第66番の雲辺寺からクルマで20分ほどで第67番の大興寺に到着する。田んぼの中の小川を隔てたところに駐車場があり、その横に山門がある。境内全体が木々で覆われていて、その全体は見ることができない。
この山門は鎌倉時代のものと言われ、中に入っている仁王像は運慶の作と伝えられている。しっかりとこうした地方での仕事も請け負っているのだなと勝手に想像する。なお、大興寺については「小松尾寺」という呼び方もある。四国八十八所のお砂踏みでも、ここを「大興寺」としているものもあれば、「小松尾寺」としているものもある。
山門をくぐると、弘法大師が植えたとされる樹齢1200年のカヤやクスの木が生える。これらの巨木を初めとして木々に覆われているので日陰なら若干涼しくは感じる。その中、本堂に続く石段を上る。「南無大師遍照金剛」と独特の書体で書かれた幟が立つ。
途中に石塔があり、さらに少し石段を上がると境内に出る。正面に本堂がデンと構えている。ここに来るとまた日差しがきつくなり、何をするにもまずは汗をぬぐってからとなる。そんな中でのお勤めである。
大興寺は元々東大寺の末寺として建立され、その後伝教大師最澄の影響で天台宗の寺となった。しかし火災で焼失し、嵯峨天皇の勅願で現在地から1キロほど離れたところに弘法大師によって再建された。その後は真言宗と天台宗の僧坊がともに連なるようになり、空海と最澄のそれぞれの修行の地となった。一つの寺に複数の宗派が同居するケースは全くないわけではないようだが、真言宗と天台宗というのは極めて異例ではないだろうか。開祖同士が対立していたイメージもあるし。確かに天台宗にも密教の要素があるから相通じるところがあるのかもしれない。現在の場所に移ったの明治の頃で、今は一応は真言宗の寺院ということで落ち着いている。
この寺も戦国時代には長宗我部元親の兵火で本堂を残して焼失した歴史があるという。また出たか長宗我部元親・・・。先ほど訪ねた雲辺寺のエピソードとつなげると、結局あれから讃岐に攻め込んで、また寺を焼いてしまったということになる。
大興寺の納経所は本堂の中にあり、正面の賽銭箱のすぐ左手に僧侶が座って参詣者を見下ろす位置にある。納経所がこういう位置だと、お経も唱えずにご朱印だけ先にいただこうとすると僧侶に叱られそうだ。
というわけで、いったん本堂を離れて「手順とおり」左手にある大師堂に向かい、こちらでも同様に手を合わせる。
通常ならここでお勤めを終えて本堂の納経所に向かうのだが、境内に入った時に気になった建物があるので、いったん本堂の前を横切って、右手にあるお堂に行く。こちらも「大師堂」である。
先ほど、大興寺では真言宗と天台宗が同居していた歴史があると書いたが、右手の大師堂では、大師は大師でも中国の高僧で天台宗の開祖とされる天台大師智顗を祀っている。そこを最澄にしなかったのはなぜだろうか。最澄という人があまり祀られるのを好まなかったというのをどこかで読んだような気がする。一応こちらにも四国の納札箱もあるし、何だか無視するのも悪いなと思ったので、もう一度お勤めとする。
本堂、弘法大師堂、天台大師堂と3つのお勤めをして汗だくの状態で本堂に戻って納経帳を出す。「本当に暑いですなあ」と言いながら筆を走らせてくれる。本堂の中はエアコンなどなく扇風機でしのいでいる様子。こんな中でも巡拝者を拒まず待つのも大変だと思う。
時刻は16時を回っており、次の札所は翌日訪ねることにしてここで笈摺を取る。レンタカーの返却は18時までなので時間は少しある。ふと、海を見に行こうという気になる。半日で札所2つを回り、プラスアルファでどこか見ることができれば、レンタカーを使った効果はあるというものだ。
県道を西に走り、観音寺から一つ松山寄りの豊浜駅に着く。春に伊予西条まで特急に乗った時にこの駅を通過したが、線路横に満開のつつじが咲いていたのが印象的だった。
向かったのは駅からもほど近い一の宮海岸。芝生にヤシの木が出迎えてくれる。また、元々遠浅の海岸のところ、潮が引いている時間帯だったか、海岸線が遠くに見える。そこまでぶらぶらと歩く。砂で遊んだり、水遊びをするのは家族連れが多く、子どもたちの歓声が響く。波もほとんどなく、このくらいなら小さい子どもたちも安全に海を楽しめそうだ。
海岸線から振り返ると先ほどロープウェイで上がった雲辺寺山も見えるし、周りの景色もぐるりと囲むようだ。
しばらく海辺に佇むが、潮風というのはほとんど感じられなかった。やはり暑くなってきてクルマに戻る。もう、この日の見物は十分だろう。
14日の夜は観音寺駅近くのホテルに泊まるが、レンタカーを駅に返却してまた荷物を担いでホテルにチェックインするよりも、先にホテルに行って荷物を下ろしてから駅に戻ったほうがよさそうだ。まずは何やかんやで前半戦が終わったということで・・・。
この山門は鎌倉時代のものと言われ、中に入っている仁王像は運慶の作と伝えられている。しっかりとこうした地方での仕事も請け負っているのだなと勝手に想像する。なお、大興寺については「小松尾寺」という呼び方もある。四国八十八所のお砂踏みでも、ここを「大興寺」としているものもあれば、「小松尾寺」としているものもある。
山門をくぐると、弘法大師が植えたとされる樹齢1200年のカヤやクスの木が生える。これらの巨木を初めとして木々に覆われているので日陰なら若干涼しくは感じる。その中、本堂に続く石段を上る。「南無大師遍照金剛」と独特の書体で書かれた幟が立つ。
途中に石塔があり、さらに少し石段を上がると境内に出る。正面に本堂がデンと構えている。ここに来るとまた日差しがきつくなり、何をするにもまずは汗をぬぐってからとなる。そんな中でのお勤めである。
大興寺は元々東大寺の末寺として建立され、その後伝教大師最澄の影響で天台宗の寺となった。しかし火災で焼失し、嵯峨天皇の勅願で現在地から1キロほど離れたところに弘法大師によって再建された。その後は真言宗と天台宗の僧坊がともに連なるようになり、空海と最澄のそれぞれの修行の地となった。一つの寺に複数の宗派が同居するケースは全くないわけではないようだが、真言宗と天台宗というのは極めて異例ではないだろうか。開祖同士が対立していたイメージもあるし。確かに天台宗にも密教の要素があるから相通じるところがあるのかもしれない。現在の場所に移ったの明治の頃で、今は一応は真言宗の寺院ということで落ち着いている。
この寺も戦国時代には長宗我部元親の兵火で本堂を残して焼失した歴史があるという。また出たか長宗我部元親・・・。先ほど訪ねた雲辺寺のエピソードとつなげると、結局あれから讃岐に攻め込んで、また寺を焼いてしまったということになる。
大興寺の納経所は本堂の中にあり、正面の賽銭箱のすぐ左手に僧侶が座って参詣者を見下ろす位置にある。納経所がこういう位置だと、お経も唱えずにご朱印だけ先にいただこうとすると僧侶に叱られそうだ。
というわけで、いったん本堂を離れて「手順とおり」左手にある大師堂に向かい、こちらでも同様に手を合わせる。
通常ならここでお勤めを終えて本堂の納経所に向かうのだが、境内に入った時に気になった建物があるので、いったん本堂の前を横切って、右手にあるお堂に行く。こちらも「大師堂」である。
先ほど、大興寺では真言宗と天台宗が同居していた歴史があると書いたが、右手の大師堂では、大師は大師でも中国の高僧で天台宗の開祖とされる天台大師智顗を祀っている。そこを最澄にしなかったのはなぜだろうか。最澄という人があまり祀られるのを好まなかったというのをどこかで読んだような気がする。一応こちらにも四国の納札箱もあるし、何だか無視するのも悪いなと思ったので、もう一度お勤めとする。
本堂、弘法大師堂、天台大師堂と3つのお勤めをして汗だくの状態で本堂に戻って納経帳を出す。「本当に暑いですなあ」と言いながら筆を走らせてくれる。本堂の中はエアコンなどなく扇風機でしのいでいる様子。こんな中でも巡拝者を拒まず待つのも大変だと思う。
時刻は16時を回っており、次の札所は翌日訪ねることにしてここで笈摺を取る。レンタカーの返却は18時までなので時間は少しある。ふと、海を見に行こうという気になる。半日で札所2つを回り、プラスアルファでどこか見ることができれば、レンタカーを使った効果はあるというものだ。
県道を西に走り、観音寺から一つ松山寄りの豊浜駅に着く。春に伊予西条まで特急に乗った時にこの駅を通過したが、線路横に満開のつつじが咲いていたのが印象的だった。
向かったのは駅からもほど近い一の宮海岸。芝生にヤシの木が出迎えてくれる。また、元々遠浅の海岸のところ、潮が引いている時間帯だったか、海岸線が遠くに見える。そこまでぶらぶらと歩く。砂で遊んだり、水遊びをするのは家族連れが多く、子どもたちの歓声が響く。波もほとんどなく、このくらいなら小さい子どもたちも安全に海を楽しめそうだ。
海岸線から振り返ると先ほどロープウェイで上がった雲辺寺山も見えるし、周りの景色もぐるりと囲むようだ。
しばらく海辺に佇むが、潮風というのはほとんど感じられなかった。やはり暑くなってきてクルマに戻る。もう、この日の見物は十分だろう。
14日の夜は観音寺駅近くのホテルに泊まるが、レンタカーを駅に返却してまた荷物を担いでホテルにチェックインするよりも、先にホテルに行って荷物を下ろしてから駅に戻ったほうがよさそうだ。まずは何やかんやで前半戦が終わったということで・・・。