三池炭鉱の産業遺産群をダイジェスト的にめぐる一時。
宮原坑を訪ねた後、レンタカーで市街地を抜け、三池港方面に向かう。このエリアには大牟田市石炭産業科学館があるが、以前にも行ったので時間的に割愛して、初めて向かったのが三川坑である。
先に訪ねた万田坑や宮原坑は明治、大正からの歴史があるが、三川坑が開かれたのは戦時下の1940年。戦後は三池炭鉱の最主力坑として、戦後復興を支えるために多くの石炭を産出することになる。戦後、昭和天皇の全国巡幸の際には天皇自ら坑内に入り、採炭の模擬体験も行ったという。三池炭鉱は1997年に閉山したが、最後まで稼働していたのがここ三川坑であった。
なお、世界文化遺産に三池炭鉱の産業遺産群も含まれているが、その対象はあくまで明治の近代化に関連するスポットということで、同じ大牟田にあっても昭和に開かれた三川坑は世界文化遺産の対象外である。だから、大牟田の観光案内での扱いも小さいのかな。
敷地内には炭鉱電車の機関車が4台並ぶ。最古のものは明治時代に製造されたもので、さすがに動くのは無理だろうが、良い状態で保存されている。三井のマークも誇らしげに見える。
このマーク、江戸時代以降現在も三井関連の多くの企業で何らかの形で採用されている。企業のロゴマークは・・・その企業やグループの考え方なのだろうが、歴史がどう変わろうとも何らかの形で受け継ぐべきという向きもあれば、時代の変化に合わせる、国内だけではなくグローバルを意識するならば変えなければならないという向きもある。どちらが正しいというのではないが、私の場合、勤務先企業グループが近年後者のほうに舵を切ったというのを経験したが、昔からそのイメージだったマークがなくなった(淘汰された・・という思い)のは寂しさを感じている(その割に、新たなロゴマークが当初の思惑のように浸透していないので、なおさら)。まあ、50歳を過ぎたおっさんの個人的感傷だが・・。
「ご安全に」「ご苦労さん」の標語が並ぶ入坑口を下りる。かつての施設の一部が現在も保存されており、ここを抜けると第二斜坑の入坑口に出る。かつての様子を紹介した写真が掲げられ、昭和の炭鉱の様子がうかがえる。
さて、隣の第一斜坑は現在更地になっているが、その奥に新しい石碑がある。そこは「三川坑炭塵爆発慰霊碑」の文字とともに、多くの名前が刻まれている。
三川坑は三池炭鉱の主力として戦後復興に貢献するところが大きかったが、一方「負の歴史」でも登場している。まずは1959~60年の長期にわたる三池争議。エネルギー源が石炭から石油に変化する中、三井は合理化のために人員削減をやらざるを得なくなり、退職勧告、指名解雇を行った。これに反発した労働組合が長期のストライキを決行し、当時の安保反対の活動家や政党も巻き込んでの大きな争議となった。泥沼化の末、最後は会社側有利の斡旋案で決着したような・・。
そして、1963年に発生した炭塵爆発事故である。三川坑の第一斜坑の中で石炭を積載したトロッコが脱線して火花を出したことで大量の炭塵が蔓延し、爆発した。死者458名、救出者のうち839名が一酸化炭素中毒という戦後最悪の炭鉱事故となった(この事故も、先ほどの三池争議のゴタゴタが遠因で発生したと見る向きもある)。この慰霊碑は、2013年に三川坑が近代化遺産となったのを契機に、事故の犠牲者に加えて後遺症で亡くなった方の慰霊を目的として2020年に建立されたとある。
そうした暗い出来事が続く中、大牟田を明るくしたのが1965年、三池工業高校の夏の甲子園初出場初優勝であった。チームを率いた原貢監督は、ジャイアンツの原辰徳前監督の父、今季メジャーに移籍した菅野智之投手の祖父として知られている。この快挙を記した澤宮優・著「炭鉱町に咲いた原貢野球」というノンフィクションを読んだが、当時の地方の雰囲気も伝わって来てなかなか面白い一冊である(作品中では、選手たちのその後、現在地というのもしっかり描かれており、甲子園優勝がその後の人生によくも悪くも影響したことも取り上げられている)。
これで荒尾、大牟田の三池炭鉱の産業遺産群も見たことで、そろそろ大牟田駅に戻ることにしよう・・・。