鮮魚が売り物の居酒屋というのがある。また、鮮魚が売り、というほどでもないが、たいていの居酒屋に行けばちょっとした魚の造りとか、煮付けとか焼き魚くらいは置いているだろう。
ただ、その皿に並ぶ魚たちの出所は?・・・となると、そりゃどこかの海には間違いないにしても、果たしてその魚を獲ったのは誰か、そしてそれを日本のどこかに水揚げして、流通経路に乗せているのはどういう仕組みなのか・・・ということを考えた時に、四方を海に囲まれる好条件ながら、結構ヤバい状況になっている現在の日本の漁業の姿に思いを馳せることになる。
『聞き書き「にっぽんの漁師」』。塩野米松著、ちくま文庫版。
この一冊は平成12~13年というから、今から10年あまり前に、南は沖縄から北は北海道のオホーツクまで、全国の漁師たちの話を聞き書きしたものである。文書の端々に、漁師たちの話言葉というか、その土地ならではの息づかいのようなものすら感じられる。
ここに出てくる人たちというのはだいたいが大正末期から昭和の初期の生まれ。現在なら既にお亡くなりになっている方も多いのではないだろうか。そして、学校を出るや出ないやという年ごろから船に乗り、波乱万丈の人生の大部分を船の上で過ごし、現在に来てようやく落ち着いて物事を語れるようになった・・・そんな感じの人が多い。
現在だと魚群探知機をはじめとした機械化や、いろんな情報を細かく分析する技術が発達したおかげで、漁業もやりやすいものになったのではないかと思う。ただ、それに至るまでの自然相手の格闘とか、若いうちから借金をこしらえて言わばバクチのような人生を歩むのも悪くないというか、自らの腕にこだわりを持ち続けた人ばかりである。
聞き書きの中でたいてい出てくるのが、昨今の漁獲高の低下である。そして、安定した収入が必ずしも得られないということで自らの子どもには漁業をあえて薦めない、学校を出てサラリーマンとして就職してくれることを望む・・・そう願う漁師の多いこと。
その環境の変化も、技術の発達にともなう乱獲によるところが大きいということが繰り返し述べられている。一本釣りでやっていたのを巨大なはえ縄を敷いて、その中にやってきた魚を強引にすくい上げる方法に変える。そうすることで水揚げも上がり、ひいては自分のフトコロに返ってくるのだから。ただ、それが獲りすぎを招き、いつしかいつもの漁場に魚群を見ることがなくなった・・・という悲劇。
でもまあ、漁師的生き方というのはそういうものかもしれない。最近でこそ養殖とか蓄養とかいうことで資源を守ろうという動きがあるが、昔ながらの漁師たちはなかなか受け入れるものではないだろう。そしてその養殖も、結局は外国産の安い魚たちに押されている。冷凍技術も発達しているし。
いったい、この国の食物資源はどうなっていくのだろうか??
この一冊が出たのは今から10数年前のことであるが、現在に置き換えてみると状況が悪くなっていないか?それが心配である・・・・。