また昨日の続きです。
・「レコーディングは二つに分けて行われた。まずオーケストラをユーロパ・ソノール・スタジオで録り、次いで歌をポスト・パリジャン・スタジオで録った。それは前代未聞の美しい時間だった」
・「したがって『雨傘』はパリで行われた最初の4トラック録音となった」
・「このときの状況は皮肉なことになっていた。というのは、私はヌーヴェル・ヴァーグから逃れるためにフランスを離れ(アメリカに来)たのに、この亡命の地カリフォルニアで(ジャックとアニエスと会い)ふたたびヌーヴェル・ヴァーグに捕らえられたからだ」
・「ジャックは長年夢見たミュージカル映画を実現させることができるはずだ。しかしここでドゥミが没頭したのは『モデル・ショップ Model Shop』という、ヴェトナムへ出征することになるアメリカ青年のある種のカウントダウンをリアルに内省的に記録した映画だった」
・「『ロバと王女』は1970年のクリスマス・シーズンに公開され、200万人以上の観客動員を記録した。これはドゥミにとって商業的に最も成功した映画であるとともに、成功に別れを告げる映画となった」
・「しかしながら、彼(ドゥミ)は『雨傘』に匹敵する音楽つきの野心的な作品の企画をずっと以前からあたためていた。(中略)私は真っ向から反論した。『ジャック、きみはリアリズムの映画作家ではないし、戦闘的な映画作家でもないよ。きみは人の心を魅了する詩人なんだ。そして詩は政治的行動を超越するべきだ』(中略)『昨日まできみは兄弟だったのに、今日はぼくは見捨てようとしている!』彼は思い違いをしていた。(中略)その頃、私は『おもいでの夏 Summer of ‘42』の音楽で二度目のアカデミー賞を受賞したばかりで、バーブラ・ストライサンドやクリント・イーストウッド、そしてやがてオーソン・ウェルズと仕事をすることになっていた。ドゥミはあえて口には出さなかったが、私がハリウッドの野蛮な資本主義に身を売ったと思っていたにちがいない」
・「『ロバと王女』と『パーキング Parking』では、昔からの仲間だったセット・デザイナー、ベルナール・エヴァンは私とおなじ誠実さでこう反論した。『この予算できみが頭に描いている夢を実現させるのは、ぼくには無理だ』」
・「『エディット』は数年の間、冥府をさまよったのち、1982年に『都会のひと部屋 Une chamble en ville』となって日の目を見た。(中略)その映画を観ても私の意見は変わらなかった。残念だった」
・「しかしモスクワに戻る飛行機の上で、私たちはより野心的なアイディアを思いついた。『アンナ・カレーニナ Anna Karenine』のミュージカル版をロシアで撮影するフランスの撮影隊の話だ。ジャックはこの映画の美しい定義を私にささやいた。『これは堕ちていく情熱の物語になるだろう』(中略)モスクワでは映画担当大臣が熱狂し、ボリショイ・バレエ団を使ってほしいと申し出てくれた」
・「すべてがうまく運んでいるようにみえた。しかし、ジョルジュ・シュイコというパリの共同製作者はフランス側の分担金、すなわち全予算の10パーセントを調達することができなかった。5年間延期された末に、この“アヌーシュカ”のアヴァンチュールはひとりでに消滅してしまう……」
・「その後、1975年頃に新しいテーマが生まれ、形をなしてきたように見えた。(中略)しかし資金調達が叶わずに、私たちの『フォリー』は文字通りのパサジェール(通り過ぎる人)になってしまった」
・「1978年の数ヵ月間は『ベルサイユのばら』がドゥミのこころを占めていた。皮肉にも、彼の引き出しは自分の企画で溢れんばかりなのに、やって来るのはお膳立てされた映画の話ばかりだった」
・「1982年の『都会のひと部屋』のあと、ドゥミに残された映画は2本だった。1984年、のちに『パーキング』と改題される『ムッシュ・オルフェ Monsieur Oephee』が私たち二人組の再結成を示すことになる。率直に言って、これはジャックが練りあげた最も美しい脚本のひとつだ」
・「私たちはオルフェの歌の吹き替えをすばらしい歌手ダニエル・レヴィで録音した。(中略)しかし、私のいない間にジャックはユステル自身で録音をやり直してしまう。それは致命的な間違いだった」
・「ジャックは(『想い出のマルセイユ』で)もはやモンタンの竜巻に向かって戦うエネルギーを失っていた」
・「できあがってみると、『想い出のマルセイユ』はまったくの完成作とも、まったくの失敗作ともいえない奇妙な作品になった」(また明日へ続きます……)
・「レコーディングは二つに分けて行われた。まずオーケストラをユーロパ・ソノール・スタジオで録り、次いで歌をポスト・パリジャン・スタジオで録った。それは前代未聞の美しい時間だった」
・「したがって『雨傘』はパリで行われた最初の4トラック録音となった」
・「このときの状況は皮肉なことになっていた。というのは、私はヌーヴェル・ヴァーグから逃れるためにフランスを離れ(アメリカに来)たのに、この亡命の地カリフォルニアで(ジャックとアニエスと会い)ふたたびヌーヴェル・ヴァーグに捕らえられたからだ」
・「ジャックは長年夢見たミュージカル映画を実現させることができるはずだ。しかしここでドゥミが没頭したのは『モデル・ショップ Model Shop』という、ヴェトナムへ出征することになるアメリカ青年のある種のカウントダウンをリアルに内省的に記録した映画だった」
・「『ロバと王女』は1970年のクリスマス・シーズンに公開され、200万人以上の観客動員を記録した。これはドゥミにとって商業的に最も成功した映画であるとともに、成功に別れを告げる映画となった」
・「しかしながら、彼(ドゥミ)は『雨傘』に匹敵する音楽つきの野心的な作品の企画をずっと以前からあたためていた。(中略)私は真っ向から反論した。『ジャック、きみはリアリズムの映画作家ではないし、戦闘的な映画作家でもないよ。きみは人の心を魅了する詩人なんだ。そして詩は政治的行動を超越するべきだ』(中略)『昨日まできみは兄弟だったのに、今日はぼくは見捨てようとしている!』彼は思い違いをしていた。(中略)その頃、私は『おもいでの夏 Summer of ‘42』の音楽で二度目のアカデミー賞を受賞したばかりで、バーブラ・ストライサンドやクリント・イーストウッド、そしてやがてオーソン・ウェルズと仕事をすることになっていた。ドゥミはあえて口には出さなかったが、私がハリウッドの野蛮な資本主義に身を売ったと思っていたにちがいない」
・「『ロバと王女』と『パーキング Parking』では、昔からの仲間だったセット・デザイナー、ベルナール・エヴァンは私とおなじ誠実さでこう反論した。『この予算できみが頭に描いている夢を実現させるのは、ぼくには無理だ』」
・「『エディット』は数年の間、冥府をさまよったのち、1982年に『都会のひと部屋 Une chamble en ville』となって日の目を見た。(中略)その映画を観ても私の意見は変わらなかった。残念だった」
・「しかしモスクワに戻る飛行機の上で、私たちはより野心的なアイディアを思いついた。『アンナ・カレーニナ Anna Karenine』のミュージカル版をロシアで撮影するフランスの撮影隊の話だ。ジャックはこの映画の美しい定義を私にささやいた。『これは堕ちていく情熱の物語になるだろう』(中略)モスクワでは映画担当大臣が熱狂し、ボリショイ・バレエ団を使ってほしいと申し出てくれた」
・「すべてがうまく運んでいるようにみえた。しかし、ジョルジュ・シュイコというパリの共同製作者はフランス側の分担金、すなわち全予算の10パーセントを調達することができなかった。5年間延期された末に、この“アヌーシュカ”のアヴァンチュールはひとりでに消滅してしまう……」
・「その後、1975年頃に新しいテーマが生まれ、形をなしてきたように見えた。(中略)しかし資金調達が叶わずに、私たちの『フォリー』は文字通りのパサジェール(通り過ぎる人)になってしまった」
・「1978年の数ヵ月間は『ベルサイユのばら』がドゥミのこころを占めていた。皮肉にも、彼の引き出しは自分の企画で溢れんばかりなのに、やって来るのはお膳立てされた映画の話ばかりだった」
・「1982年の『都会のひと部屋』のあと、ドゥミに残された映画は2本だった。1984年、のちに『パーキング』と改題される『ムッシュ・オルフェ Monsieur Oephee』が私たち二人組の再結成を示すことになる。率直に言って、これはジャックが練りあげた最も美しい脚本のひとつだ」
・「私たちはオルフェの歌の吹き替えをすばらしい歌手ダニエル・レヴィで録音した。(中略)しかし、私のいない間にジャックはユステル自身で録音をやり直してしまう。それは致命的な間違いだった」
・「ジャックは(『想い出のマルセイユ』で)もはやモンタンの竜巻に向かって戦うエネルギーを失っていた」
・「できあがってみると、『想い出のマルセイユ』はまったくの完成作とも、まったくの失敗作ともいえない奇妙な作品になった」(また明日へ続きます……)