ここ1.2年、同級生の死がぽつぽつ伝わってくるようになり、自分たちもいつ逝ってもおかしくない
そんな年になったことをしみじみと実感している。
いるが、自分の死はまだまだ遠いことのように思っている、と言った方が正確か。
死よりも老いていくことの憂鬱が今のところ大きくて、何とも自分を持て余す。
で、図書館でもついそういった類の本に目が行くわけでして。
中の1冊。 加賀乙彦と津村節子の対話 『愛する伴侶(ひと)を失って』
夫である作家吉村昭さんを闘病の末2006年に亡くした津村節子さんと、
妻・あや子さんを2008年突然に亡くした加賀乙彦さん。
80歳を目前に長く連れ添った最愛の伴侶を失ったおふたりの対話集。
私、加賀さんの本は若い時に「荒地を旅する者たち」を読んだきり。津村さんに至っては少女小説を読んだ記憶があるだけ。
ただ津村さんが夫の吉村さんの死に関して、年月の経った今でも悔いているという文章を何かで目にしていて、
『悔いる』気持ちの奥にあるものがずっと気になっていた。
そして、「そうか、そういうことか」とすっと胸に落ちた加賀さんと津村さんのお言葉抜粋。
娘が「お父さんが死なないとお母さんが信じていたことが、お母さんがお父さんにしてあげた一番いいことだ」って言うんです。
けれども私はそうは思えないんです。
仕事を持っている女房というのは、もう最悪ですよ。
だって本当だったら全身全霊で介護すべきでしょう。(略)
吉村の最後を介護できなかった悔いがずっと残っているんです。喪失感のようなものではないんです。
喪失感なら長い時間が経つうちに、埋めていくことができるんだろうと思う。
だけどくさびみたいに入っちゃった悔いというのは、いつまでも残ってますよ。これは治らないんです。
『死んだら「無」なのか』
キリスト教の信者である加賀さん
結局あちらの世界があるかどうか、これは誰にも証明できることではありませんよね。
ぼくにもわからない。けれども信仰とは、あの世に行ってからのことではない。
この世にいる間に幸福と喜びを得ることではないでしょうか。
つまり神がある、あちらの世界はあると賭けたほうが、人は心の安定を得て幸福になれる。
無宗教の津村さん
瀬戸内さんに「昭さんにもう会えない」と言うと
「昭さん、ここにいるわよ、ここにいるわよ」「いると思いなさい」と。
だけど私は無宗教だから、そういうあちらの世界があるとは全く思えないんです。
死んだらそこで終わり。何もないと思っている。
加賀さん
あるとも証明できない、ないとも証明できない。結局、信仰と言うことになってくる。
津村さん
あると思った方がいいでしょう、だからあると思うようにしなさい、賭けなさいと加賀さんはおっしゃる。
ところが、私にはどうしてもそう思えない。いつかあの世で吉村に会えるとは思えないんです。
だから、いくら悔やんでも取り返しのつかない、永遠のお別れになってしまっているわけ。
私、自分は無宗教の津村さんの立場だけれど、加賀さんがおっしゃる信仰のことは少しはわかる気がする。
身近にそんな友人がいたから。
彼女は50代のときに、崖の草刈りをしていたご主人が地面に落ちて打ち所悪く4日後に亡くなってしまった、という
そんなつらい経験をしているのに、我ら友人の前で泣いたり愚痴ったりしたことは一度もない。
実務的なことではその苦労の大変さを何回も聞かせてくれたけれど。
私は、その彼女の強さが何によるものか知りたかった。
だいぶ経ってからだと思う、二人になったとき触れない方がいいのかと思いつつ聞いてみた。
「教会があるから」のひと言。
ああ宗教って強いんだな心のよりどころになるんだな、と実感したことを覚えている。
webの紹介文に
最期の看病をできなかったと悔いる妻と、神は存在し妻と天国で再会できると信じる夫。
夫と妻の立場から辛く苦しい胸の内と、それをどう乗り越えていくかを語り合う。
伴侶を偲び、夫婦という不思議なものを想い、生と死について考える心にしみる対談。
とあったが、ほんとうに心にしみる1冊だった。