また昨日の続きです。
・「1991年の春、ロシュフォール市は『ロシュフォールの恋人たち』公開25周年を記念して祭典を主催した。ジャックを失い、一部が欠けたようだった私たちの仲間は、彼の過去をたどるこの旅に強い思いを抱いて参加した。カトリーヌ、アニエス、マグ・ボダール、ベルナール・エヴァン、ジャックとアニエスの息子マチュー。“ジャック=ドゥミ通り”の命名式で、私は式辞を求められた。そこで述べたことを、今日でもさらに強く感じている。『ジャックに通りや街路や大通りの名前を捧げることはできるでしょう。しかし私の心のなかでは、彼はずっと前から幹線道路だったのです』」
・「1967年5月、ロサンゼルス。クリスティーヌと二人の息子とともに私たち一家はまずタワー・ロードに、次いでヴァリーヒルズを眼下に望むオリオール・ドライヴの夢のような邸宅に居をかまえた」
・「まもなく、新たに知りあったプロデューサーからある依頼を受けた。ドキュメンタリーのために、フランス語のほうを好む数人の人物にインタビューしてほしいという。(中略)そして誰よりも、あの偉大なジャン・ルノワールに会うことにもなったのだ。(中略)私たちは、彼がそのときすでに30年ちかく住んでいたロサンゼルスについても大いに話し合った。あなたの第一印象は? と彼は質問を返してきた。(中略)私が気に入ったのは家と家のあいだに塀がないことだった」
・「アメリカでは、他の作曲家たちが私を競争相手ではなく、兄弟として迎えてくれたのだ」
・「(『華麗なる賭け The Thomas Crown Affair』の試写では信じられないことに、そのフィルムは全部で5時間もあった。(中略)アシュビーは熱い賛意を爆発させた。「すばらしい。音楽が映画をどのように編集するか教えてくれるなんて!」
・「バーグマン夫妻との同胞のような絆は強くなっていき、ジュイソンやポラックやスタージェスと向きあって興奮する機会が増えたが、私は自分の裡に広がる圧迫感に締めつけられるようになった」
・「『華麗なる賭け』の成功によって、仕事の依頼が滝のように流れこんだ。(中略)『仕事が多すぎる。どうしたらやり遂げられるだろう?』私は眠れなくなった」
・「その完全な沈滞のなかで私はモーリス・シュバリエの主治医だったミシェル・フーケの顔を思い出した。(中略)『今すぐフランスに帰ってきなさい(中略)』その後、私たちがふたたび4人そろってロサンゼルスに住むことはなかった」
・「18日目に、1時間という短さではあったが、つかの間の眠りが戻ってきた」
・「ロサンゼルスに滞在するのは好きだが、そこで生活はできないということがよく分かった」
・「そして、私の心に刻みこまれていたのはエディット・ピアフの思い出だった。レコードの企画のために彼女と最後に会ったとき、私には気がかりな印象が残った。それは1962年頃、彼女の死の数ヵ月前で、その企画は日の目を見ることはなかった。病気で垂迹していたが、ラ・モーム(中略)は激しい口調で私に言った。『アメリカに行くとしても、そこに住んではだめよ。そうしたら、あなたの才能はなくなるわ』一年半アメリカで暮らしてみて、エディットの指摘の正しさが理解できた。ロサンゼルスでは、人はじわじわと衰弱し、次第に自分の個性がなくなっていくのに気づく。最初に到着したときには、アイディアと熱意にあふれていた。それがアメリカ社会に、金と利益偏重の精神性に接しているうちに、世間の人と同じになり、標準化されてしまう」
・「飛行機内で作曲できるということもあって、これは私にはまったく都合よく機能した」
・「こうした私の新しい生活は、とりあえず私自身と家族にとって最もよいものだった。その意味で、1970年は客観的にも再出発の年になった」
・「1962年の夏、ヌガロの成功はたしかに楽しかったが、それは私たちの成功というよりは、まず彼のものだった」
・「私の即興性はアラゴンを驚かせたにちがいない。以来彼と私の間には、ある共謀関係が結ばれた」
・「『シェルブールの雨傘』の撮影に入る前、(中略)私の息子エルヴェとアニエス・ヴァルダの娘のロザリーは同い年で、とても仲がよかった。それがジャックにこう言わせる。『ねえ、第三部の最後、ガソリン・スタンドのシーンで、ギイとマドレーヌの息子をエルヴェがやるというのは面白いんじゃないか。そしてロザリーには彼の異母姉妹、ギイとジュヌヴィエーヴの娘をやらせよう。きみは同意してくれるかい?』どうして反対できよう?」
・「このときから、私は16分音符ひとつひとつの存在理由を気にする必要はないと思った」
・「私の唯一の信条も最終的には同じである。『なにがあっても、高い声で歌えば心配ないさ!』」
ほかにも興味深いエピソード満載です。ルグランファン必携の書です。
・「1991年の春、ロシュフォール市は『ロシュフォールの恋人たち』公開25周年を記念して祭典を主催した。ジャックを失い、一部が欠けたようだった私たちの仲間は、彼の過去をたどるこの旅に強い思いを抱いて参加した。カトリーヌ、アニエス、マグ・ボダール、ベルナール・エヴァン、ジャックとアニエスの息子マチュー。“ジャック=ドゥミ通り”の命名式で、私は式辞を求められた。そこで述べたことを、今日でもさらに強く感じている。『ジャックに通りや街路や大通りの名前を捧げることはできるでしょう。しかし私の心のなかでは、彼はずっと前から幹線道路だったのです』」
・「1967年5月、ロサンゼルス。クリスティーヌと二人の息子とともに私たち一家はまずタワー・ロードに、次いでヴァリーヒルズを眼下に望むオリオール・ドライヴの夢のような邸宅に居をかまえた」
・「まもなく、新たに知りあったプロデューサーからある依頼を受けた。ドキュメンタリーのために、フランス語のほうを好む数人の人物にインタビューしてほしいという。(中略)そして誰よりも、あの偉大なジャン・ルノワールに会うことにもなったのだ。(中略)私たちは、彼がそのときすでに30年ちかく住んでいたロサンゼルスについても大いに話し合った。あなたの第一印象は? と彼は質問を返してきた。(中略)私が気に入ったのは家と家のあいだに塀がないことだった」
・「アメリカでは、他の作曲家たちが私を競争相手ではなく、兄弟として迎えてくれたのだ」
・「(『華麗なる賭け The Thomas Crown Affair』の試写では信じられないことに、そのフィルムは全部で5時間もあった。(中略)アシュビーは熱い賛意を爆発させた。「すばらしい。音楽が映画をどのように編集するか教えてくれるなんて!」
・「バーグマン夫妻との同胞のような絆は強くなっていき、ジュイソンやポラックやスタージェスと向きあって興奮する機会が増えたが、私は自分の裡に広がる圧迫感に締めつけられるようになった」
・「『華麗なる賭け』の成功によって、仕事の依頼が滝のように流れこんだ。(中略)『仕事が多すぎる。どうしたらやり遂げられるだろう?』私は眠れなくなった」
・「その完全な沈滞のなかで私はモーリス・シュバリエの主治医だったミシェル・フーケの顔を思い出した。(中略)『今すぐフランスに帰ってきなさい(中略)』その後、私たちがふたたび4人そろってロサンゼルスに住むことはなかった」
・「18日目に、1時間という短さではあったが、つかの間の眠りが戻ってきた」
・「ロサンゼルスに滞在するのは好きだが、そこで生活はできないということがよく分かった」
・「そして、私の心に刻みこまれていたのはエディット・ピアフの思い出だった。レコードの企画のために彼女と最後に会ったとき、私には気がかりな印象が残った。それは1962年頃、彼女の死の数ヵ月前で、その企画は日の目を見ることはなかった。病気で垂迹していたが、ラ・モーム(中略)は激しい口調で私に言った。『アメリカに行くとしても、そこに住んではだめよ。そうしたら、あなたの才能はなくなるわ』一年半アメリカで暮らしてみて、エディットの指摘の正しさが理解できた。ロサンゼルスでは、人はじわじわと衰弱し、次第に自分の個性がなくなっていくのに気づく。最初に到着したときには、アイディアと熱意にあふれていた。それがアメリカ社会に、金と利益偏重の精神性に接しているうちに、世間の人と同じになり、標準化されてしまう」
・「飛行機内で作曲できるということもあって、これは私にはまったく都合よく機能した」
・「こうした私の新しい生活は、とりあえず私自身と家族にとって最もよいものだった。その意味で、1970年は客観的にも再出発の年になった」
・「1962年の夏、ヌガロの成功はたしかに楽しかったが、それは私たちの成功というよりは、まず彼のものだった」
・「私の即興性はアラゴンを驚かせたにちがいない。以来彼と私の間には、ある共謀関係が結ばれた」
・「『シェルブールの雨傘』の撮影に入る前、(中略)私の息子エルヴェとアニエス・ヴァルダの娘のロザリーは同い年で、とても仲がよかった。それがジャックにこう言わせる。『ねえ、第三部の最後、ガソリン・スタンドのシーンで、ギイとマドレーヌの息子をエルヴェがやるというのは面白いんじゃないか。そしてロザリーには彼の異母姉妹、ギイとジュヌヴィエーヴの娘をやらせよう。きみは同意してくれるかい?』どうして反対できよう?」
・「このときから、私は16分音符ひとつひとつの存在理由を気にする必要はないと思った」
・「私の唯一の信条も最終的には同じである。『なにがあっても、高い声で歌えば心配ないさ!』」
ほかにも興味深いエピソード満載です。ルグランファン必携の書です。