昨日、TOHOシネマズ海老名において、J・A・バヨナ監督、スティーヴン・スピルバーグ共同製作総指揮の新作『ジュラシック・ワールド 炎の王国』MX4D版というのを見てきました。立体映画の部分はそれなりに楽しめ、座席はしょっちゅう揺れたり、下からどんどん叩かれたり、風が時たま吹いたりと、MX4Dは期待外れでしたが、映画はスリルに次ぐスリルで、結構楽しめました。またジェラルディン・チャップリンが出ていたり、『サイコ』のラストシーンへのオマージュもありました。
さて、昨日からの続きです。
「アメリカ映画には、その錯覚に見あった強靭さがそなわっていました。実際、ホークスが死のうと、ヒッチコックが死のうと、フォードが死のうと、あるいはラオール・ウォルシュが死のうと、キング・ヴィダーが死のうと、フリッツ・ラングが死のうと、ウィリアム・A・ウェルマンが死のうと、ヘンリー・キングが死のうと、アメリカ映画は死んだりはしなかった。びくともしなかった、といってもよいかも知れません。ハリウッドの『巨人』と呼ばれるこうした映画作家たちの死によって深刻な打撃をこうむったのは、むしろフランス映画の方だったような気がしてなりません。ハワード・ホークスが理解できなければ、映画など理解できるはずもないといったのは、つい先日なくなったエリック・ロメールでしたが、その前提そのものが崩壊してしまったかに見えるからです。おそらく、ロメールは、現代アメリカの映画作家の中に、ホークスに代わる固有名詞をついに見いだせぬまま、あるいは、あえてそうしようともせずに他界したのでしょう。また、かりにフィクションとしてではあれ、『軽蔑』(1963)で引退後のフリッツ・ラングにあえて映画を撮らせてみたジャン=リュック・ゴダールにも、それに似た思いがあったはずです。それから三十数年後に完成したゴダールの『映画史』(1988━1998)も、その深刻な打撃のまことに真摯な傷跡をとどめていた作品だと思います。
しかし、6歳という年齢の違いが、ゴダール的な真摯さから私を遠ざけていました。あるいは、16歳という年齢の違いが、ロメール的な真摯さから私を遠ざけていたといってもよいかも知れません。理由はいくつか考えられます。まず、批評家として出発した彼らと異なり、私にとってのアメリカ映画は、かなりの時期まで無責任な消費の対象でしかなかったからです。また、彼らのように、アメリカ映画を擁護することが、批評家としての、あるいは映画作家としての自己確立に不可欠な身振りだと考えたこともありませんでした。さらに、ヨーロッパ人である彼らと異なり、私には歴史認識というものが徹底して欠けていました。(中略)森の中から幻のように姿を見せる『サンライズ』(1927)の路面電車を初めてパリのシネマテークで目にしたとき、そろそろ30歳になろうとしていた私は、まぎれもなく、『遅れてきた』批評家だったのです。
『メイド・イン・USA』(1966)を撮った翌年の1967年に、ゴダールは、アメリカ映画はもはや存在していないと宣言しています。(中略)これは、当時のアメリカ映画が、ムルナウのアメリカ映画など1本も見たことがない連中の撮った映画でしかないという歴史的な判断にほかならず、その時点で、きわめて真摯な感慨だったといえます。(中略)ところが、私の見るかぎり、アメリカ映画が、ヨーロッパ人の『真摯』な擁護にふさわしくあろうとしたことなど一度もない。アメリカ映画は、歴史意識を欠いたまま、ひたすら『有効』であることのみを目ざしていたからです。『有効』であるとは、スクリーンと向かいあう観客にとっての現在という何ともとらえがたい時間を、どう経済的に組織するかという実践的な戦略にほかなりません。(中略)
明日もまた、これまで通り、面白いアメリカ映画が見られるだろうという思いを支えているのは、斬新さに背を向けたこの種の楽天的な再生産体制だったはずです。(中略)
ゴダールが『アメリカ映画はもはや存在していない』と宣言した1967年といえば、アンソニー・マンが亡くなった年にあたっています。ロバート・ロッセンは『リリス』(1964)を遺作として前年に他界しているし、ニコラス・レイはもう映画を撮らなくなっており、1960年以来沈黙をまもっていたバッド・ベティカーが『今は死ぬときだ』(1969)を撮るのはその2年後のことにすぎません。その時期にまともな映画を撮っていたのは『銃撃』(1966)と『旋風の中に馬を進めろ』(1966)のモンテ・ヘルマンぐらいで、マイク・ニコルズやノーマン・ジェイソンやフランクリン・J・シャフナーといった連中にアメリカ映画をまかせておいていいのかといった危惧感をいだいたのも確かです。(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
P.S. 今から約30年前、東京都江東区で最寄りの駅が東陽町だった「早友」東陽町教室の教室長、および木場駅が最寄りの駅だった「清新塾」のやはり教室長だった伊藤達夫先生、また、当時かわいかった生徒の皆さん、これを見たら是非下記までお知らせください。黒山さん福長さんと私が、首を長くして待っています。(また伊藤先生の情報をお持ちの方も是非お知らせください。連絡先は「m-goto@ceres.dti.ne.jp」です。よろしくお願いいたします。
さて、昨日からの続きです。
「アメリカ映画には、その錯覚に見あった強靭さがそなわっていました。実際、ホークスが死のうと、ヒッチコックが死のうと、フォードが死のうと、あるいはラオール・ウォルシュが死のうと、キング・ヴィダーが死のうと、フリッツ・ラングが死のうと、ウィリアム・A・ウェルマンが死のうと、ヘンリー・キングが死のうと、アメリカ映画は死んだりはしなかった。びくともしなかった、といってもよいかも知れません。ハリウッドの『巨人』と呼ばれるこうした映画作家たちの死によって深刻な打撃をこうむったのは、むしろフランス映画の方だったような気がしてなりません。ハワード・ホークスが理解できなければ、映画など理解できるはずもないといったのは、つい先日なくなったエリック・ロメールでしたが、その前提そのものが崩壊してしまったかに見えるからです。おそらく、ロメールは、現代アメリカの映画作家の中に、ホークスに代わる固有名詞をついに見いだせぬまま、あるいは、あえてそうしようともせずに他界したのでしょう。また、かりにフィクションとしてではあれ、『軽蔑』(1963)で引退後のフリッツ・ラングにあえて映画を撮らせてみたジャン=リュック・ゴダールにも、それに似た思いがあったはずです。それから三十数年後に完成したゴダールの『映画史』(1988━1998)も、その深刻な打撃のまことに真摯な傷跡をとどめていた作品だと思います。
しかし、6歳という年齢の違いが、ゴダール的な真摯さから私を遠ざけていました。あるいは、16歳という年齢の違いが、ロメール的な真摯さから私を遠ざけていたといってもよいかも知れません。理由はいくつか考えられます。まず、批評家として出発した彼らと異なり、私にとってのアメリカ映画は、かなりの時期まで無責任な消費の対象でしかなかったからです。また、彼らのように、アメリカ映画を擁護することが、批評家としての、あるいは映画作家としての自己確立に不可欠な身振りだと考えたこともありませんでした。さらに、ヨーロッパ人である彼らと異なり、私には歴史認識というものが徹底して欠けていました。(中略)森の中から幻のように姿を見せる『サンライズ』(1927)の路面電車を初めてパリのシネマテークで目にしたとき、そろそろ30歳になろうとしていた私は、まぎれもなく、『遅れてきた』批評家だったのです。
『メイド・イン・USA』(1966)を撮った翌年の1967年に、ゴダールは、アメリカ映画はもはや存在していないと宣言しています。(中略)これは、当時のアメリカ映画が、ムルナウのアメリカ映画など1本も見たことがない連中の撮った映画でしかないという歴史的な判断にほかならず、その時点で、きわめて真摯な感慨だったといえます。(中略)ところが、私の見るかぎり、アメリカ映画が、ヨーロッパ人の『真摯』な擁護にふさわしくあろうとしたことなど一度もない。アメリカ映画は、歴史意識を欠いたまま、ひたすら『有効』であることのみを目ざしていたからです。『有効』であるとは、スクリーンと向かいあう観客にとっての現在という何ともとらえがたい時間を、どう経済的に組織するかという実践的な戦略にほかなりません。(中略)
明日もまた、これまで通り、面白いアメリカ映画が見られるだろうという思いを支えているのは、斬新さに背を向けたこの種の楽天的な再生産体制だったはずです。(中略)
ゴダールが『アメリカ映画はもはや存在していない』と宣言した1967年といえば、アンソニー・マンが亡くなった年にあたっています。ロバート・ロッセンは『リリス』(1964)を遺作として前年に他界しているし、ニコラス・レイはもう映画を撮らなくなっており、1960年以来沈黙をまもっていたバッド・ベティカーが『今は死ぬときだ』(1969)を撮るのはその2年後のことにすぎません。その時期にまともな映画を撮っていたのは『銃撃』(1966)と『旋風の中に馬を進めろ』(1966)のモンテ・ヘルマンぐらいで、マイク・ニコルズやノーマン・ジェイソンやフランクリン・J・シャフナーといった連中にアメリカ映画をまかせておいていいのかといった危惧感をいだいたのも確かです。(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
P.S. 今から約30年前、東京都江東区で最寄りの駅が東陽町だった「早友」東陽町教室の教室長、および木場駅が最寄りの駅だった「清新塾」のやはり教室長だった伊藤達夫先生、また、当時かわいかった生徒の皆さん、これを見たら是非下記までお知らせください。黒山さん福長さんと私が、首を長くして待っています。(また伊藤先生の情報をお持ちの方も是非お知らせください。連絡先は「m-goto@ceres.dti.ne.jp」です。よろしくお願いいたします。