書簡からすると、ゼンフルは1540年になるまでには病に倒れていたらしく、1543年の前半には故人となりました。

「あなた無しでは喜びはありません。」




モスクワ川の日の出

2025-01-10 21:01:00 | 国民楽派
7:00出発。1月8日は1年の内で1番日の出が遅い日だそうです。
大阪では7:06日の出。
これからどんどん日の出は早くなってきます。


無事手術終わりました。
右目は真っ赤で眼帯をしているので、鏡を見るとちょっと自分でも引いてしまいますが、よく見えます。

楽譜が見えるように45センチに合わせてもらったので近場はバッチリ。
視力検査は遠いので眼鏡をかけて1.0

それでもだいぶ見えるようになりました。
左目は1月29日。
これはだいぶ期待が持てます。

1週間は安静。目薬、3種を日に4回。
洗顔、洗髪禁止。

多くの方に応援していただいて感激しています。
本当にありがとうございました。

オペラ「ホヴァーンシチナ」(ホヴァーンスキー事件)は1872年

モデスト ムソルグスキー(1839-1881年)ロシア帝国ブスコフ州生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

によって書き始められました。

1875年第1幕と第2幕を完成させましたが、第3幕の半ばでウラジミール スターソフ(1824-1906年)

に批判され続きは難航しました。
結局第5幕の合唱の手前まで書いたところでムソルグスキーは亡くなります。

そこで旧友リムスキー・コルサコフ(1844-1908年)

が1882年改訂編曲して完成させます。
しかしこの改訂を帝国劇場は赦さず、上演は長らくされませんでした。
リムスキー・コルサコフが亡くなってからマリインスキー劇場で上演されました。

1959年にショスタコーヴィチ(1906-1975年)

がムソルグスキーのピアノ版をもとに忠実に再現しました。

現在ではリムスキー・コルサコフ版は前奏曲「モスクワ河の夜明け」が演奏・録音される程度で、大半はショスタコーヴィチ版が用いられています。

他に1913年ストラヴィンスキー版、
ゲルギエフ版などが、存在します。
れている。

前奏曲
『モスクワ川の夜明け(Рассвет на Москве-реке)

「前奏曲」(Прелюдия)と訳されました、草稿には「序奏」(Вступление)と記されています。

川の小波、鳥のさえずりなど、モスクワの夜明けの美しさが変奏曲の形式で描かれ、続くオペラ本編の人間たちの壮絶な政治闘争の描写と好対照を成しています。

1682年の銃兵隊反乱を描いたコルズーヒンの絵画(1882年)。ピョートル1世のおじイヴァン・ナルイシキンを連行・殺害する銃兵隊、それを嘆く母ナタリヤ・ナルイシキナと幼いピョートル、その横にソフィア・アレクセーエヴナ。
ピョートル(大帝)

がまだ幼いころ、父帝が亡くなり、兄イヴァンとその摂政ソフィアとの家督争いとなっています。

モスクワでは銃兵隊を束ねるホバンスキー公

が摂政のソフィア

にそそのかされて反乱を起こし、ピョートルを陥れようとしていました。
が、ソフィアは力を強めたホバンスキーを嫌い、

部下のゴリツィン公

を使ってホバンスキーを陥れようとする。
ホバンスキーはというと、1人の女(エマ)を親子で取り合ったりしていてのんきにしています。

ホバンスキーの息子アンドレイの元カノのマルファは占い師で、
ホバンスキーは王位を狙っているというデマを流されたためにピョートルにも狙われ、暗殺されます。

ゴリツィンも失脚し流刑の身となる。やがて、旧勢力である古儀式派がすべて粛清されることがわかり、ドシフェイらは殉教する決意をします。

ピョートルの軍が旧勢力を一掃するために近づいてきます。
マルファは絶望しているアンドレイをともなって殉教者らと運命を共にします。

銃兵処刑の朝 スリコフの絵画(1881年)
最後は修道院に立てこもって火を放って全員焼け死にます。

ノヴォデヴィチ女子修道院のソフィア。レーピンの絵画(1879年)。 太った醜女として描かれ、窓外には処刑された銃兵の遺体が見えますムソルグスキー

前奏曲「モスクワ川の夜明け」



道を踏み外した女

2025-01-09 21:01:00 | ロマン派
今年の大河ドラマが始まりました。
「べらぼう」
蔦屋重三郎と言えば喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽、曲亭馬琴など江戸、化政文化を代表する賀川作家の作品を出版しました。

第一回は吉原でのお話しでした。

暮れに行った京阪橋本駅駅周辺は。東海道と淀川に面していて八幡吉原があったところです。

置屋の窓にステンドグラスがはまっています。

レトロな建物は吉原の名残りが詰まっています。











しかし、八幡市のホームページを見ても、どこにも吉原の記載はありません。
車を1日500円で駅前に停めてどこでも行けるということで、ここを経由して奈良に行きましたが、開いているお店も無く、特急や快速急行が何便も通過していきました、

夫がぽつんと
「見捨てられ感がすごいな。」とひとこと。

「べらぼう」の第一回も貧しい遊女の哀しい結末が描かれていました。
「きたくてくる女なんか1人もいない!」と嘆いた蔦重にグッと来ました。

明日は。右目の手術をします。
一泊2日なので大したことはないのでご心配無く。ですが、ブログはお休みします。ご訪問もできないと思います。ごめんなさい。

ジュゼッペ ヴェルディ(1813−1901年)フランス帝国レ・ロンコーレ村タロ地区生まれ、イタリア王国ミラノ没

が作曲したオペラ「椿姫」の原題はLa traviataラ・トラヴィアータ
堕落した女、道を踏み外した女という意味で、
主人公のヴィオレッタは高級娼婦をしています。

原作は、アレクサンドロ デュマ フィス(1824−1895年)

アレクサンドロ デュマと縫製工の母の間に生まれたデュマ フィスは父の金で最高の教育を受けて育ちます。
しかし、父への反感や周囲の偏見からか10代は遊び呆けます。
20歳の時に高級娼婦のマリー デュプレシと出会い、恋に落ちます。

しかし間もなくマリーは病死してしまいます。

24歳の時に彼女との思い出を書いたものが「椿姫」です。

1850年に戯曲化され人気を得ます。
52年にヴェルディがパリでこの戯曲を見て感動し、
1853年この戯曲をもとにフランチェスコ・マリア・ピアーヴェ(1810−1870年)

が台本を書き、オペラにしました。

ヴェルディは24歳の時に先妻マルゲリータを亡くしました。
41歳作曲当時で3児の母のジュゼッピーナ ストレッポーニ(1815−1897年)

と同棲していました。
田舎に暮らしていましたが、カトリックの信仰が強い地域での暮らしは2人の関係に寛容ではなく、つらいものでした。
そんな境遇から「椿姫」の物語に共感したと言われています。

初演当時は娼婦を主役にした作品ということで、イタリアの統治国側の検閲により道徳的な観点から問題視されました。
しかし、ヒロインが最後に死ぬということで上演がゆるされたと言われています。

多くのパトロンがいる高級娼婦ヴィオレッタが、


Fanny Salvini-Donatelli ヴィオレッタ・ヴァレリーを演じた最初の歌手
青年貴族アルフレートと出会い、パトロンと別れパリを離れて田舎暮らしをしますが、そこにアルフレートの父親が現れ、ヴィオレッタは身を引く決心をします。
そうとは知らないアルフレートは、捨てられたと思い、嫉妬から公衆の面前でヴィオレッタに暴言を吐き、彼女を傷つけます。

数カ月後、ヴィオレッタは結核で伏しています。
アルフレートの父親がやってきて見舞います。
すべてを知ったアルフレートがやってきて赦しを請いますが。ヴィオレッタは亡くなります。
その最後のシーン。



ベルガマスク組曲ダマーズ編曲

2025-01-07 21:10:00 | 近代
6日は今年初合わせ。
1月19日のハープの発表会で演奏するドビュッシーの「ベルガマスク組曲」メヌエットです。
ダマーズの編曲でフルートとヴィオラとハープ版。
昨年はプレリュードをやったのでメヌエットは第2曲です。

ヴィオラは金重さん、ハープは鈴木健さん。

メヌエットはハープが超絶技巧。
「野田先生に指使い聞いてみたいです。もっと練習しときます。」と鈴木さんは言っていましたが、ほぼ完成していました。

駅まで、送っていいって
金重さんのハープと私のフルートでビゼーの、『アルルの女』の「メヌエット」
私の「カヴァレリア・ルスティカーナ」の「間奏曲」はヴァイオリンの渡邊さんが弾いてくれますが、代わりにヴィオラで弾いてくれました。
簡単なのに…全くダメ。
私こそ練習しま〜す!

写真は金重さん作のキツネのマフラー。かわいいですね~💖

クロード ドビュッシー(1862−1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

「ベルガマスク組曲」は1890−1905年ピアノ独奏曲として作曲されました。

タイトルの「ベルガマスク(「ベルガモの」、あるいは「ベルガモ舞曲」の意味です)」は、ポール・ヴェルレーヌ(1844−1896年)

の詩集『艶なる宴』(Fêtes galantes)

に収録されている詩「月の光」(Clair de lune)の、"Que vont charmant masques et bergamasques"
(現われたる艶やかな仮面喜劇者たちとベルガモの踊り子たちは)という一節に使用されている言葉です。

またこれに基づくガブリエル・フォーレの歌曲『月の光』(1886年-1887年)があり、その伴奏の一部に似た音形が『ベルガマスク組曲』の「前奏曲」に登場することなどから、ドビュッシーがヴェルレーヌやフォーレを意識したことを窺わせます。

同じ詩にはドビュッシーが初期に単曲として歌曲を作曲し、当時彼の心を射止めていたヴァニエ夫人
に献呈されています。

そしてその歌曲は改訂され、ヴェルレーヌの詩集による歌曲集「艶なる宴」に収録されました。

ただしこの組曲内の「月の光」は、この歌曲版とは全く異なる音楽です。

当初、ドビュッシーは『仮面』(Masques)(前述の詩に基づく)および『喜びの島』(L'Isle joyeuse)をこの『ベルガマスク組曲』の中に加えようとしましたが、出版社の都合でそれぞれ単独で出版されました。

ジャン=ミッシェル ダマーズ(1823−2003年)フランス共和国ボルドー生まれ、

ハープ奏者ミシュリーヌ・カーン(フランス語版)を母にもち、幼少時より音楽の才能を発揮。
エコールノルマル音楽院を経て13歳でパリ音楽院に入学し、アルフレッド・コルトーにピアノ、アンリ・ビュッセルに作曲、マルセル・デュプレに和声・対位法をそれぞれ師事しました。

1943年にピアノ科で一等賞を受賞して卒業する(この年には後にオリヴィエ・メシアンの妻となるイヴォンヌ・ロリオも同時に首席卒業者となっている)。

1947年、カンタータ『そして美女は目覚めた』(et la belle se réveilla)でローマ賞を受賞します。

以後、作曲家・ピアニストとして積極的に活動するほか音楽教育にも力を入れ、パリ音楽院の副院長もつとめました。
2013年4月21日に死去しました。

ダマーズは主として室内楽曲をはじめとする器楽曲の作曲で知られ、フルートを用いた作品のほか、ハープ奏者の母親の影響もありハープを用いた作品も多い。

ダマーズは20世紀後半に主流だった前衛的な現代音楽の流れに反し、新古典主義音楽に基礎をおいた優美な旋律を特徴とする作風を展開しました。

そのため20世紀においてはあまり評価を受けられない状況が続きましたが、近年は複数の作品集がCDとして発売され、再評価が高まりつつあります。

ベルガマスク組曲
第1曲 「前奏曲」 (Prélude)
第2曲 「メヌエット」 (Menuet)
第3曲 「月の光」 (Clair de Lune)
第4曲 「パスピエ」 (Passepied)

第2曲 「メヌエット」 (Menuet)
イ短調、Andantino、4分の3拍子。
冒頭部分のスタッカートを中心とした軽快な主題は、教会旋法の一種であるドリア旋法
(古代ギリシャの音楽理論に由来、
音階(D E F G A B C D)で構成されます。全音と半音の並び方が全-半-全-全-全-半-全となります。)で書かれています。

ダマーズ編曲フルート ヴィオラ ハープによるベルガマスク組曲「メヌエット」



鯉、猫、鹿

2025-01-06 21:03:00 | バロック
連休最終日。さすがに家で静かにしていました。
近所に買物には行きましたが、
ハープやフルートを練習しながら、
お正月に出会った生物たちを思い出していました。
観音寺の鯉。





美しい生物です。

浄瑠璃寺の猫さんたち



それから
奈良の鹿さんたち















ウィリアム・ロウズ(1602-1645年]
チェスター近郊ロウトン・ヒース生まれ、


は、作曲家・宮廷楽師。
王党派として清教徒軍と戦い、戦死した。
ソールズベリー大聖堂

の聖歌助手トマス・ローズの次男。
長男ヘンリーも作曲家。

ハートフォード伯エドワード・セイマー(1539-1621年)

の庇護を得て、作曲家ジョン・コプラリオ( 1570年ごろ - 1626年)に師事。

おそらくこのことから、早くから皇太子チャールズと接触する機会を持つ。皇太子がチャールズ1世(1600-1649年)


として即位すると、兄ヘンリーとともに宮廷楽団に採用されます。
1635年には、リュート奏者および声楽家の一人として常勤音楽家に任命されますが、それ以前から宮廷音楽の作曲を手懸けていました。

成人してから全ての日々を、宮廷における任務に捧げ、世俗音楽やマスクのための歌曲を作曲し(間違いなくその上演に加わり)、またチャールズ1世の礼拝堂のためにアンセム(教会の聖歌、交唱賛美歌)やモテット(ミサ曲以外の宗教歌曲)を作曲しました。

現在ローズは、3人から6人までの奏者によって演奏されるガンバ・コンソート(ヴィオラ・ダ・ガンバの入った合奏)のための精巧なセット(組曲)によって名を残しています。

対位法やフーガの利用に加えて、牧歌的な主題に風変わりで辛辣な主題をつぎはぎする傾向があります。

ローズのコンソート組曲は、イギリスの古楽器アンサンブルを中心に再評価され、近年になって演奏・録音されるようになりました。

チャールズ1世と議会との不和からイングランド内戦が勃発すると、ローズは王党派(王制を支持する政治党派)の軍勢に加わり、近衛兵に任命されました。

これは、ローズが危険に身を晒さぬことを望まれているということでした。にもかかわらず、議会派による王党派の大虐殺の際にローズは「ふと撃ち殺されました」。

ローズの墓碑銘の最後のくだりは、彼が王権神授説の否定派の手にかかって死んだという事実をほのめかしています。

Will. Lawes was slain by such whose wills were laws.
ウィル・ローズは倒される、意志(ウィル)こそが法(ロー)だとする者たちによって。

「猫」
他の生き物と同じように、猫も威張ったり、愛を交わしたりすることがあります。

そして、暗くて寒い夜には、
これらのジェフリー・ライオンズ(リチャード1世は獅子心王と呼ばれていたことから隠喩)は戦いに使用します。
それから彼らは「ニャー」「ニャー」と鳴きます。

しかし、最も残酷な戦いは、最近テンプルバー(メアリー1世とスペインフェリペ2世の結婚した場所)で行われました。
そこの家々のタイルの上に。
ボロ・サー・ボア・キャットがこう誓うのを聞いた場所。

「私の娘に求愛する奴隷は死ぬでしょう。」

シャープ・ネイル卿(鋭い爪卿)が嘘をついた相手。
それから彼らは「ニャー」「ニャー」と鳴きます。 

それで彼らは二人とも密かに参加したのですが、
「あなたのコートと私のコートは誰が着ますか?」
「あなたと私」こうして彼らは「ニャー」と鳴きます、
それでも彼らは「ニャー」と鳴きます。






居酒屋の裏話し

2025-01-05 21:00:00 | ルネッサンス
今日は、エスカルメンバーの竹内聡さんのお宅で新年会でした。

竹内さんの奥様はフルーティストの吉岡美恵子先生です。

竹内さん(前列)と今川さん(後列左)と吉岡先生(後列右]
今川さんと待合せて行くと、メンバーの田中さんご夫妻と駅で一緒になりました。

4人で着くと竹内さん、吉岡先生ご夫婦で宴会の食事の準備で大忙し。

グラスやお箸などを並べるとぞくぞくメンバーが集まってきて、榎田先生もいらっしゃいました。

すべてお二人の手作り。
オードブルに
数の子と野菜のゼリー寄せ、

お節のお煮しめ、

きのこのキッシュ

ペスカトーレ、
お肉

ラザニア
締めはエッグホールの乗ったシフォンケーキ。

お酒は持ち寄りでしたので、私はうちにあった白酒を持っていきました。

私は飲まないのでわからなかったのですが、「これはうまいいいお酒だよ!」と中国出張の長かった〇〇さんが言い出し、
みんな飲める人は呑みましたが、58度。
さすがにきつかったらしく田中さんは、寝てしまいました。

びっくりしたのはピアノのSさん。
ワイングラスにつぐと
クイッと呑んで涼しい顔で「おいしい。」ですって!

呑み話しばかりではなくて合奏もしたり、榎田先生の大フィル時代の話しを伺ったり楽しい話しもたくさんしたのですが…。まあ新年会はこんなものです。

昔々、1534年フランス パリで出版された混声合唱のための楽譜。
ピエール アタンナン発行「28の歌」
の中の一曲は「居酒屋の裏話し」
平和な酒宴は500年前から同じようです。

「居酒屋の裏話し」省訳
さあ、居酒屋に行きなさい!
仲間たちを呼んでおいしいワインを呑みなさい。
できるだけ大量に呑みたいです。
手をきれいに洗って、歯を洗って、白ワインで歯を乾かそう!
美しい美女を誘って
それからえんどう豆、良いハム、ホットソースのパスタ
食欲を満たせ!





慈悲巡礼

2025-01-04 21:00:00 | バロック
3日は南山城のお寺を回りました。
タイトル写真は浄瑠璃寺の三重塔
計画的に行ったわけではなく、2日に妹と姪、母、次男と京田辺市の観音寺に行ったら

国宝、十一面観音様(白鳳時代645-710年時代)にすぐ前まで入らせて下さって

鯉とたわむれて、こんなリーフレットいただいて、
地図を片手に

寿宝寺に

十一面千手千眼観音(平安時代794-1186年)さまがいらっしゃるはずなのですが、拝観には事前予約が必要だということでお顔を拝見することはできませんでした。
がっかりした顔の妹たちに
「蟹満寺だったらよく行くよ。」
というと妹が「行く!」というので蟹満寺へ、拝観終了3分前に到着したにも関わらず、
銅造釈迦如来坐像さま(685年?あるいは8世紀)に
会わせていただきました。
撮影禁止なのでパンフの写真です。
で、3日は続き。
海住山寺

国宝の鎌倉時代の五重の塔
重要文化財の十一面観音(平安時代)さま

は見られませんでしたが



木津川を見下ろす絶景を見て、
常念寺へ

平和観音さま、

巨大です。こちらも重要文化財の菩薩形立像 - 平安時代前期(9世紀は予約無しでは拝観できません。、

浄瑠璃寺はお庭が有名です。

吉祥天女像1212年や四天王像、阿弥陀さま、がいらっしゃるそうですが、


この奥にいらっしゃる木造薬師如来坐像

が、坐っていらっしゃるのを暗闇の中で見えたような見えなかったような…目が悪いから見えない。

美しいお庭でした。
九体阿弥陀仏と本堂(阿弥陀堂)(国宝)平安末期や四天王立像 四躯(国宝)は拝観できませんでした。
南山城のお寺はまだまだたくさんあるようです。

キリスト教ではピエタという像があります。
ピエタは慈悲という意味で、聖母子像の一種で、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことです。

ミケランジェロ プオナローティ(1475-1564年)フィレンツェ共和国カプレーゼ生まれ、教皇領ローマ没

の4体のピエタは特に有名です。

『サン・ピエトロのピエタ』(1498年 - 1500年、サン・ピエトロ大聖堂)


『フィレンツェのピエタ』(1547年? - 、フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)未完成

『パレストリーナのピエタ』(1555年? フィレンツェ、アカデミア美術館)未完成


『ロンダニーニのピエタ』(1559年 - 、ミラノ、スフォルツァ城博物館)未完成

腰が曲って頭を上げることすらままならず、さらには視力を失いながらも手探りで鑿を振るい、病に倒れる前日まで制作を続けたと伝えられています。

観音さまは慈悲を体験していますが、キリストを抱くマリアさまも慈悲に溢れています。

スターバト・マーテル ( Stabat Mater)は、13世紀のフランシスコ会で生まれました。

カトリック教会の聖歌の1つです。
詩の作者は明らかでなく、ヤコポーネ・ダ・トーディ、インノケンティウス3世、ボナヴェントゥラらが候補としてあげられています。

題名は最初の1行(Stabat mater dolorosa、悲しみの聖母は立ちぬ)からとられています。
日本語では「悲しみの聖母」「聖母哀傷」と訳されています。

わが子イエスが磔刑に処され、十字架の傍らに立っていた母マリアが受けた悲しみを思う内容となっています。

前半はマリアの嘆きを、後半は「どうかその悲しみを担わせて下さい。」という内容になっています、

この中でも古楽・バロックではペルゴレージ、パレストリーナ、ヴィヴァルディ、ハイドン。

近現代ではロッシーニ、ドヴォルザーク、プーランク、カロル・シマノフスキ、アルヴォ・ペルト、クシシュトフ・ペンデレツキなどの作品が著名です。

『聖歌四編』に含まれたスターバト・マーテルの旋律はジュゼッペ・ヴェルディの最晩年の作品です。

2025年は、世界中に慈悲の心が広がることを祈ります。

ジョバンニ バディスト ペルゴレージ(1710-1736年)教皇領イェージ生まれ。ナポリ王国ポッツウォーリー没

幼い頃から音楽の才能を現し、ナポリ音楽院

に入学します。
1731年卒業作品として音楽劇『グリエルモ・ダキタニアの改心』を作曲。同年、初のオペラ『サルスティア』を初演するも不評に終わりました。

1732年、オペラ・ブッファ『妹に恋した兄』を初演し最初の成功を収めました。
1733年8月28日、サン・バルトロメオ劇場でオペラ『誇り高き囚人』を初演。失敗に終わったにもかかわらず、この作品の幕間劇として作曲された
『奥様女中 La Serva Padrona』
『奥様女中』
が歴史的な大成功を収め、オペラの歴史に大きな変革をもたらしました。

1734年にはナポリ楽長に就任。

1735年、オペラ『オリンピアーデ』をローマで初演。
失敗しナポリへ戻ります。

この頃から結核のため体調が悪化し、宗教音楽の作曲に取り組むようになります。
1736年にはナポリ近郊ポッツオーリの聖フランチェスコ修道院に療養に移ります。
ナポリ在住貴族の集まり「悲しみの聖母騎士団Cavalieri della Virgine dei Dolori」から委嘱された『スターバト・マーテル Stabat Mater』(悲しみの聖母)

を余力を振り絞って書き上げてまもなく、26歳で死去しました。



1月1日に初演(301年前)

2025-01-03 21:00:00 | バロック
システムエラーで昨日投稿予定だった記事です😭💦

なんと、元旦から出勤の次男。
昨年は骨折で。有休を使い果たしたから穴埋めに出勤したいらしいです。

ご苦労さまです。
私は元旦からライヒャルトのエチュード3番、4番、タファネルandゴーベールを
5時過ぎに帰ってきた次男と氏神様の片埜神社へ初詣。


小さなお社ですが、外まで人が並んでいます。

無事初詣を終えました。
垂仁天皇の頃にはもうあって927年延喜式にも載っています。
鎌倉、室町で戦火であれていたものを豊臣秀吉が再興。秀頼が寄進し、今ある本殿は桃山時代のものです。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

の教会カンタータ BWV190
カンタータ第190番《主にむかいて新しき歌を歌え》
Singet dem Herrn ein neues Lied

は、新年のためにライプツィヒで書かれました。

バッハの最初のカンタータの一部として初演されました。

後にアウクスブルク信仰告白200周年の祝賀のために『主に新しい歌を歌え』BWV 190aに改作されました。

バッハは、ライプツィヒのトーマス教会



トーマス教会
のカントル(音楽監督)に就任した最初の年の1723年に、キリストの割礼の祝日の元旦のためにこのカンタータを書きました。

ガラテヤ人への手紙から

「私たちは信仰によって受け継ぐのです」(ガラテヤ3:23–29)と、

ルカによる福音書から 

「生誕8日後に行われたイエスの割礼と命名」(ルカ2:21 )。

第4楽章の最後「イエスの名」で触れており、それに続くアリアではすべての行を「イエス」で始めています。

それ以外のテキストは、過去の賜物に対する賛美と感謝、そしてさらなる祝福への祈りを強調しています。

詩人は冒頭の合唱のために詩編第149篇から1節、詩編第150篇から3節、

ルカ・デッラ・ロッビア:カントリア、詩篇 150
そしてマルティン・ルター(1483-1556年)


の『ドイツ・テデウム』( Te Deum )の最初の2行の間に

「主なる神よ、われらは讃えます」を編纂しています。

「テデウム」の歌詞は第2楽章にも再び現れ、レチタティーヴォが散りばめられています。

終結のコラールはヨハネス・ヘルマンの『主よ、われらは主を讃えます』(1591年)の第2節です。

バッハはこのカンタータを1724年1月1日に初めて演奏しました。

1730年代後半に再演しました。

おそらくバッハの改訂の過程で、原曲の一部が失われ、最初の2楽章では声楽部分とヴァイオリン部分のみが残りました。

失われた部分の復元は、ベルンハルト・トート(1904年)、ヴァルター・ラインハルト(1948年)、オリヴィエ・アラン(1971年)、ディートハルト・ヘルマン(1995年)、 トン・コープマンとレヴェンテ・ギョンジェシ、鈴木雅明と鈴木正人(2012年)によって試みられました。




あけましておめでとうございます。

2025-01-01 21:00:00 | ロマン派
大晦日。
年末久米家恒例、絶賛!「近鉄に乗りに行こう!」キャンペーン。
夫の買っている近鉄株の優待券の期限が12/31まで、

夫、次男、私で家族会議。
「どこに行く?」
「鶴橋で焼肉食べる。」「近過ぎる。」

「橿原神宮お礼参り。」
「寒いし、お店が無い。食べるところも無い。」

「名古屋!」
「日帰りはしんどい。」

というわけで奈良に決まりました。
京阪橋本駅前に車を止めて、

丹波橋。
近鉄に乗り換え、西大寺で奈良線に

お昼は奈良で中華料理。

油で揚げているのに、薄味なのでさっぱり食べられる中華でした。

それから興福寺にお参り。
今年1年お世話になりました。
鹿さんと戯れ、







春日大社にもお参り。

昨年は骨折にコロナ2回、息子まで骨折する始末。
大変でしたが、オーケストラ2つに参加。本番もいくつか。
いろいろ無事に任務を果たすことができ、ありがとうございました。

そしてこれを投稿する頃には新年です。
昨年中は、ブログを読んでいただいて、ありがとうございました。

みなさんのおかげで勇気を得て、ブログを続けることがてきています。

あけまして、おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年のニューイヤーコンサートではヨハン・シュトラウス二世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没


のオペレッタ「ジプシー男爵」の序曲が演奏される予定です。

1885年10月24日、シュトラウスの60歳の誕生日の前日にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場

で初演されました。

ハンガリー人の作家ヨーカイ・モール(1825-1904年)


の短編小説『シャーッフィ』(Sáffi)を基に、ハンガリー人ジャーナリストのイグナーツ・シュニッツァーが書き上げた台本には、ハンガリー情緒がふんだんに盛り込まれています。

わずか6週間で書き上げたといわれる『こうもり』とは異なり、シュトラウスはこの作品を2年の歳月をかけて作曲しました。

初演は大成功を収め、以後ハンガリーを題材にしたオペレッタが数多く作曲され、人気を博していくことになります。
序曲や第3幕で演奏される凱旋の入場行進曲、そして劇中で使われるワルツを用いて作曲された『宝のワルツ』などは、演奏会で単独でも演奏されています。

ジプシー男爵フランス語版のポスター

雑誌「Bombe」に掲載中された説明図ラスロー・フォン・フレツカイ (1844-1916)

第一幕
ハンガリーの寒村、テメーゼ・バナード。

ハンガリーを統治していたトルコの最後の総督は、1717年のベオグラードの戦いでオーストリア軍に追われ逃亡します。

莫大な軍用金をこの地方に埋め、生まれたばかりの娘をジプシーの女占い師ツィプラに託しました。

この女の子はザッフィと名付けられ、ツィプラによって育てられます。

一方、大地主バリンカイは、トルコ人と気脈を通じていたという嫌疑をうけて亡命しました。

その後この土地に勢力をふるうようになった豚使いジュパンは、亡命中に死んだバリンカイには嗣子がないと言いふらして、遺産や土地を自分のものにしようと企んでいます。

ところがバリンカイの遺児シャンドール・バリンカイは今は成人となって、皇帝の特赦により父の遺産を正式に相続することとなり、ハンガリーにやってきました。

一緒に来た皇帝特使カルネロは父親の遺産を正式に彼に譲渡する役です。

ジュパンは娘アルゼナとバリンカイを結婚させようとしますが、アルゼナはそれを避けるため、「男爵の位を持っている人とでなければ結婚しない」と公言します。

人々が引き上げた後に残されたバリンカイに、ザッフィの歌声が聞こえてきます。
ツィプラはジプシーたちに、新しく地主となったバリンカイを自分たちの領主だといって紹介し、バリンカイは自分を「ジプシーの男爵」だと名乗ります。そして、ザッフイはバリンカイ家の花嫁だといいます。


第二幕
舞台はバリンカイの屋敷近くのジプシー部落。

ツィプラは「私は昼も夜もご主人様の財宝を見張っていた」と静かに語ります。バリンカイが「君こそ私の愛する妻」と喜びを歌うと、ザッフィも「なんという幸せ」と応えます。


ツィプラは、夢の中でバリンカイの父親が宝の隠し場所を教えてくれたという。半信半疑のバリンカイが、ためしにその場所の石を叩くと、うつろな音がするところがあり、そこから貨幣や宝石が出て来ます。。

すると、ドラの音とともに朝が来て、パリ(呼び男)の呼び声につられてジプシーたちが仕事を始めます。

「誰が保証人になって結婚したか」と詰問されたザッフィは「うそ鳥が牧師の代りをつとめ、頭上を飛ぶ2羽のこうのとりが証人である」と答えて、人々を呆れさせます。

そこへ1隊の軽騎兵を率いてホモナイ伯爵が登場します。
この司令官はバリンカイの旧友で、スペインの戦争に従軍する兵士を募集するために来ました。
徴兵の酒を飲んだ者は募兵に応募したと認められますが、酒好きのジュパン
とオットカールはうっかりそれを飲み干してしまい、たちまち軍帽をかぶせられてしまいます。

ジュパン家の人々がザッフィを侮辱するので、ツィプラは、ザッフィの出自を明かし、しかもオーストリア皇帝の血統を受けていることを説明します。

バリンカイは、身分の違いから、彼女を妻にすることができなくなったと感じ、父の遺産全てを国家に奉納して従軍してしまいます。

第三幕
舞台はウィーンのケルントナートール劇場前の広場。
スペインに遠征したオーストリアの軍隊が続々と凱旋してきます。
ジュパンは、意気揚々として先頭に立ち、戦利品を携えて自分の見当違いな勇敢な戦い振りを述べ立てます。

軍隊の主戦部隊が到着。 
ホモナイ伯爵、バリンカイを先頭に威風堂々の行進が繰り広げられます。
ホモナイ伯爵はバリンカイの功績をたたえ、彼が国家に寄付した財産を改めて返却し、彼を貴族に列して、ザッフィとの結婚を許します。
ザッフィと、バリンカイは抱き合い、めでたく結ばれます。

バリンカイが「男が一度決意したら、不可能なことはない」と歌うと、群衆の歓喜の大合唱がそれに続きます。