江崎満さんは、わたしのだぁ~い好きな版画家さん。
フェイスブックで知り合うて、時々アホなこと言うたり、まじめなこと言うたりして、遊んでもろてる。
彼の版画からは、いきものの命が浮き出てくる。
彼の版画を、たとえパソコンの画面上のものであっても、じぃっと見つめてると、わたしもいきものの仲間であることが、嬉しくなってくる。
その彼が、自宅を囲む森に降り積もった雪を見ながら考えたことを、文字にしはった。
それをここに紹介させてもらいます。
ブログ『江崎満の小さな不思議』より
この冬考えたこと
この冬、雪に埋まり、降る雪を眺めながら考えたことがある。
それは、「日本人というのはどんな民族なのか?」である。
年末の衆議院選挙で、自民党が圧勝したが、それは、小生にとってショックな出来事だった。
福島の、今だに、仮設住宅に住み続けることを余儀なくされている多くの人たち、
年間20ミリシーベルトという線量の中で暮らさざるを得ない、多くの若い人たちや子供たち。
第一原発は、収束どころか、汚染水は海に垂れ流したまま、メルトスルーした核燃料がどうなっているのかすら分からない状況であり、
4号機の使用済み核燃料プールは、極めて危ない状況をかろうじて保っている、というのが現状であって、
世界中がそれを心配している。
知らないのは当の日本人くらいだ。
要するに、まだ何も解決していないのである。
そんな福島のことも、原発のことも捨て置いて、ただ経済を活発にする、と言う演説に終始した自民党である。
戦後、70年もの間、政治を独占し、みんなの知らない間に原発を54基も作り、原子力村という、強固な既得権益構造を作って来たのは自民党であり、
勿論、原発推進、これからも作り続けるという、その自民党が圧勝したのだ。
確かに、民主党はだらしなく、新しい政治に期待した国民を裏切り続けたが、70年かけて構築して来た体制を、たったの3年で変えられるわけはないのだ。
ともあれ、信じたくもないが、自民党の圧勝、それが事実である。
一体我々日本人は、何を考えて生きているのか?
どんな民族なのか?
それを考えざるを得なかった。
というより、そのギモンが沸々と湧いて来るのをどうしようもなかった。
昨年春、毎週金曜日に、原発に反対する人たちが路上に溢れ、首相官邸を包囲した。
回を重ねる度に、人々の数は増えていき、8月の、大江健三郎氏らが呼びかけた集会には、10万人以上の群衆が全国から集まった。
このデモは、組織の動員ではなく、個人個人の意志によるもので、実に安保闘争以来40年ぶりの正当なデモであり、新しい国民の意思表明の動きであり、それは全国各地へと広がっていった。
想像するに、具体的にデモという行動に出ないまでも、原発を止めようという意志を持った人たちは、デモに参加した人の何倍もいたに違いない。
事実、原発賛否のパブリックコメントの結果も、国民の80パーセントが原発反対だった。
それほど福島の事故は、我々国民にとって衝撃だったし、大きい問題だった。
しかし、選挙の結果を見る限り、そんな国民の意思は、声は、何処へ行ったのか?
全く反映されていないし、うまく圧殺されたような気すらする。
投票前から結果は分かっていた。
組織票である。
しかも、50パーセント以下の投票率。
一応当選した数は圧倒的であっても、これが圧勝といえるのか。
なんだか選挙制度自体怪しく思えてくるし、組織票で投票前から結果が分かっているというのは、どう考えても悲しい。
そこに、国民主権や民主主義というものは存在しない。
いつしか我々は、自分の頭でものを考えることをやめ、魂を何かに売り渡したのだろうか?
それとも、もともと自分の頭で考えるのが苦手で、権力者の考えたことに安易に同調し、浮かれ騒ぐ民族なのだろうか?
少なくとも、戦時中はそうであったように思えるし、そんなところは、その後反省されることもなく続いて来たようにも思え、それが、原発を54基も作った要因なのかも知れない。
戦後、我々の親の世代は、高度経済成長を成し遂げ、国中が中産階級になった。
その後の団塊の世代、それにつづく我々の世代は、自分の世代のことしか考えない一代主義が蔓延したように思う。
要するに、物質的豊かさを甘受し、その暮らしに埋没していったのだ。
原発はトイレのないマンションといわれるが、解決のつかない核のゴミの問題を棚上げしたまま、将来に丸投げし、イケイケで原発を作り続けたわけである。
現在、ヒロシマ原爆がばらまいた放射能の、120万発分の核廃棄物が、各原発や六ヶ所村に溜まり続け、満杯状態だと言う。
現代の科学では到底処理は不可能とされ、地下に埋めて300年間管理するしかない、という結論らしいが、その最終処分場さえ決めることができずにいる。
たとえ電気が足ろうが足らなかろうが、安全だろうが安全でなかろうが、その前に、溜まり続ける核のゴミの問題が、我々の前に立ちはだかっている。
原発を作った我々の世代で解決出来る問題では到底なく、われわれの子供たち、孫たち、ひ孫たち、そのまた孫たちと、将来何百年にわたって、核のゴミを受け渡していかねばならないのだ。
この問題は、議論の余地がない。
にもかかわらず、まだ原発を作り、推進しようとしている人たちがいて、残念ながらその人たちが権力を握り、それを支え許す国民たちが沢山いる。
その事実・・・・・。
一体われわれ日本国民は、何を考えて生きているのか?
我々子供を持つ親は、子供をいい大学に入れ、大企業に就職させることが子供にとっての幸せだと信じて、そのことに熱狂して来た。
もう呆れるほど過保護な熱狂ぶりである。
しかし、企業という組織に入りサラリーマンになることが、本当に幸せかどうか。
確かに、暮らしの安定は手に入るのだろうが、それと引き換えに何かを失ってはいないか。
はっきり言って、日本の大企業には、個人の自由はない。
日産藩、トヨタ藩、というように、封建社会そのものだと思えるし、大企業になればなるほど、自由度は失われてゆく。
実際、大企業にいては、原発反対などと、声に出して決して言えないのだ。
大企業だけでなく中小企業も、多かれ少なかれ同じであろう。
今、興味深い人の一人に、安富歩という人がいる。
彼の眼差しは鋭く説得力があり、面白い。
彼の言葉の中に、「立場主義」というのがある。
社会は立場だけが相互作用して運動していて、人は素材として、立場を作動させるためのエネルギー源になっていて、存在しているのは組織と立場だけ。
要するに、人はいないのだと。
また安富氏は、「魂の植民地化」とも言う。
自分自身ではない世界を、自分自身の周りに作り出して、その世界を生きることを差して言うらしい。
われわれは大人になるにつれて、生きるためにいろんなものを身につけ、そうすることで、何か大切なものをどんどん失い、全てが「仮」になってしまう。
仮面を付けるわけだが、いつしか仮面であることさえ忘れてしまうのだ。
仮面で思い出すのは、いつぞやの元野田首相の顔である。
金曜日のデモが首相官邸を取り巻いていた時、報道陣が詰め寄り、「官邸の外の多くの声をどう思うか?」とコメントを求めると、
「大きい音だな」と彼は言ったのだが、その時の顔はまさに、魂の抜けた仮面の顔だった。
彼ばかりではなく、本来、政治家というものは、強力な仮面を付けるのが仕事なのだろう。
安富氏はそんな「立場主義」や「魂の植民地化」は、戦後日本の在り方だという。
そう考えると、「民主主義」や「国民主権」という言葉が、遠い絵空事のように思えてくる。
組織と立場だけが存在し、民がいないのだから。
政治も、日本のこれからの方向も、民が決めるのではなく、立場が、力関係や利害関係で相互作用し運動してゆく、「立場の生理学」によって決まるのだ。
あくまでも、人は立場の素材に過ぎないのだ。
安富氏の論調は分かり易く、何故今、自民党が圧勝したのか?という疑問に、明解な解答を与えてくれる。
成る程と思うのだが、どこか腑に落ちないものもある。
そんな簡単な話だろうか?と。
分かり易い論理、説得力のある論理というものは、どこか抜け落ちる部分が必ずあるものだ。
頭ではスッキリと納得いくが、体全体では納得出来ない、と言ったらいいだろうか。
親しい友人には、企業に勤め、サラリーマンをやっているものが少なくない。
彼らの顔を思い浮かべてみる。
彼らのカイシャでの顔は知らないが、仮面を被り、立場だけで生きているようには思えない。
彼らは生身の人間であり、悩んだり喜んだりしながら、日々を生々しく生きている。
魂の抜けた人生をやっているとは決して思えないのだ。
しかしながら、安富氏の指摘は確かにそうなわけで、否定などできやしない。
社会的に見れば、概ねその傾向にあることは事実なのだと認めざるを得ないし、
悲しいかな、図らずも我々は、そういう社会を作って来たということだ。
「立場主義」や「魂の植民地化」の問題は、なにも日本だけの話ではなく、産業革命後の先進国と言われる国々の、世界的傾向じゃないかとも思えるのだが、
しかし、日本は、特にこの傾向が強いように思われる。
日本人は長い間、つい最近まで、封建社会の中で生きて来た民族だし、現在の民主主義も、日本人自らが歴史に揉まれ苦労して築き上げたものではない。
その意味ではまだ、人々の中に民主主義が浸透してはいないのかもしれないし、基本的に、藩や組織が好きな民族なのかもしれない。
その気質が、一時期でも、日本を世界第二の経済大国にした原動力だったのかもしれない。
また、「立場主義」「魂の植民地化」の問題は、サラリーマンだけの話ではない。
私のように、何処の組織にも属していないものでも、現代日本という社会、枠組みから外れては生きてはいけない。
「立場の生理学」から逃れることは出来ないし、大人になるにつれて、生きるために、或は自分を守るために、沢山の仮面を身につけて来たに違いないからだ。
原発の問題はエネルギーの問題ではない。
原発がなくとも電気は十分まかなえることや、電力会社が原発を動かしたい理由はただ1つ、会社の経営上の問題(原発を止めたら資産が減り困るのだ)であることは、すでに周知の事実となった。
頓挫したまま展望さえない六ヶ所村核燃料サイクル計画も、廃止にならず継続になったのは、それに可能性や希望があるからではなく、
廃止にしたら、動燃という組織が潰れ、そこの連中や組織から、票や政治資金をもらっている政治家が困るからだ。
企業が倒産することがあるのは当たり前のことだが、電力関係の会社は潰れないし潰さない。
国の将来に関わることより、一つの組織の利害の方が大切らしい。
どう考えてもおかしな話だが、まさに立場の生理学だ。
世界が初めて体験するほどの大惨事であるフクシマ第一原発事故は、福島や日本中、いや世界中に、甚大な被害を及ぼし、今だ多くの人たちに、酷い暮らしを強要し続けているが、
同時に、日本の社会の構造を、これまで権力者たちが表に出さなかった原発や原子力村のこと、電力会社に囲われたマスコミたち、その他様々な現実を、露呈させ見せてくれた。
如何にわれわれが物質的な豊かさに埋没し、目の前のことしか考えない暮らしをやって来たことかということも。
もう一度言おう。
原発の問題は、エネルギーの問題ではない。
人が人として健やかに暮らす権利の問題であり、民が民を回復し、社会をどう再構築するかの問題に他ならず、私が「私」という立場や仮面を脱ぎ捨て、私をどう回復するか?
私がどう生きるのか?の問題なのである。
そんなことを考えていると、原発をなくすなんて、途方もなく遠い話のように思える。
しかし、だからといって諦めるわけにはいかない。
わたしが生きているのを諦めるわけにいかないのと同じように。
生きている限り、自由でありたいと願う。
「自由」とは、自らに由ると書く。
仕事や生きることの根拠が、自分の裡の魂でありたい。
自分という「生命」が弾け、歓こぶことをやりたいと思う。
そう願って生きることが、原発反対運動なのだ。
勿論、私の得意なやり方で、原発反対運動の一端は担っていきたいが、
その具体的な方策は模索中だ。
ともあれ、私が死ぬまでには、
止めたい。
ところで、「日本人というのはどういう民族なのか?」という問いについて、
考えれば考えるほど、茫々と深い問題なのだと気付くわけで、
私の狭い見聞と小さな頭では、明解な答えなど出るはずもなく、
途中経過というか、問題提起くらいにしかならなかったが、
しかし、問いそのものが答えというか、考えること自体に意味があると思われるわけで、
これからも、生きている限り、この問いと付き合っていくつもりである。
また、仮面とは何か?、仮面を脱ぎ捨てるとはどういうことか?、
についても考えてみたが、長くなるので改めてまた。
↑以上、転載おわり
さて、上に載せた、満さん作の『さよなら原発』ステッカーからできた旗。
こんな旗が、町の家々の玄関や、自転車の後ろや、マラソンや散歩を楽しむ方々の背中やお腹で揺れてたら……う~ん、楽しすぎる!
ステッカーは、以下のところで入手できます。
このステッカーを貼った車だらけになったら……みんなが毎日、この『さよなら原発』の言葉を目にするようになったら……うっとりと妄想中。
↓以下、『さよなら原発』ステッカー購入方法の紹介です。
「さよなら原発」のステッカーができました
私たちの脱原発の思いを、版画家のゴロスケさんが形にしてくれました。
ハガキ大と写真L版くらいの2枚セットで500円ですが、購入数と送料によって、料金は下記の4通りとなります。
1~19セット 500円×セット数+送料80円
20セット 450円×20セット+送料80円
21~40セット 450円×セット数+送料160円
41セット~ 450円×セット数+送料350円
収益は福島の子どもを守る活動にカンパします。
郵便振込用紙に、名前、住所、電話番号、必要セット数、送料合計金額を明記の上、下記までお振込ください。
郵便振替 01770-5-141837
加入者名 「さよなら原発」ステッカーの会
ご入金確認後の発送となります。
ご入金の確認に2~3日かかるため、商品の到着まで一週間から10日前後かかります。
お急ぎのかたは事前にご相談ください。送料が若干アップします。
ご不明な点、お問い合わせ等ありましたら、下記までご連絡ください。
FAX: 0978-52-2065
Email: sayonaragenpatu@gmail.com
ちなみに、私たち、アヤシイものではございません。
たくさんの方々の協力を得ながら、山口・大分在住の女性3人で取り組んでおります。
そのうちの一人、広報担当(?)の私はこちらのブログを主に書いております。
フェイスブックで知り合うて、時々アホなこと言うたり、まじめなこと言うたりして、遊んでもろてる。
彼の版画からは、いきものの命が浮き出てくる。
彼の版画を、たとえパソコンの画面上のものであっても、じぃっと見つめてると、わたしもいきものの仲間であることが、嬉しくなってくる。
その彼が、自宅を囲む森に降り積もった雪を見ながら考えたことを、文字にしはった。
それをここに紹介させてもらいます。
ブログ『江崎満の小さな不思議』より
この冬考えたこと
この冬、雪に埋まり、降る雪を眺めながら考えたことがある。
それは、「日本人というのはどんな民族なのか?」である。
年末の衆議院選挙で、自民党が圧勝したが、それは、小生にとってショックな出来事だった。
福島の、今だに、仮設住宅に住み続けることを余儀なくされている多くの人たち、
年間20ミリシーベルトという線量の中で暮らさざるを得ない、多くの若い人たちや子供たち。
第一原発は、収束どころか、汚染水は海に垂れ流したまま、メルトスルーした核燃料がどうなっているのかすら分からない状況であり、
4号機の使用済み核燃料プールは、極めて危ない状況をかろうじて保っている、というのが現状であって、
世界中がそれを心配している。
知らないのは当の日本人くらいだ。
要するに、まだ何も解決していないのである。
そんな福島のことも、原発のことも捨て置いて、ただ経済を活発にする、と言う演説に終始した自民党である。
戦後、70年もの間、政治を独占し、みんなの知らない間に原発を54基も作り、原子力村という、強固な既得権益構造を作って来たのは自民党であり、
勿論、原発推進、これからも作り続けるという、その自民党が圧勝したのだ。
確かに、民主党はだらしなく、新しい政治に期待した国民を裏切り続けたが、70年かけて構築して来た体制を、たったの3年で変えられるわけはないのだ。
ともあれ、信じたくもないが、自民党の圧勝、それが事実である。
一体我々日本人は、何を考えて生きているのか?
どんな民族なのか?
それを考えざるを得なかった。
というより、そのギモンが沸々と湧いて来るのをどうしようもなかった。
昨年春、毎週金曜日に、原発に反対する人たちが路上に溢れ、首相官邸を包囲した。
回を重ねる度に、人々の数は増えていき、8月の、大江健三郎氏らが呼びかけた集会には、10万人以上の群衆が全国から集まった。
このデモは、組織の動員ではなく、個人個人の意志によるもので、実に安保闘争以来40年ぶりの正当なデモであり、新しい国民の意思表明の動きであり、それは全国各地へと広がっていった。
想像するに、具体的にデモという行動に出ないまでも、原発を止めようという意志を持った人たちは、デモに参加した人の何倍もいたに違いない。
事実、原発賛否のパブリックコメントの結果も、国民の80パーセントが原発反対だった。
それほど福島の事故は、我々国民にとって衝撃だったし、大きい問題だった。
しかし、選挙の結果を見る限り、そんな国民の意思は、声は、何処へ行ったのか?
全く反映されていないし、うまく圧殺されたような気すらする。
投票前から結果は分かっていた。
組織票である。
しかも、50パーセント以下の投票率。
一応当選した数は圧倒的であっても、これが圧勝といえるのか。
なんだか選挙制度自体怪しく思えてくるし、組織票で投票前から結果が分かっているというのは、どう考えても悲しい。
そこに、国民主権や民主主義というものは存在しない。
いつしか我々は、自分の頭でものを考えることをやめ、魂を何かに売り渡したのだろうか?
それとも、もともと自分の頭で考えるのが苦手で、権力者の考えたことに安易に同調し、浮かれ騒ぐ民族なのだろうか?
少なくとも、戦時中はそうであったように思えるし、そんなところは、その後反省されることもなく続いて来たようにも思え、それが、原発を54基も作った要因なのかも知れない。
戦後、我々の親の世代は、高度経済成長を成し遂げ、国中が中産階級になった。
その後の団塊の世代、それにつづく我々の世代は、自分の世代のことしか考えない一代主義が蔓延したように思う。
要するに、物質的豊かさを甘受し、その暮らしに埋没していったのだ。
原発はトイレのないマンションといわれるが、解決のつかない核のゴミの問題を棚上げしたまま、将来に丸投げし、イケイケで原発を作り続けたわけである。
現在、ヒロシマ原爆がばらまいた放射能の、120万発分の核廃棄物が、各原発や六ヶ所村に溜まり続け、満杯状態だと言う。
現代の科学では到底処理は不可能とされ、地下に埋めて300年間管理するしかない、という結論らしいが、その最終処分場さえ決めることができずにいる。
たとえ電気が足ろうが足らなかろうが、安全だろうが安全でなかろうが、その前に、溜まり続ける核のゴミの問題が、我々の前に立ちはだかっている。
原発を作った我々の世代で解決出来る問題では到底なく、われわれの子供たち、孫たち、ひ孫たち、そのまた孫たちと、将来何百年にわたって、核のゴミを受け渡していかねばならないのだ。
この問題は、議論の余地がない。
にもかかわらず、まだ原発を作り、推進しようとしている人たちがいて、残念ながらその人たちが権力を握り、それを支え許す国民たちが沢山いる。
その事実・・・・・。
一体われわれ日本国民は、何を考えて生きているのか?
我々子供を持つ親は、子供をいい大学に入れ、大企業に就職させることが子供にとっての幸せだと信じて、そのことに熱狂して来た。
もう呆れるほど過保護な熱狂ぶりである。
しかし、企業という組織に入りサラリーマンになることが、本当に幸せかどうか。
確かに、暮らしの安定は手に入るのだろうが、それと引き換えに何かを失ってはいないか。
はっきり言って、日本の大企業には、個人の自由はない。
日産藩、トヨタ藩、というように、封建社会そのものだと思えるし、大企業になればなるほど、自由度は失われてゆく。
実際、大企業にいては、原発反対などと、声に出して決して言えないのだ。
大企業だけでなく中小企業も、多かれ少なかれ同じであろう。
今、興味深い人の一人に、安富歩という人がいる。
彼の眼差しは鋭く説得力があり、面白い。
彼の言葉の中に、「立場主義」というのがある。
社会は立場だけが相互作用して運動していて、人は素材として、立場を作動させるためのエネルギー源になっていて、存在しているのは組織と立場だけ。
要するに、人はいないのだと。
また安富氏は、「魂の植民地化」とも言う。
自分自身ではない世界を、自分自身の周りに作り出して、その世界を生きることを差して言うらしい。
われわれは大人になるにつれて、生きるためにいろんなものを身につけ、そうすることで、何か大切なものをどんどん失い、全てが「仮」になってしまう。
仮面を付けるわけだが、いつしか仮面であることさえ忘れてしまうのだ。
仮面で思い出すのは、いつぞやの元野田首相の顔である。
金曜日のデモが首相官邸を取り巻いていた時、報道陣が詰め寄り、「官邸の外の多くの声をどう思うか?」とコメントを求めると、
「大きい音だな」と彼は言ったのだが、その時の顔はまさに、魂の抜けた仮面の顔だった。
彼ばかりではなく、本来、政治家というものは、強力な仮面を付けるのが仕事なのだろう。
安富氏はそんな「立場主義」や「魂の植民地化」は、戦後日本の在り方だという。
そう考えると、「民主主義」や「国民主権」という言葉が、遠い絵空事のように思えてくる。
組織と立場だけが存在し、民がいないのだから。
政治も、日本のこれからの方向も、民が決めるのではなく、立場が、力関係や利害関係で相互作用し運動してゆく、「立場の生理学」によって決まるのだ。
あくまでも、人は立場の素材に過ぎないのだ。
安富氏の論調は分かり易く、何故今、自民党が圧勝したのか?という疑問に、明解な解答を与えてくれる。
成る程と思うのだが、どこか腑に落ちないものもある。
そんな簡単な話だろうか?と。
分かり易い論理、説得力のある論理というものは、どこか抜け落ちる部分が必ずあるものだ。
頭ではスッキリと納得いくが、体全体では納得出来ない、と言ったらいいだろうか。
親しい友人には、企業に勤め、サラリーマンをやっているものが少なくない。
彼らの顔を思い浮かべてみる。
彼らのカイシャでの顔は知らないが、仮面を被り、立場だけで生きているようには思えない。
彼らは生身の人間であり、悩んだり喜んだりしながら、日々を生々しく生きている。
魂の抜けた人生をやっているとは決して思えないのだ。
しかしながら、安富氏の指摘は確かにそうなわけで、否定などできやしない。
社会的に見れば、概ねその傾向にあることは事実なのだと認めざるを得ないし、
悲しいかな、図らずも我々は、そういう社会を作って来たということだ。
「立場主義」や「魂の植民地化」の問題は、なにも日本だけの話ではなく、産業革命後の先進国と言われる国々の、世界的傾向じゃないかとも思えるのだが、
しかし、日本は、特にこの傾向が強いように思われる。
日本人は長い間、つい最近まで、封建社会の中で生きて来た民族だし、現在の民主主義も、日本人自らが歴史に揉まれ苦労して築き上げたものではない。
その意味ではまだ、人々の中に民主主義が浸透してはいないのかもしれないし、基本的に、藩や組織が好きな民族なのかもしれない。
その気質が、一時期でも、日本を世界第二の経済大国にした原動力だったのかもしれない。
また、「立場主義」「魂の植民地化」の問題は、サラリーマンだけの話ではない。
私のように、何処の組織にも属していないものでも、現代日本という社会、枠組みから外れては生きてはいけない。
「立場の生理学」から逃れることは出来ないし、大人になるにつれて、生きるために、或は自分を守るために、沢山の仮面を身につけて来たに違いないからだ。
原発の問題はエネルギーの問題ではない。
原発がなくとも電気は十分まかなえることや、電力会社が原発を動かしたい理由はただ1つ、会社の経営上の問題(原発を止めたら資産が減り困るのだ)であることは、すでに周知の事実となった。
頓挫したまま展望さえない六ヶ所村核燃料サイクル計画も、廃止にならず継続になったのは、それに可能性や希望があるからではなく、
廃止にしたら、動燃という組織が潰れ、そこの連中や組織から、票や政治資金をもらっている政治家が困るからだ。
企業が倒産することがあるのは当たり前のことだが、電力関係の会社は潰れないし潰さない。
国の将来に関わることより、一つの組織の利害の方が大切らしい。
どう考えてもおかしな話だが、まさに立場の生理学だ。
世界が初めて体験するほどの大惨事であるフクシマ第一原発事故は、福島や日本中、いや世界中に、甚大な被害を及ぼし、今だ多くの人たちに、酷い暮らしを強要し続けているが、
同時に、日本の社会の構造を、これまで権力者たちが表に出さなかった原発や原子力村のこと、電力会社に囲われたマスコミたち、その他様々な現実を、露呈させ見せてくれた。
如何にわれわれが物質的な豊かさに埋没し、目の前のことしか考えない暮らしをやって来たことかということも。
もう一度言おう。
原発の問題は、エネルギーの問題ではない。
人が人として健やかに暮らす権利の問題であり、民が民を回復し、社会をどう再構築するかの問題に他ならず、私が「私」という立場や仮面を脱ぎ捨て、私をどう回復するか?
私がどう生きるのか?の問題なのである。
そんなことを考えていると、原発をなくすなんて、途方もなく遠い話のように思える。
しかし、だからといって諦めるわけにはいかない。
わたしが生きているのを諦めるわけにいかないのと同じように。
生きている限り、自由でありたいと願う。
「自由」とは、自らに由ると書く。
仕事や生きることの根拠が、自分の裡の魂でありたい。
自分という「生命」が弾け、歓こぶことをやりたいと思う。
そう願って生きることが、原発反対運動なのだ。
勿論、私の得意なやり方で、原発反対運動の一端は担っていきたいが、
その具体的な方策は模索中だ。
ともあれ、私が死ぬまでには、
止めたい。
ところで、「日本人というのはどういう民族なのか?」という問いについて、
考えれば考えるほど、茫々と深い問題なのだと気付くわけで、
私の狭い見聞と小さな頭では、明解な答えなど出るはずもなく、
途中経過というか、問題提起くらいにしかならなかったが、
しかし、問いそのものが答えというか、考えること自体に意味があると思われるわけで、
これからも、生きている限り、この問いと付き合っていくつもりである。
また、仮面とは何か?、仮面を脱ぎ捨てるとはどういうことか?、
についても考えてみたが、長くなるので改めてまた。
↑以上、転載おわり
さて、上に載せた、満さん作の『さよなら原発』ステッカーからできた旗。
こんな旗が、町の家々の玄関や、自転車の後ろや、マラソンや散歩を楽しむ方々の背中やお腹で揺れてたら……う~ん、楽しすぎる!
ステッカーは、以下のところで入手できます。
このステッカーを貼った車だらけになったら……みんなが毎日、この『さよなら原発』の言葉を目にするようになったら……うっとりと妄想中。
↓以下、『さよなら原発』ステッカー購入方法の紹介です。
「さよなら原発」のステッカーができました
私たちの脱原発の思いを、版画家のゴロスケさんが形にしてくれました。
ハガキ大と写真L版くらいの2枚セットで500円ですが、購入数と送料によって、料金は下記の4通りとなります。
1~19セット 500円×セット数+送料80円
20セット 450円×20セット+送料80円
21~40セット 450円×セット数+送料160円
41セット~ 450円×セット数+送料350円
収益は福島の子どもを守る活動にカンパします。
郵便振込用紙に、名前、住所、電話番号、必要セット数、送料合計金額を明記の上、下記までお振込ください。
郵便振替 01770-5-141837
加入者名 「さよなら原発」ステッカーの会
ご入金確認後の発送となります。
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お急ぎのかたは事前にご相談ください。送料が若干アップします。
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Email: sayonaragenpatu@gmail.com
ちなみに、私たち、アヤシイものではございません。
たくさんの方々の協力を得ながら、山口・大分在住の女性3人で取り組んでおります。
そのうちの一人、広報担当(?)の私はこちらのブログを主に書いております。