引き続き、焼き物の真贋について、お話します。
贋作で、大きな社会問題に成った事件が、過去に何度かあります。
特に、「永仁の壷」事件と、「佐野乾山」事件です。
両方とも、昭和30年代後半に起こった事件で、陶磁器関係者は勿論、各大手新聞社を巻き込み、
大論争を、繰り広げた事件でも、有ります。
・ 「永仁の壷」事件は、それなりの決着がついていますが、「佐野乾山」事件は、その真贋が、大よそ
の決着を見ましたが、今だ納得しない方も多く、完全に贋物とは、成っておりません。
以下その二つの事件の、概要をお話します。
(尚、この問題の記事は、多数インターネットで、取上げられていますので、より詳細を知りたい方は、
そちらも、参考にして下さい。)
1) 「永仁の壷」事件
① 昭和34年(1959年)に、文化財保護委員会に、文部省の技官である、小山富士夫氏から、
永仁2年(1294年)の記年銘の入った、鎌倉時代の、古瀬戸の壷が、重要文化財に推挙されます。
(正式名は、瀬戸飴釉永仁銘瓶子と言います。)
推薦を受けた、文化財保護委員会は、これを認め、重要文化財に指定します。
委員会のメンバーは、当然、陶磁器の専門家であり、しっかり鑑定が出来る方々です。
② この壷は、加藤唐九郎が、昭和12年に、いわゆる、「写し」として、古い作品を模倣して
作られた物との事です。(3個作たそうです)
勿論、贋作を作ろうと、意図的に製作したもでない様です。
戦後、この壷は骨董として世に出て来ます。
唐九郎は、自ら編集した「陶器辞典」のグラビアに、この壺を「永仁年間の壺」として紹介します。
これは明らかな、意図的な、詐欺行為となります。
③ この壺が、重要文化財に指定された時、技官の小山富士夫は、社団法人陶磁協会の理事にあり、
唐九郎も理事で、専務理事の佐藤進三は、「永仁の壺」の売買に関係した様です。
広田理事は美術商で、骨董店「壺中壺」の店主など、錚々たる美術商達が、理事に成っています。
それ故、「永仁の壺」事件は、唐九郎の一人芝居と言うより、陶磁協会を舞台に、利害関係者に
より、「仕組まれた」という見方もあります。
④ 翌昭和35年、各方面から、記銘の記し方が違う、釉の感じが違う、作りが粗雑であるなど、
疑惑が指摘される様に成ります。
昭和36年の文化財保護委員会に於いて、科学的決着を、図る事になり、東京国立文化財研究所の
江本義理技官による、蛍光 X 線分析装置で、鎌倉時代から、確実に伝来している古瀬戸と、
比較分析しました。
結果は、釉薬に含まれる、「ルビジュウム」と「ストロンチウム」の比率が大幅に違い、
鎌倉時代の物ではないと、結論ずけられます。
同時に、唐九郎も、この壷は、自分が作った事を認め、同じ年に、重要文化財指定取消と成ります。
⑤ 唐九郎は、パリに逃亡しますが、帰国後、全ての、公的職務を辞退します。
(日本陶磁器協会理事、日本工芸会理事、日本伝統工芸展、朝日陶芸展審査委員など)
⑥ 唐九郎も小山も、一時失脚しますが、陶磁界で非常に早く、復権しています。
唐九郎は、作陶に専念し、以後も優れた作品を、多く発表しています。むしろこの事件で、名声を
高めたとも、いえます。
小山も、中国陶器の、研究と著作と、作陶に励んでいます。
以下次回に続きます。
「永仁の壷」事件
贋作で、大きな社会問題に成った事件が、過去に何度かあります。
特に、「永仁の壷」事件と、「佐野乾山」事件です。
両方とも、昭和30年代後半に起こった事件で、陶磁器関係者は勿論、各大手新聞社を巻き込み、
大論争を、繰り広げた事件でも、有ります。
・ 「永仁の壷」事件は、それなりの決着がついていますが、「佐野乾山」事件は、その真贋が、大よそ
の決着を見ましたが、今だ納得しない方も多く、完全に贋物とは、成っておりません。
以下その二つの事件の、概要をお話します。
(尚、この問題の記事は、多数インターネットで、取上げられていますので、より詳細を知りたい方は、
そちらも、参考にして下さい。)
1) 「永仁の壷」事件
① 昭和34年(1959年)に、文化財保護委員会に、文部省の技官である、小山富士夫氏から、
永仁2年(1294年)の記年銘の入った、鎌倉時代の、古瀬戸の壷が、重要文化財に推挙されます。
(正式名は、瀬戸飴釉永仁銘瓶子と言います。)
推薦を受けた、文化財保護委員会は、これを認め、重要文化財に指定します。
委員会のメンバーは、当然、陶磁器の専門家であり、しっかり鑑定が出来る方々です。
② この壷は、加藤唐九郎が、昭和12年に、いわゆる、「写し」として、古い作品を模倣して
作られた物との事です。(3個作たそうです)
勿論、贋作を作ろうと、意図的に製作したもでない様です。
戦後、この壷は骨董として世に出て来ます。
唐九郎は、自ら編集した「陶器辞典」のグラビアに、この壺を「永仁年間の壺」として紹介します。
これは明らかな、意図的な、詐欺行為となります。
③ この壺が、重要文化財に指定された時、技官の小山富士夫は、社団法人陶磁協会の理事にあり、
唐九郎も理事で、専務理事の佐藤進三は、「永仁の壺」の売買に関係した様です。
広田理事は美術商で、骨董店「壺中壺」の店主など、錚々たる美術商達が、理事に成っています。
それ故、「永仁の壺」事件は、唐九郎の一人芝居と言うより、陶磁協会を舞台に、利害関係者に
より、「仕組まれた」という見方もあります。
④ 翌昭和35年、各方面から、記銘の記し方が違う、釉の感じが違う、作りが粗雑であるなど、
疑惑が指摘される様に成ります。
昭和36年の文化財保護委員会に於いて、科学的決着を、図る事になり、東京国立文化財研究所の
江本義理技官による、蛍光 X 線分析装置で、鎌倉時代から、確実に伝来している古瀬戸と、
比較分析しました。
結果は、釉薬に含まれる、「ルビジュウム」と「ストロンチウム」の比率が大幅に違い、
鎌倉時代の物ではないと、結論ずけられます。
同時に、唐九郎も、この壷は、自分が作った事を認め、同じ年に、重要文化財指定取消と成ります。
⑤ 唐九郎は、パリに逃亡しますが、帰国後、全ての、公的職務を辞退します。
(日本陶磁器協会理事、日本工芸会理事、日本伝統工芸展、朝日陶芸展審査委員など)
⑥ 唐九郎も小山も、一時失脚しますが、陶磁界で非常に早く、復権しています。
唐九郎は、作陶に専念し、以後も優れた作品を、多く発表しています。むしろこの事件で、名声を
高めたとも、いえます。
小山も、中国陶器の、研究と著作と、作陶に励んでいます。
以下次回に続きます。
「永仁の壷」事件