朝日新聞で紹介されていた、小泉義之さんの’15年作品『ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために』を読みました。
冒頭の部分「はじめに」から引用させていただくと、「ジル・ドゥルーズ(1925年---1995年)は、最高の哲学者、最高の哲学史研究者だった。そして現代思想に最も影響を与えた思想家だった。まさに二十世紀後半はドゥルーズの時代であった。
ドゥルーズに触発された書物を列挙してみる。蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』、浅田彰『構造と力』、中沢新一『チベットのモーツァルト』、宇野邦一『意味の果てへの旅』、丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』、澤野雅樹『記憶と反復』である。これら斬新な書物を触発する力が、ドゥルーズ哲学には潜在している。ところが、時代の空気が悪すぎて、ドゥルーズ魂は消失しかけている。本書は、この状況に対して、ドゥルーズ哲学の別の力を対抗させる。
二十世紀は、二つの核の時代、原子核と細胞核の時代であった。
原子核に潜在する力を解き放った核兵器は、世界観と人間観を深く規定していた。核兵器は、政治権力の象徴であり、大量虐殺の象徴であった。権力のイメージ、死のイメージ、終末のイメージを養ったのは核兵器だった。依然として、核兵器による殺害の可能性は残っているが、今後は、核兵器が世界観や人間観を規定することはないだろう。
細胞核に潜在する力は、まさに解き放たれつつある。細胞核には、生物を生かして死なせる力が潜在し、生物を進化させて絶滅させる力が潜在する。そんな力が解き放たれつつあるのだ。今後は、細胞核によって規定される新しい世界観と新しい人間観を立ち上げる必要がある。
ドゥルーズの『差異と反復』(1968年)は、分子生物学が誕生して間もない頃に、自然科学が解き放つ潜在的な力を認識して、新しい数理哲学、新しい自然哲学、新しい生命哲学を先駆的に提示した書物である。ドゥルーズの一連の著作、スピノザ研究、ニーチェ研究、フーコー論、絵画論、映画論は、新しい哲学から新しい倫理を引き出した書物である。
ドゥルーズは『記号と事件』で、自分の全著作は「生命論」であり、敷石の合間に通路を穿って、生命に出口を示す作品であると語っていたし、「自然と人工の差異がぼやけてきた時代」にあって、新たに「自然哲学」を書きたいと語っていた。
未来の哲学を、ドゥルーズとともに立ち上げることにしよう。」
目次も書き写させていただくと、「第一章 変異と進化」「第二章 普遍数学」「第三章 自然の哲学」「第四章 ツリーとリゾーム」「第五章 生命の哲学」「第六章 批判と臨床 スピノザ」「第七章 生存の肯定 ニーチェ」「第八章 人間の終焉 フーコー」「第九章 未来の素描 フランシス・ベーコン」「第十章 出来事と運命 シネマ」という魅力的なものだったのですが、実際に読んでみると、まったく理解できませんでした。残念この上ない結果でした。
さて、ロバート・ゼメキス監督の’94年作品『フォレスト・ガンプ 一期一会』をWOWOWシネマで見ました。
舞い上がる羽毛をバックにオープニングタイトル。バスの停留所のベンチに座る上下白いスーツを着る男(トム・ハンクス)の足元にそれが落ちると、男はそれを拾い、本に挟んで鞄の中に入れる。男は隣に座る若い黒人の女性に「自分はフォレスト・ガンプです」と自己紹介し、最初の靴を与えられた時、母(サリー・フィールド)からは好きなところへ行くように言われたと自分のことを語りだす。
南北戦争の時、祖父は英雄で、KKKに属していた。母は「バカなことはするな」と言い、脚装具を僕に与え、皆と同じだと語った。
小学校入学の際、知能指数が75しかなく、80に達していないので、養護学校を母は勧められたが、母は普通学校に進むことを頑として主張した。実際には離婚していた父は、休暇中だと言い、絵本をよく読んでくれた。
家には様々な人が行き交い、ギターを持って現れた若者は僕に躍らせ、それがその僕の踊りをまねた後のプレスリーだった。
初めてのスクールバスで、唯一席を譲ってくれたのは、ジェニーで、彼女とはいつも一緒に行動するようになった。彼女は父と二人暮らしだったが、家を嫌っていた。僕の母は「奇跡は毎日起こる」と言っていた。
僕はジェニーと一緒にいた時、石を投げられ、ジェニーに走って逃げるように言われ、自転車で追いかける3人組から走って逃げたが、そのうちに脚装具が外れ、すごいスピードで走ることができるようになり、それ以後、移動の際に必ず走るようになった。
父から体を撫で回されていたジェニーが学校を休み、彼女は祖母の家に預かってもらうことになり、僕の家の隣に住むようになった。(明日へ続きます……)
冒頭の部分「はじめに」から引用させていただくと、「ジル・ドゥルーズ(1925年---1995年)は、最高の哲学者、最高の哲学史研究者だった。そして現代思想に最も影響を与えた思想家だった。まさに二十世紀後半はドゥルーズの時代であった。
ドゥルーズに触発された書物を列挙してみる。蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』、浅田彰『構造と力』、中沢新一『チベットのモーツァルト』、宇野邦一『意味の果てへの旅』、丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』、澤野雅樹『記憶と反復』である。これら斬新な書物を触発する力が、ドゥルーズ哲学には潜在している。ところが、時代の空気が悪すぎて、ドゥルーズ魂は消失しかけている。本書は、この状況に対して、ドゥルーズ哲学の別の力を対抗させる。
二十世紀は、二つの核の時代、原子核と細胞核の時代であった。
原子核に潜在する力を解き放った核兵器は、世界観と人間観を深く規定していた。核兵器は、政治権力の象徴であり、大量虐殺の象徴であった。権力のイメージ、死のイメージ、終末のイメージを養ったのは核兵器だった。依然として、核兵器による殺害の可能性は残っているが、今後は、核兵器が世界観や人間観を規定することはないだろう。
細胞核に潜在する力は、まさに解き放たれつつある。細胞核には、生物を生かして死なせる力が潜在し、生物を進化させて絶滅させる力が潜在する。そんな力が解き放たれつつあるのだ。今後は、細胞核によって規定される新しい世界観と新しい人間観を立ち上げる必要がある。
ドゥルーズの『差異と反復』(1968年)は、分子生物学が誕生して間もない頃に、自然科学が解き放つ潜在的な力を認識して、新しい数理哲学、新しい自然哲学、新しい生命哲学を先駆的に提示した書物である。ドゥルーズの一連の著作、スピノザ研究、ニーチェ研究、フーコー論、絵画論、映画論は、新しい哲学から新しい倫理を引き出した書物である。
ドゥルーズは『記号と事件』で、自分の全著作は「生命論」であり、敷石の合間に通路を穿って、生命に出口を示す作品であると語っていたし、「自然と人工の差異がぼやけてきた時代」にあって、新たに「自然哲学」を書きたいと語っていた。
未来の哲学を、ドゥルーズとともに立ち上げることにしよう。」
目次も書き写させていただくと、「第一章 変異と進化」「第二章 普遍数学」「第三章 自然の哲学」「第四章 ツリーとリゾーム」「第五章 生命の哲学」「第六章 批判と臨床 スピノザ」「第七章 生存の肯定 ニーチェ」「第八章 人間の終焉 フーコー」「第九章 未来の素描 フランシス・ベーコン」「第十章 出来事と運命 シネマ」という魅力的なものだったのですが、実際に読んでみると、まったく理解できませんでした。残念この上ない結果でした。
さて、ロバート・ゼメキス監督の’94年作品『フォレスト・ガンプ 一期一会』をWOWOWシネマで見ました。
舞い上がる羽毛をバックにオープニングタイトル。バスの停留所のベンチに座る上下白いスーツを着る男(トム・ハンクス)の足元にそれが落ちると、男はそれを拾い、本に挟んで鞄の中に入れる。男は隣に座る若い黒人の女性に「自分はフォレスト・ガンプです」と自己紹介し、最初の靴を与えられた時、母(サリー・フィールド)からは好きなところへ行くように言われたと自分のことを語りだす。
南北戦争の時、祖父は英雄で、KKKに属していた。母は「バカなことはするな」と言い、脚装具を僕に与え、皆と同じだと語った。
小学校入学の際、知能指数が75しかなく、80に達していないので、養護学校を母は勧められたが、母は普通学校に進むことを頑として主張した。実際には離婚していた父は、休暇中だと言い、絵本をよく読んでくれた。
家には様々な人が行き交い、ギターを持って現れた若者は僕に躍らせ、それがその僕の踊りをまねた後のプレスリーだった。
初めてのスクールバスで、唯一席を譲ってくれたのは、ジェニーで、彼女とはいつも一緒に行動するようになった。彼女は父と二人暮らしだったが、家を嫌っていた。僕の母は「奇跡は毎日起こる」と言っていた。
僕はジェニーと一緒にいた時、石を投げられ、ジェニーに走って逃げるように言われ、自転車で追いかける3人組から走って逃げたが、そのうちに脚装具が外れ、すごいスピードで走ることができるようになり、それ以後、移動の際に必ず走るようになった。
父から体を撫で回されていたジェニーが学校を休み、彼女は祖母の家に預かってもらうことになり、僕の家の隣に住むようになった。(明日へ続きます……)