気ままに

大船での気ままな生活日誌

コイの季節

2010-02-08 18:32:12 | Weblog
今日の午後はいたち川沿いの散歩。立春を過ぎたら、あちこちで恋の季節。いたち川のくさい仲

黒い雄鯉の群れが荒れ狂うように。むむっ。 あっ、紅い雌鯉が。狙われている。”赤頭巾ちゃん気をつけて”。 ”ライ麦畑でつかまえて”のサリンジャーさん、他界。ご冥福を祈ります。早々と筆を納め、同じような人生をおくられている、庄司薫さんもお体に気をつけて。

白鷺と青鷺もあやしい 赤サギには気をつけて。

紅梅と白梅もあやしい 老バイには気をつけて。

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龍馬と松陰

2010-02-08 12:13:41 | Weblog
昨晩のNHK大河ドラマ”龍馬伝”では、吉田松陰が金子重之助と共に、下田に来航中のペリーの黒船に小舟で渡ろうとするシーンがあった。そこに、なんと龍馬と桂小五郎がいて、松陰に死ににゆくようなものだから、思い留まるようにと説得する。しかし、松陰の決死の覚悟を知り、心を動かされた龍馬は、一転、自分も一緒に連れて行ってくれと懇願するが、お前にはこれから別の役割がある、と断る。

これはもちろん史実ではない。司馬遼太郎の松陰の一生を描いた”世に棲む日々”にも”龍馬がゆく”にも、松陰と龍馬の下田での出会いはない。”龍馬伝”の脚本家、福田靖の”脚色”である。でも、世情にのほほんとしていた龍馬に、目を開かせる場面設定としては、なかなかいいアイデアだと思う。

一昨年、下田の街を歩いたことがある。吉田松陰投宿の跡という碑があった。”世に棲む日々”では、”いま広岡町と呼ばれている町内の旅籠清水屋にいったん入ったが、平屋だったので、その隣りの下田屋にうつり、その二階に泊った”とあるから、そこの宿だろう。海岸には六隻の黒船が入っているのがみえる。そして、すでに締結した神奈川条約で自由に国内に入れることができたので、米人士官も歩いている。松陰は、その士官に、米国に是非行きたいので密航を企ている、受け入れててもらいたいと漢文で書いた手紙をそっと渡した。漢文の分かる通訳が乗船していることを知ってのことだった。

ある夜、なんとか盗んだ小舟で黒船に辿り着いたが、国禁を犯した者を受け入れるわけにはいかないと追いかえされる。これは”龍馬がゆく”からの引用だが、ペリーは彼の著書”日本遠征記”でこう述べている・・この二人の事件は、われわれを非常に感激させた。教育のある日本人ふたりが命をかえりみず、国の法律を破ってまでも、その知識を広くしようとする激しい心を示したからである。日本人はまことに学問好きな研究心の強い国民である、いかに新しいことを好む心が強いかをあらわしている。日本人のこの心は、きびしい法律と監視(幕府の)のために抑えられているが、日本の将来に実に想像のできない世界を開くものではないだろうか・・

松陰は、その後潔く、自首し国もとの長州の獄におくられ、その後自宅監禁の身となる。その後江戸で刑死するまでの、わずか3年の間に、松下村塾で桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋など有為な人材を育てる。

実は龍馬の碑も下田にある。宝福寺でみつけた。”龍馬飛翔の地”という碑だった。説明を読むと、たいしたことではなかった。勝海舟が土佐藩主山内容堂に龍馬の脱藩の許しを請い、認められたというものだった。この日から龍馬が”罪人”でなくなったということだ。

ついでながら、鎌倉の瑞泉寺にも松陰の碑がある。ただ滞在したことがあるとゆう、これもまた、たいしたことのない碑である。松陰の伯父の竹院が当時、瑞泉寺の第二十五世住職をしていて、江戸に向かう途中、ここに泊り、1週間ほど鎌倉見物をしていたのである。たぶん、海外に行ってみたいと、由比ヶ浜あたりで海ばかりを見ていたことだろう。そういえば、龍馬も海が好きだった。





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