今日は母の命日。97歳で亡くなった年は2014年。8年になる。
今夜あたり危ないかなという感がして、病院に泊まり込んでベッドの横に布団を敷いて寝た。
グースーとリズムを刻む母の高鼾が子守歌のようで不思議な安らぎを覚えたのを思い出す。
翌朝3時半頃永眠。私ら夫婦に見守られた死だった。
脳出血で倒れて以来7年間意識なく寝たきりだった。生前いちばんいやだと言ってた姿。
でも不思議なもので、私は「姿があればどんな形でもそれだけでいい」と思っていた。
それって、手を煩わされないからかもしれない私の身勝手とは十分承知のうえでのこと。
口癖のように「趣味を持て」と。
そして80歳を過ぎる頃からは「80まではよかった」
85歳を超すようになると「85まではよかった、まだ動けた」って。
90歳になったときにその言葉は聞かなくなった。90歳で倒れたから。
一人娘が遠くに住んでいることは、母からしたらとてもさびしかったに違いない。
「せめて新潟にいたなら」と何度も言っていたからね。今ならそのさびしさも分かる。
昨日眺めていた雲。雲観察ってそれほどのことでもないけれど。
7時9分
7時18分
7時30分
この後はかき消されたかのように雲はなくなって青空がひろがった
16時48分
17時13分
日ごろ何もしないからせめて今日は母のことを思い出して。
少しはわかるようになって。
奇しくも今日は父の36回目の命日
ブログを読ませていただきながら
好きだった父を、しみじみと
思いました。
私の母も学生時代に実家に帰ると、「6人もいる子供の一人でも新潟にいてくれたら…」とこぼされたのを投稿しましたが・・・。
どんな親でも子供は近くに置きたいんですよね。よく解かります。運よく二人の子供は近くにいて、孫たちにも時々会えますので・・・。
mannmoさんは一人っ子のようですので、親の気持ちはいかばかりか・・・。
北(佐渡)に向かって手を合わせてください。
不思議な縁を感じます。
そうですよね、われらも親の気持ちが手に取るように分かる年になりました。
ということは、ん?子供に親の気持ちを期待するのは
まだまだ無理ということかな。
Pegasus様からコメントいただきました。
お母さまも同じお気持ちを持たれてたんだと
しみじみしました。
海を超える、それから電車にまた乗る、って当時の
島の人にとっては遠い遠い場所だったのでしょうね。
「せめて新潟にいたら」の母の言葉は忘れられない
ので何度も書いてしまいます。
お子様がそばにいて、お仕事も後を継いでいらっしゃるようでお幸せです。
コメント、ありがとうございました。
mannmoさんの空、大きく晴れ晴れ!
整理していたら、私のつたない母へのはがきや手紙がたくさん出てきましたー-。
あーあ、至らぬことばかり。でもー-、
私も、「今日は母のことを思おう」と。
今のようにダウンもない時代、寒い寒い軽井沢の冬を~~そして、その上にある今を。
「ありがとう」の感謝しかありません。
それでも後悔はしていません。
私は私なりにやれることをやったなという気持ちは
あるのです。やれなかったことはそれはそれで。
母にも楽しかったことはあっただろうなと、
不出来な娘は不遜にも言い聞かせたりしています。