常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

クララとお日さま

2022年11月20日 | 読書
冬になって南天の実が日々その赤さを増している。この上に雪が積もる日もまぢかである。昨夜、楽しみながら読んでいカズオ・イシグロの長編『クララとお日さま』を読了した。小説の語り手クララは、AIを搭載したロボットの少女である。病弱であすをしれない少女ジョジ―の話相手に買われた。ペットを飼うように、知能を備えたロボットが家に入る日は、現実の世界でもそう遠い日ではないように思われる。

クララは主人と生活し、観察し、心のうちを読み取り主人にとって最善の行動を心掛ける健気なロボットだ。読んでいくうちに、彼女がロボットであることを忘れそうになる。その度に、クララは自分の活動の源である、太陽との話が挟み込まれる。ジョジ―の病気を治してもらえるように、お日さまに一生懸命にお願いする。太陽はクララにとって神のような存在だ。だが、お祈りをするのではなく、語りかける。無私の心でひたすら主人のために行動する。こんなロボットであれば誰もが持ちたい。

ジョジ―の母親も。隣に住む恋人のリックも、彼女の命が長くないと思っている。クララの目で見た、母親、リックの心の動き。クララは自分が体験していることと、日々の観察からジョジ―の病気からの回復を確信している。その確信を裏付けるのは、日々浴びているお日さまの栄養であり、お日さまとの交信である。ジョジ―の病はいよいよ深まり、ベットの上で昏睡状態を続けるようになる。時間はない。日が沈む夕方、お日さまへジョジ―を助けてもらうように懇願しに小屋にでかける。

そして奇跡が起こる。お日さまへの懇願が終り、ジョジ―の昏睡が続いていた朝。クララは叫ぶ。「さあ、ジョジ―のベッドへ行きましょう」母もリックも
いよいよ最後かと、心配を募らせて2階のジョジ―のベッドへ駆けつける。部屋には見たこともない、強い陽がさし込んでいる。お日さまがさらに光を強め、オレンジ色でジョジ―を包みこんだ瞬間。ジョジ―が声を出す。「ねえ、この光は何なの。」それから、ジョジ―は元気を取り戻す。

この役目が終わったとき、ジョジ―にはロボットは不要になる。最終章、クララは物置のような墓場にいて、辺りの観察を続けている。そこへ、ロボット売り場にいた店長が、クララを探しに訪れる。店長が語ったこと。「あなたはもっとも驚くべきAFのひとりでしたよ。」
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名著の重み

2022年09月21日 | 読書
神谷美恵子の名著、『生きがいについて』を枕頭の書にしたのは、失礼な話だが、自分の睡眠と関係している。高齢になって、眠りが浅くなり、夜中に何度も目覚めてしまう。この本を枕頭に置けば、ほんの2、3頁で眠気が戻ってくる。そんな気持ちで枕頭に置いた。この本はかなり昔に、仕事や人間関係に悩んだとき、書店で求めたものだったような気がする。名著であることは知っていたが、ついぞ読み通すこともなく、この本の価値を知らないまま本棚に、置いたままになっていたのだと思う。

神谷はハンセン病の療養施設で、生きがいを失った患者によりそいながら、その人たちが、絶望のなかで朽ちることない希望や尊厳を見出していくなかで人間の「生きがい」についての思索を掘り下げていく書である。この本を枕頭の書にしてから1週間ほど経ったであろうか、生きがいを失う人間は病気の人だけでなく老人になって、老い先が短くなっている、つまり自分のような存在もその範疇にあることを知らされた。丁度、山登りの楽しさを生きがいにしてきたが、突然の事故で、その楽しみを失った時期に重なっていた。

2、3頁で眠気をもよおする本、だが、読み続けることを促すエピソードにも満ちている。ブログ仲間のクリンさんが取り上げた数学者岡潔が文化勲章を受章した手記が、新聞の記事のまま紹介されている。そこで語られるのは、子どもの頃に山で蝶を見つけたよろこびと数学の研究や発見のよろこびは同質のもの」であること。また使命感を持って生きることが生きがいにつながっている。その例として、ナイチンゲール、シュバイツァー、ジャンヌダルク、そして宮沢賢治があげられる。

自然との融合体験。日本の青年の手記を読みながら、自分が自然のなかで感じた喜びと青年の体験の同一性。プルーストの『失われた時をもとめて』、パールバック、唐木順三『無用者の系譜』など読んだ本、読みかけの本から引用が「生きがい」の観点から随所にちりばめられている。少しづつ読み進めて最後に行きついた感動の言葉。

「死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじき出されひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものでなかったか。一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび。ものの本質をさぐり、考え、学び、理解するよろこび、自然界のかぎりなくゆたかな形や色をこまかく味わいとるよろこび。みずからの生命をそそぎ出して新しい形やイメージをつくり出すよろこび。こうしたものこそすべてのひとにひらかれている。」

眠ることを促すはずの本が、この感動のために眠りをわすれさせ、次に読むべき名著を探す。一つはロジェ・カイヨワ『遊びと人間』、もう一つはアラン『幸福論』。そしてこの『生きがいについて』の再読。もっと、もっとこの本の重みを心にとどめて置きたい。
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ブックオフから

2022年08月28日 | 読書
ブックオフまで、歩数にして往復3000歩程度。書棚で本を探しながら、一日9000歩のウォーキング目標をこなすには持って来いの存在だ。古書店を歩くのが若いころの趣味であったから、現代版の古書店には色んな発見がある。文庫も、一般書も100円~200円の棚が結構広くもうけられている。そのコーナーから堀り出しものを得るのは、昔の古書店の100円コーナーとは一味違った満足感がある。

昨日、選んだ2冊。ブルーメンソールの『毎日の暮らしが輝く52の習慣』200円、と文庫、平野啓一郎『ある男』。こちらは100円コーナーでなく550円。以前、読書関係の本で、ハウツーものは読むな、と教えられてきた。だが、老いとつきあうようになって『ウォーキングの科学』、『呼吸の科学』や精神科医の樺沢紫苑の『ストレスフリー』などを読むようになって、高齢者の読書には、ハウツーのような本から、貴重の情報を得る事できる読み方も必要な気がしてきた。

『52の習慣』には「音楽を聞く」という一項がある。プラトンの名言が紹介されている。「音楽は道徳律である。宇宙に魂を、心に翼を、想像力に飛ぶ力を、そして人生のあらゆることに魅力と華やぎを与えてきうれる。そして、睡眠に入る短時間、ユーチューブに登録しておいたクラシックのなかから、耳慣れたモーツァルトのメロディを聞いてみた。言われるとおり、心にやすらぎが訪れる。テレビのチャンネルを探していたら、「こころのメロディ」というのがあった。「富士の山」や「仰げば尊し」に続いて、テナー歌手の「さとうきび畑」が流れてきた。沖縄の摩文仁の丘に広がるさとうきび畑を吹き抜ける風を歌ったものだ。そこでは鉄の雨が降り、まだ死体が葬られることなくさとうきびの畑に埋まっていた。この歌を聞いていると、なぜか涙が止まらなくなった。

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山の音

2022年07月16日 | 読書
川端康成の短編、『山の音』を読んだ。主人公の尾形信吾は60歳を越えて、会社を経営している。妻は一つ年上の姉さん女房だが、丈夫で信吾の方が老けて見えた。信吾の悩みは、今日でいう認知症、記憶を失うことだ。妻と息子夫婦と同居しているが、家族は信吾の記憶係を分担している。自分の現在に比べて、こんな現実が近づいていることを感じる。

「ええっと、ほら・・・。」
こういう時、信吾は言葉も出にくい。
「このあいだ帰った女中、なんと言ったっけ?」
「可代ですか。」
「ああ、可代だ。いつ帰ったっけ?」
「先週の木曜日ですから、五日前ですね。」
「五日前か。五日前に暇を取った女中の、顔も服装もよく覚えていないんだ。あきれたねえ。」
父は多少誇張していると修一は思った。

信吾は夜、眠りが浅くなっている。脇で寝ている妻、保子のいびきで目覚めることも多い。ある夜、妻のいびきで目を覚まして、首を抑え、ゆすって見るが一向に起きない。寝室を出て、雨戸を開ける。裏の山から、山の音が聞こえてくる。遠い風の音に似てい地鳴りとでもいう深い底力。信吾はこのとき、何故か恐怖に襲われる。山の音に死期を知らされているような感覚。

この小説の肝は、山の音だ。しかし、その音が聞こえたのは、妻の姉が死んだとき異常を知らせる音であった。妻と結婚したのは、姉の死と関係している。人生の大事なことを忘れてしまった現実。主人公が感じた山の音の恐怖は、この忘却にこそ原因がある。

「山の鳴ることってあるんでしょうか。」と菊子が言った。
「いつかお母さんにうかがったことがありますわね。お母さまのお姉さまがおなくなりになる前に山の鳴るのをお聞きになったってお母さまがおっしゃったでしょう。」
信吾はぎくっとしたそのことを忘れていたのは、まったく救いがたいと思った。そのことまで思い出さなかったのは、信吾を絶望に突き落とした。
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六の宮の姫君

2022年06月27日 | 読書
先週から、日本列島に熱波が来ている。昨日は群馬県の伊勢崎で40℃を超える気温が報告された。6月に40℃を超えるのは、気象観測が始まって初めての事態だ。加えて、6月中というのに東海や関東地方で梅雨明けが発表され、当地方に大雨警報、土砂災害警報が合わせて発表されている。ヨーロッパの熱波はもっと強烈でらしい。ベルギーなどはしばらく40℃を超える日が続いているらしい。テレビの情報番組が、1時間以上にわたってこの現象を特集していた。この現象は、地球の温暖化が背景にある。地上に住む全ての人々がに影響があり、これを阻止するには全ての人々が、今の生活レベルを下げる以外にない。政府や国家を批判しても、結果は変わらない。
昨日、光禅寺の境内に花を見に行ったが、すでに花は咲き終わり、鐘楼の上の空が真夏の到来を告げていた。

菊池寛の続きになるが、畏友志村有弘氏に、芥川と菊池が今昔物語に題材を取った「六の宮姫君」という論考がある。志村氏は大学で「古典と近代作家」や「説話文学」を専修、特に芥川龍之介の文学への論考が研究の基礎になっている。菊池寛の『半自叙伝』や『新今昔物語』を読みながら、志村氏のこの論考を再読するのは、この上ない贅沢である。志村氏がかって北海道の高校で同じ教室で机を並べた仲であることは、その興味をさらに奥深いものしてくれる。

「六の宮の姫君」という物語は、その梗概を記すと、出世から見放された公家の娘が、越前の前司の長男に見染められ貧しい家に通って来る。全く世間知らずの親から期待され、可愛がられるのみの娘であったが、男の魅力に次第に目覚めていく。ところが、男は父が陸奥守に任じられ、遠国に行くことになる。5年の任期だが、その間だけ待つようにと言い残して男は去って行った。男のいない間、父母を亡くした姫君は、家財を売り食いしながら、泣きながら男の帰りを待った。約束の5年が過ぎた。男には常陸守の娘との結婚があり、手紙での姫君とのやりとりも途絶えがちになった。京に帰って男が、待っている六の宮の屋敷を訪ねたが、荒れ放題の家。わずかに人のいる気配の対屋にいたのは年老いた尼であった。かって姫君の身の回りを世話をしていた下女の母で、姫がこの家を出たことを聞く。男は京中を探しまわり、乞食の集まるような場所で姫を見つける。男を見て娘は縋りついたが、その胸の内に儚く死んで行った。

芥川の「六の宮の姫君」が書かれたのは大正11年であるのに対し、菊池が「六宮姫君」を書いたの昭和21年である。書かれた時代も違えば、一読してその文体が大きく異なっていることに気づく。ちょっと男が、京へ帰ったときの部分を記して見る。

六の宮へ行つて見ると、昔あつた四足の門も、檜皮葺の寝殿や対も、悉今はなくなつてゐた。その中に唯残つてゐるのは、崩れ残りの築土だけだつた。男は草の中に佇たたずんだ儘、茫然と庭の跡を眺めまはした。其処には半ば埋もれた池に、水葱が少し作つてあつた。水葱はかすかな新月の光に、ひつそりと葉を簇らせてゐた。(芥川)

が、その邸は変わりはてていた。築地は半ば崩れてしまっていた。四足門の柱は、ただ一つしか残っていなかった。庭には、雑草が、人の背ほども生い茂っていた。泉水の水は乾れて水草が水面一杯に生えていた。寝殿は屋根がなくなったばかりか、床板までが剥がれている。(菊池)

志村は芥川の文体を評して、「彫琢の美」と述べ、また菊池が物語を、男女の相思相愛の話とし、姫君の悲恋物語に仕立てたのに対して、芥川は姫君の臨終の場面を、哀れな女の末路をものの見事に作りあげた、と述べている。新聞や雑誌に受ける話を志向していた菊池の発想は、戦後間もない昭和22年にすでに大衆にアピールする方向に向かっていた。
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