また昨日の続きです
・「私たちは1957年7月、特異な状況で出会った。その夏、ソヴィエト連邦で開かれた青年と学生のための世界大会のために、(中略)一行はバルティカという名の大型客船で(中略)レニングラードに向かった。(中略)同室の男を見て茫然とした。剃髪の背の高い男、彼の名はクリス・マルケルといった。彼の個性はすぐに私をいらいらさせた。あまり温かみがなく、大言壮語で、わけのわからない難解な言葉をもてあそびながら、歯をくいしばって話す」
・「それから数ヵ月後、私はドキュメンタリー映画作家フランソワ・レシャンバックから彼の長編映画『アメリカの裏窓』の音楽を書いてほしいと依頼された。彼は北米から驚異的な内容の六時間のラッシュを持ち帰っていたが、それを形にできずにいた。(中略)熟練の編集技師の助力を得てもなお、骨格を見つけられずにいたのだ。確信の持てないまま数カ月を過ごしたフランソワは、映画作家、写真家であり、編集技師でもあるある人物に救われたのだ。私の目の前に再び現れたのは? あの船室の同居人だった。またしても悪夢だ、と私はおののいた。しかし、仕事場のクリスは別人だった」
・「それはジャック・ドゥミとともに始まった。彼との出会いは、人間としても職業上でも私の人生のなかで最も美しいものだったが、それについてはあとで語ろう。私は彼の妻アニエス・ヴァルダと知り合いになった。彼女は1954年に『ラ・ポワント・クールト La Pointe courte』でデビューした映画作家であり、いまや“ヌーヴェル・ヴァーグの祖母”と呼ばれている」
・「レシャンバック---マルケル---ドゥミ---ヴァルダ、この鎖はジャン=リュック・ゴダールなしには完結しない」
・「皮肉なことに、歌と色彩の映画というドゥミの描いた夢を、私は彼に先がけてゴダールの『女は女である』において実現させた」
・「それから数ヵ月後、ゴダールが突然私の家にやってきた。『見てくれ、僕の次の映画の台本だ!』彼はズボンの後ろポケットから丸めた方眼紙を取りだした。『タイトルは“女と男のいる舗道 Vivre sa vie”。よかったらテーマひとつと十一のヴァリエーションを作曲してくれないか』私は曲を作り、それを録音した。しかしゴダールは、ミキシングの際に最初のヴァリエーションの頭の八小節だけを使った……そしてその八小節を映画全編で繰り返し使ったのだ」
・「私はヌーヴェル・ヴァーグの旗手たちとも、それとは対照的な人々とも同時に一緒に仕事をした」
・「ヌーヴェル・ヴァーグへの私の最も隠れた貢献は1959年のものである。その当時とても親しくしていた友人で作詞家=作曲家=歌手のジャン・コンスタンタンが、フランソワ・トリュフォーから彼の初めての長編映画『大人は判ってくれない Les Quatre Cents Coups』のためのオリジナル・サウンドトラックを委嘱された。(中略)ジャンは(中略)不安を感じてパニックに陥り、私に手を貸してくれと頼んできたのだ。(中略)トリュフォーにはまったく気づかれなかったはずだ」
・「しかし(ヌーヴェル・ヴァーグの)波が引き潮になると、倦怠感が私を襲いはじめた。編曲者時代に人生で初めて味わったときと同じパターンである。私自身を再生させる必要があった」
・「初めてドゥミと出会ったとき、アニエスも一緒だった」
・「音楽についてドゥミは細かく指示を出した」
・「『天使の入り江』の編集では、私にはなんのアイディアも浮かんでこなかった。ガソリン切れ。(中略)しかしジャックが解決策を見つけてくれた。『スタジオに行こう! きみのためにギャンブルのシーンを映すから、きみはピアノに座って映像に反応すればいい!』まるで奇蹟のように、私は停滞から抜け出すことができた」
・「年月とともに、ジャックと私の友情は本当の兄弟のように変わっていった」
・「1962年1月、ジャックの女友だちがスイスのヴェルビエにある山小屋を1ヵ月間、提供してくれた。私たちはそこで『雨傘』の音楽を完成させると同時に、ウインター・スポーツにふけった」
・「(『雨傘』のプロデューサーを探すために)そんなわけで、私たちは手当たり次第に活躍中のプロデューサーにアタックを開始した」
・「ジャックは思いはじめていた------『雨傘』もシェルブールの霧雨を見ることなく、彼が空想し、夢見ながら実現しなかった映画の墓場に葬られるのではないかと。そのとき、ピエール・ラザレフというマスコミ界の大物に接触してみたらという、少々型破りなアイディアが浮かんだ。(中略)ドゥミは彼に電報を送った。驚くべきことに、翌朝起きぬけにラザレフは電話をよこし、私たちを社長室に呼び寄せた。(中略)『とても親しい女友だちが映画の世界に入ったばかりだ。彼女があなた方の映画の製作に乗りだせますよ』」(また明日へ続きます)
・「私たちは1957年7月、特異な状況で出会った。その夏、ソヴィエト連邦で開かれた青年と学生のための世界大会のために、(中略)一行はバルティカという名の大型客船で(中略)レニングラードに向かった。(中略)同室の男を見て茫然とした。剃髪の背の高い男、彼の名はクリス・マルケルといった。彼の個性はすぐに私をいらいらさせた。あまり温かみがなく、大言壮語で、わけのわからない難解な言葉をもてあそびながら、歯をくいしばって話す」
・「それから数ヵ月後、私はドキュメンタリー映画作家フランソワ・レシャンバックから彼の長編映画『アメリカの裏窓』の音楽を書いてほしいと依頼された。彼は北米から驚異的な内容の六時間のラッシュを持ち帰っていたが、それを形にできずにいた。(中略)熟練の編集技師の助力を得てもなお、骨格を見つけられずにいたのだ。確信の持てないまま数カ月を過ごしたフランソワは、映画作家、写真家であり、編集技師でもあるある人物に救われたのだ。私の目の前に再び現れたのは? あの船室の同居人だった。またしても悪夢だ、と私はおののいた。しかし、仕事場のクリスは別人だった」
・「それはジャック・ドゥミとともに始まった。彼との出会いは、人間としても職業上でも私の人生のなかで最も美しいものだったが、それについてはあとで語ろう。私は彼の妻アニエス・ヴァルダと知り合いになった。彼女は1954年に『ラ・ポワント・クールト La Pointe courte』でデビューした映画作家であり、いまや“ヌーヴェル・ヴァーグの祖母”と呼ばれている」
・「レシャンバック---マルケル---ドゥミ---ヴァルダ、この鎖はジャン=リュック・ゴダールなしには完結しない」
・「皮肉なことに、歌と色彩の映画というドゥミの描いた夢を、私は彼に先がけてゴダールの『女は女である』において実現させた」
・「それから数ヵ月後、ゴダールが突然私の家にやってきた。『見てくれ、僕の次の映画の台本だ!』彼はズボンの後ろポケットから丸めた方眼紙を取りだした。『タイトルは“女と男のいる舗道 Vivre sa vie”。よかったらテーマひとつと十一のヴァリエーションを作曲してくれないか』私は曲を作り、それを録音した。しかしゴダールは、ミキシングの際に最初のヴァリエーションの頭の八小節だけを使った……そしてその八小節を映画全編で繰り返し使ったのだ」
・「私はヌーヴェル・ヴァーグの旗手たちとも、それとは対照的な人々とも同時に一緒に仕事をした」
・「ヌーヴェル・ヴァーグへの私の最も隠れた貢献は1959年のものである。その当時とても親しくしていた友人で作詞家=作曲家=歌手のジャン・コンスタンタンが、フランソワ・トリュフォーから彼の初めての長編映画『大人は判ってくれない Les Quatre Cents Coups』のためのオリジナル・サウンドトラックを委嘱された。(中略)ジャンは(中略)不安を感じてパニックに陥り、私に手を貸してくれと頼んできたのだ。(中略)トリュフォーにはまったく気づかれなかったはずだ」
・「しかし(ヌーヴェル・ヴァーグの)波が引き潮になると、倦怠感が私を襲いはじめた。編曲者時代に人生で初めて味わったときと同じパターンである。私自身を再生させる必要があった」
・「初めてドゥミと出会ったとき、アニエスも一緒だった」
・「音楽についてドゥミは細かく指示を出した」
・「『天使の入り江』の編集では、私にはなんのアイディアも浮かんでこなかった。ガソリン切れ。(中略)しかしジャックが解決策を見つけてくれた。『スタジオに行こう! きみのためにギャンブルのシーンを映すから、きみはピアノに座って映像に反応すればいい!』まるで奇蹟のように、私は停滞から抜け出すことができた」
・「年月とともに、ジャックと私の友情は本当の兄弟のように変わっていった」
・「1962年1月、ジャックの女友だちがスイスのヴェルビエにある山小屋を1ヵ月間、提供してくれた。私たちはそこで『雨傘』の音楽を完成させると同時に、ウインター・スポーツにふけった」
・「(『雨傘』のプロデューサーを探すために)そんなわけで、私たちは手当たり次第に活躍中のプロデューサーにアタックを開始した」
・「ジャックは思いはじめていた------『雨傘』もシェルブールの霧雨を見ることなく、彼が空想し、夢見ながら実現しなかった映画の墓場に葬られるのではないかと。そのとき、ピエール・ラザレフというマスコミ界の大物に接触してみたらという、少々型破りなアイディアが浮かんだ。(中略)ドゥミは彼に電報を送った。驚くべきことに、翌朝起きぬけにラザレフは電話をよこし、私たちを社長室に呼び寄せた。(中略)『とても親しい女友だちが映画の世界に入ったばかりだ。彼女があなた方の映画の製作に乗りだせますよ』」(また明日へ続きます)