雲辺寺のロープウェイを降りて、香川県から徳島県の県境線を渡る。雲辺寺の寺の所在地は徳島県の三好市に含まれるが、札所としては讃岐に属する。雲辺寺山が県境であるし、昔のように歩いて順番を回る中では、これから4ヶ国目の讃岐に入るという意味合いが強いことがあるのだろう。確かに、伊予からいったん阿波に入ってまた讃岐に行く・・・という表記はまどろっこしく、この山を越えたら讃岐が始まる!としたほうが気持ちも新たになることだろう。
雲辺寺は弘法大師が16歳の時に自ら創建したとされている。善通寺の建材を求めてこの山に入った時、山の深遠な霊山ぶりに心を打たれて堂宇を建立したのが最初とされている。その後、34歳の時に唐から帰国してここで修行したとか、45歳の時に嵯峨天皇の勅願で本尊である千手観音を彫って供養を行い、霊場と定めたと言われている。年齢時期には伝説の部分があるのかもしれないが、この地で修行を行ったことじたいは間違いないそうだ。
こういう山奥にあることから、「四国高野」とも称されてその後は僧侶たちの修行の場として栄えた。立地が阿波、伊予、讃岐のちょうど境目ということで各地への関所の役割もあったようである。また戦国時代には四国制覇を狙う土佐の長宗我部元親が訪れ、住職に四国統一の野望を語ったことがあった。その時住職から「あなたは所詮は土佐の国主の器にすぎず、四国全土を支配する器ではない」と忠告されるが、元親はそれを聞かず讃岐や伊予にも戦乱を広げた。そのおかげで四国統一は果たしたのだが、それもわずかの期間で羽柴秀吉に攻め込まれ、結局は土佐一国に逆戻りとなった。秀吉が強すぎたのだが、四国全土を守りきることができなかったのは結果だけ見ればその器ではなかったとも言える。その後、子の盛親は関ヶ原の戦いで西軍方についたことで土佐も取り上げられ、浪人となって大坂の陣に参戦して敗死し、家の嫡流が途絶えてしまった(長宗我部家そのものは傍系が残り、現在は第17代当主の方がご健在である)。
これまで阿波の札所で「長宗我部元親の兵火により寺が焼失し・・」という歴史について何回か触れたように思うが、阿波平定の仕上げがこの雲辺寺だったわけだ。この山から讃岐や伊予の平野を見下ろしたことが、それ以上の野望を芽生えさせ、やがて家が滅んでいくきっかけになったとは、四国の歴史の一場面だったのかと想像する。
その雲辺寺だが、ロープウェイ駅から本堂にいたる道の途中には五百羅漢像が出迎えてくれる。羅漢とは釈迦の弟子として悟りを開いた聖者で、「人間」として庶民から尊敬を集める存在である。1998年から檀家や遍路の人たちからの寄付を受ける形で順次造られるようになり、7年越しで500体が揃ったという。
五百羅漢というと、その中には自分、もしくは自分の親類や知人と似た顔の像が必ずいると言われている。特にここの羅漢像はリアルに彫られていて表情も豊かだ。驚いたことに、足元には番号が振ってあって、「○○尊者像」と名前が書かれている。ちゃんと500通りの尊者が充てられているのに奥の深さを感じさせる。ざらっと見た中で私や知人に似た像がいたかどうかはさておき、豊かな表情を見るのは面白い。
「ひょっこりはん」のポーズを見せるヤツもいたり。
現実に自分の隣でこんなポーズを取っていたら引くやろうなというヤツもいたり。
7月の半ばだがあちらこちらにアジサイも咲いている。やはり平野部と比べて気温が9度も低いとなると、季節も少しさかのぼる感じである。
さてお参りもしなければ。五百羅漢から少し下ると山門に出る。10年ほど前に再建されたばかりとのことで新しい感じがする。その横に手水鉢があるが、鉢の中にアジサイの花が活けられていて涼しげに見える。
山門をくぐってそのまま石段を上がると大師堂に先に行ってしまうので、いったん左手に出て本堂に向かう。こちらの本堂も最近建てたらしく新しい感じがする。ちょうど、頭を丸めた上下白衣姿の男性が読経している。遍路というより、本職のお坊さんが修行で回っているように見受けられる。その方のお勤めが終わるのと入れ替えに本堂に入る。正面には石造りの千手観音像があり、手前には黒不動の像がある。
本堂の前には真ん中に穴が開いた茄子の形をした石があり、穴の回りには無数の願い札が貼られている。この穴をくぐるとご利益があるというので、巨体を何とかねじ込んで向こう側に出る。その向こうに「おたのみなす」という、茄子の実を型どった石があり、これに腰掛ける。なぜ茄子の実なのかということだが、説明板によると「親の意見と茄子の花は 万に一つのあだもない」という言葉があるそうで、茄子の花はすべて「実になる」縁起物なのだという。これを見ると、今が旬の泉州の水茄子で一杯やりたくなるが・・。また「おたのみなす」とは、「願い事が『成す』」というのに掛けたとある。先ほどの五百羅漢といい、この「おたのみなす」といい、雲辺寺というところは結構しゃれが効いている。
また水堂というのもある。弘法大師が掘り当てたとされる水だそうで、改めてこの人の水にまつわる伝説の多さを感じる。ここは口を清めるというより「南無大師遍照金剛と唱えながら飲んでください」とある。ただ文字通りにそうしようと思うと「ハグバイヒベンボウゴンゴウ・・・ゴボゴボ」と、水を口に入れた状態ではとても唱えられたものではない。そこは心に念じながら飲むとか、南無大師遍照金剛と唱えてからいただくとか・・・そういう意味ということでいいのかな。
この後で大師堂にもお参りして、また本堂のほうに戻る形で納経所に向かう。クルマで上って来た場合は道路維持費として500円が徴収されるが「ロープウェイで来られましたね」と不要だった。ロープウェイ乗り場までクルマで来た場合はどうなるのかなと思ったが、往復料金2060円の中にそうしたものも含んでいるのだろうと勝手に解釈しておく。
この時間なら15時発のロープウェイに間に合いそうで、再び五百羅漢の間を抜けて戻ることにする。そこへ、先ほど本堂でお勤めしていた上下白衣姿の男性が、菅笠に金剛杖という出で立ちで坂道を下り始めたので会釈してすれ違う。坂道を下ると大興寺まで9キロあまりと出ていて、この時間から歩いて大興寺まで下るとすると、何とか納経所が閉まる時間に間に合うかどうかではないだろうか。さらに泊まりとなると観音寺駅近くまで歩くのだろうか。
さて私はもう一度ロープウェイに乗り込む。下りの便も私の他に3名だけ。なお、雲辺寺のロープウェイを運行する四国ケーブルは、以前に乗った第21番の太龍寺のロープウェイ、またこの先訪ねることになる第85番の八栗寺のケーブルカーを運行しており、八十八所めぐりの利便性の向上に大きな役割を果たしている。また別格霊場の箸蔵寺へのロープウェイも子会社が運行している。
再び7分の空中散歩で山麓駅まで戻り、レンタカーに乗り込む。一気に暑さが戻ってきて、クルマのエアコンの冷気が気持ちよい。カーナビを次の大興寺にセットするとこれも所要時間20分ほどと表示されるのでぼちぼち走る。萩原寺まで一方通行の坂道を下りながら「日中この暑さの中でこの坂道を上ると間違いなくダウンするな」と一人つぶやく。平野部に戻る。県道をしばらく走り、田んぼのあぜ道の間を抜けると、その田んぼの向こうにいかにも里山の寺だなという山門が見えてきた。こちらが大興寺である・・・。
雲辺寺は弘法大師が16歳の時に自ら創建したとされている。善通寺の建材を求めてこの山に入った時、山の深遠な霊山ぶりに心を打たれて堂宇を建立したのが最初とされている。その後、34歳の時に唐から帰国してここで修行したとか、45歳の時に嵯峨天皇の勅願で本尊である千手観音を彫って供養を行い、霊場と定めたと言われている。年齢時期には伝説の部分があるのかもしれないが、この地で修行を行ったことじたいは間違いないそうだ。
こういう山奥にあることから、「四国高野」とも称されてその後は僧侶たちの修行の場として栄えた。立地が阿波、伊予、讃岐のちょうど境目ということで各地への関所の役割もあったようである。また戦国時代には四国制覇を狙う土佐の長宗我部元親が訪れ、住職に四国統一の野望を語ったことがあった。その時住職から「あなたは所詮は土佐の国主の器にすぎず、四国全土を支配する器ではない」と忠告されるが、元親はそれを聞かず讃岐や伊予にも戦乱を広げた。そのおかげで四国統一は果たしたのだが、それもわずかの期間で羽柴秀吉に攻め込まれ、結局は土佐一国に逆戻りとなった。秀吉が強すぎたのだが、四国全土を守りきることができなかったのは結果だけ見ればその器ではなかったとも言える。その後、子の盛親は関ヶ原の戦いで西軍方についたことで土佐も取り上げられ、浪人となって大坂の陣に参戦して敗死し、家の嫡流が途絶えてしまった(長宗我部家そのものは傍系が残り、現在は第17代当主の方がご健在である)。
これまで阿波の札所で「長宗我部元親の兵火により寺が焼失し・・」という歴史について何回か触れたように思うが、阿波平定の仕上げがこの雲辺寺だったわけだ。この山から讃岐や伊予の平野を見下ろしたことが、それ以上の野望を芽生えさせ、やがて家が滅んでいくきっかけになったとは、四国の歴史の一場面だったのかと想像する。
その雲辺寺だが、ロープウェイ駅から本堂にいたる道の途中には五百羅漢像が出迎えてくれる。羅漢とは釈迦の弟子として悟りを開いた聖者で、「人間」として庶民から尊敬を集める存在である。1998年から檀家や遍路の人たちからの寄付を受ける形で順次造られるようになり、7年越しで500体が揃ったという。
五百羅漢というと、その中には自分、もしくは自分の親類や知人と似た顔の像が必ずいると言われている。特にここの羅漢像はリアルに彫られていて表情も豊かだ。驚いたことに、足元には番号が振ってあって、「○○尊者像」と名前が書かれている。ちゃんと500通りの尊者が充てられているのに奥の深さを感じさせる。ざらっと見た中で私や知人に似た像がいたかどうかはさておき、豊かな表情を見るのは面白い。
「ひょっこりはん」のポーズを見せるヤツもいたり。
現実に自分の隣でこんなポーズを取っていたら引くやろうなというヤツもいたり。
7月の半ばだがあちらこちらにアジサイも咲いている。やはり平野部と比べて気温が9度も低いとなると、季節も少しさかのぼる感じである。
さてお参りもしなければ。五百羅漢から少し下ると山門に出る。10年ほど前に再建されたばかりとのことで新しい感じがする。その横に手水鉢があるが、鉢の中にアジサイの花が活けられていて涼しげに見える。
山門をくぐってそのまま石段を上がると大師堂に先に行ってしまうので、いったん左手に出て本堂に向かう。こちらの本堂も最近建てたらしく新しい感じがする。ちょうど、頭を丸めた上下白衣姿の男性が読経している。遍路というより、本職のお坊さんが修行で回っているように見受けられる。その方のお勤めが終わるのと入れ替えに本堂に入る。正面には石造りの千手観音像があり、手前には黒不動の像がある。
本堂の前には真ん中に穴が開いた茄子の形をした石があり、穴の回りには無数の願い札が貼られている。この穴をくぐるとご利益があるというので、巨体を何とかねじ込んで向こう側に出る。その向こうに「おたのみなす」という、茄子の実を型どった石があり、これに腰掛ける。なぜ茄子の実なのかということだが、説明板によると「親の意見と茄子の花は 万に一つのあだもない」という言葉があるそうで、茄子の花はすべて「実になる」縁起物なのだという。これを見ると、今が旬の泉州の水茄子で一杯やりたくなるが・・。また「おたのみなす」とは、「願い事が『成す』」というのに掛けたとある。先ほどの五百羅漢といい、この「おたのみなす」といい、雲辺寺というところは結構しゃれが効いている。
また水堂というのもある。弘法大師が掘り当てたとされる水だそうで、改めてこの人の水にまつわる伝説の多さを感じる。ここは口を清めるというより「南無大師遍照金剛と唱えながら飲んでください」とある。ただ文字通りにそうしようと思うと「ハグバイヒベンボウゴンゴウ・・・ゴボゴボ」と、水を口に入れた状態ではとても唱えられたものではない。そこは心に念じながら飲むとか、南無大師遍照金剛と唱えてからいただくとか・・・そういう意味ということでいいのかな。
この後で大師堂にもお参りして、また本堂のほうに戻る形で納経所に向かう。クルマで上って来た場合は道路維持費として500円が徴収されるが「ロープウェイで来られましたね」と不要だった。ロープウェイ乗り場までクルマで来た場合はどうなるのかなと思ったが、往復料金2060円の中にそうしたものも含んでいるのだろうと勝手に解釈しておく。
この時間なら15時発のロープウェイに間に合いそうで、再び五百羅漢の間を抜けて戻ることにする。そこへ、先ほど本堂でお勤めしていた上下白衣姿の男性が、菅笠に金剛杖という出で立ちで坂道を下り始めたので会釈してすれ違う。坂道を下ると大興寺まで9キロあまりと出ていて、この時間から歩いて大興寺まで下るとすると、何とか納経所が閉まる時間に間に合うかどうかではないだろうか。さらに泊まりとなると観音寺駅近くまで歩くのだろうか。
さて私はもう一度ロープウェイに乗り込む。下りの便も私の他に3名だけ。なお、雲辺寺のロープウェイを運行する四国ケーブルは、以前に乗った第21番の太龍寺のロープウェイ、またこの先訪ねることになる第85番の八栗寺のケーブルカーを運行しており、八十八所めぐりの利便性の向上に大きな役割を果たしている。また別格霊場の箸蔵寺へのロープウェイも子会社が運行している。
再び7分の空中散歩で山麓駅まで戻り、レンタカーに乗り込む。一気に暑さが戻ってきて、クルマのエアコンの冷気が気持ちよい。カーナビを次の大興寺にセットするとこれも所要時間20分ほどと表示されるのでぼちぼち走る。萩原寺まで一方通行の坂道を下りながら「日中この暑さの中でこの坂道を上ると間違いなくダウンするな」と一人つぶやく。平野部に戻る。県道をしばらく走り、田んぼのあぜ道の間を抜けると、その田んぼの向こうにいかにも里山の寺だなという山門が見えてきた。こちらが大興寺である・・・。