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ヤン・ヨンヒ監督『Dear Pyongyang ディア・ピョンヤン』

2013-11-07 05:05:00 | ノンジャンル
 ヤン・ヨンヒ監督・脚本の'06年作品『Dear Pyongyang ディア・ピョンヤン』をWOWOWシネマで見ました。
 「1910年、朝鮮半島は日本の統治下に置かれた。すべての朝鮮人は『皇国臣民』とされ、名前さえも奪われた。1945年、第二次世界大戦が終結、朝鮮半島は解放された。北には旧ソ連、南にはアメリカが介入することとなる。1948年、朝鮮半島の南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国のふたつの政府が生まれ、民族分断の悲劇が始まる。1950年から3年に及ぶ朝鮮戦争を経て、南北の対立が激化する。その対立は今も終わっていない。本国の分断は日本で暮らすコリアン達『在日』にも大きな影響を与えた。在日の人権獲得運動も強い政治色を帯び、二極化していく。在日は約99%以上が『韓国出身』であるが、政治的背景により、ふたつの国籍、「韓国籍」といわゆる「朝鮮籍」にわかれる。そのなかで北を支持する在日本朝鮮人総連合会『朝鮮総連』と南を支持する在日本大韓民国団『民団』に別れた。同じ朝鮮半島『南』出身者同士のイデオロギーの対立が激化するなか、在日は生活の貧困と同時に日本社会での激しい民族差別に苦しんでいた。当時韓国の政治経済状況は不安定であり、一方で旧ソ連の影響下経済的成長がみられた北朝鮮に多くの在日が希望の光を求めた。1959年から20数年間の『帰国事業』で9万人以上の『在日』が北朝鮮に渡る。『民族大移動』と美化されたマスコミの報道と、北朝鮮を『地上の楽園』とした啓蒙に、多くの『南』出身の在日が希望を託し、『北』へ渡った。多くの『帰国者』とその家族が日本と北朝鮮の国交樹立、民族統一を信じたが、未だ実現されていない。『帰国者』と呼ばれる彼らは、一度も訪れたことのない未知の国である北朝鮮に渡った人たちである。北へ渡った『在日』たちが日本に帰ることは、今も許されないままである。私もあの場所で『北』へ行く家族を見送ったひとりである」の字幕。
 「2004年 正月」の字幕。娘からお年玉をもらう父は、娘の結婚相手は誰でもいいと言っておきながら、アメリカ人と日本人だけはダメで、朝鮮人ならいいと言い、その後、「大人に育ったんだから、それで充分」とも言います。「大阪市 生野区」の字幕。住民の4分の1が在日コリアンであるこの地区で私は生まれました。かつては在日の間で様々な対立があったこの地も、今では平和な町となってきています。今77歳の父は80歳になったら「よく生きた」と誉めてほしいと言い、骨は平壌に埋めてほしいと言います。父は済州島の生まれで北を祖国だと考え、朝鮮総連の大阪本部の幹部として活動し、母はそんな父を助けて働き、息子3人を「帰国事業」で北朝鮮に送りました。その時、末っ子の娘であった私は5歳で、遠くに行ってしまう兄たちのことを考えて新潟港で泣きました。父にインタビューする私。父は15、6歳の時に金日成を知り、周囲の人々が皆マルクス主義の研究をしていて、その頃は6割以上の在日が総連を支持していたと語ります。夫婦の馴れ初めについて父に聞く私。'71年に『帰国』した兄たち。その前に行った最初で最後になった家族旅行。私の両親は夫婦ともに総連で積極的に活動し、私も朝鮮学校で活動家の娘として期待されて育ちますが、兄が残していったビートルズのレコードや日本の文化にも親しんでいました。私は平壌を知りたいと思い、83年に学生代表として最初に平壌を訪れますが、その時の兄たちとの「面会」に違和感を感じます。その時私は泣くばかりで、兄たちは皆笑っていました。その後、何度も平壌を訪れていくうちに、私は違和感の原因が分かってくるようになります。その後、母は平壌での息子たちの生活ぶりを知り、30年に渡り仕送りをし、2001年に家族皆で集まろうと、両親と私は平壌に向かいます。平壌での兄たちの家族との交流。2004年、それまで朝鮮籍を捨てることを絶対に許さなかった父は、私にそれを許します。そして2005年、父は重病となり、母の献身的な看病を受け、「この映画は両親に捧げる」という字幕で、映画は終わります。

 北の理想に自分の全てを賭けて生きて来た父と、それを支えてきた母、そして自分の道を進み始めた「私」が、家族の絆によって理解していく様が、見ていて感動的でした。『かぞくのくに』の序章のような映画でもありました。P.S. 明日から旅行に行くため、こちらの更新を2日ほど休みます。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto