岸田総理秘書官が、LGBT蔑視の発言をしたということで更迭された。有能な官僚だったと言われている。
こういうニュースが報道されるといつも思うのは、発言した方の育ち方を考えてしまう。
日本は昭和の頃は、少数の性的志向の人に対して、好奇の目を向けて面白がったり、奇異な目で見るのが当たり前だったように思う。そうした少数派の方々は、蔑視を跳ね返す強い心を持つしかなく、そして社会で、理解を求めるべく生きてこられた。
LGBTに限らず、昔から、集団の中で、容姿や考え方が人と少し違っている人がいるとき、多数派に所属する人々は、特別な目を向けてしまう傾向がある。
一人だけ違う格好をする、一人だけ違う言動をするのは、とても目立ってしまう。残念ながら多くの日本人は、目立つことを嫌う傾向がある。自分と同じ格好や考えの人が多数いると安心する。
最近、小学生のランドセルは様々な色がある。少し前は、みんな赤なのに一人だけピンク色かかったランドセルを持っている子を特別な目で見ていた。どうでも良いことなのに、「なんで、ピンク色?」と違和感を感じていた。
子供は無邪気だから、深く考えず行動し、少数派を傷つけてしまい、状況によってはいじめに向かってしまう。
それは発達障害や、身体的な障害を持つ人々にも及ぶ。
そして、そういう少数派の人々に対して、自分の言動をどうすべきかを後回しにして、「何を言われても気にしないで、強くなればいいのに」と、相手に求める傾向がある。相手の立場に立って考えるということが後回しになるのだ。
数年前、島根に住む親戚の小学生の女の子にワンピースをプレゼントした。そしたら、
「とっても可愛いから着たいけど、可愛い格好をしたらからかう男子がいるから、広島にお出かけするときに着させてもらう」
とその子のお母さんから返事が来た。これは子供の問題ではなく大人の問題だと感じた。
「おしゃれは、流行を追うのではなく、人が着ているからというのでもなく、自分に一番似合う格好がいいんだよ。人が真似したくなるようなスタイルを追求してほしい。からかう子だって半分はいい感じだからきになるんじゃないの?」
というと
「いいの。からかわれたり、変なことで関わってこられる方が面倒なんよ。できるだけ問題を起こさない方が良いから」
そう言われて、私は納得したけれど、釈然としなかった。
普段から日本社会では、小さいことでも、こんなやりとりがあるのだ。少数派を面白がったり、いじったり、嫌ったりして、いじめに発展する場合も出てくるのだ。
今回の秘書官の発言を受けて、すぐに更迭になったのは、もうLGBTが社会の中で容認されるところまで来たからである。だけど、LGBTに対してではなく、別の人々に対して気持ち悪いとか、近くに居たくないとかという発言だったらどうだったのか?
この秘書官は、おそらく、日頃から誰かに対してそういった言動をしている気がしてならない。優しさが育っていれば、どんな人に対しても寄り添うことができるからだ。
数年前、私の友人の奥さんに、
「どんなに学力があっても、人格が育ってなくて、人に優しくできなければ意味がない。学力は後から死に物狂いで努力したらつくけれど、性格は大人になって変えようと思ってもできない。ぜひ、お孫さんを、優しくて明るいままで大きくしてあげてほしい」
と言われた。この言葉はずっと私の心に残っている。友人のところは、息子さんが二人、どちらも秀才なので、この発言は特に重みを持っている。
少しでも問題発言をしたら、すぐに首を切られる世の中だ
確かにそうかもしれない。だけど、たとえ少数派だとしても深く傷つく人がいる限り、自分のこととして受け止めるべきなのだ。世の中の母親は、子供が生きる力身につけるために勉強やスポーツを頑張らせようとしてしまうけれど、それ以上に大切なことがあることを自身の言動によって理解させなければならないと感じる。
自分は、人に対して正しい言動をしているだろうか
私も心して生きたい。
画像は甲東梅林の道知辺という梅です。凍える寒さの中、花を咲かして喜ばせてくれてありがたいです。梅のようにありたいです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます