常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

宮沢賢治が読んだ本

2023年05月23日 | 読書
宮沢賢治の詩や童話の背景は、賢治が住んだ岩手の山地の植物や花に彩られている。劇、「種山ケ原のの夜」は、山の樹々の霊が、人間と話す劇だ。人と植物が一緒に生きて会話を交わす。そんな夢のような話だ。草刈りをした人間が刈って置き忘れ、雨が降ってくるから濡れるぞ、濡れるぞと囃したてる。ナラ、カバ、カシワなど異なる樹種の樹霊がいる。

まっ青に朝日が溶けて
この山上の野原には
濃艶な紫いろの
アイリスの花がいちめん
靴はもう雨でぐしゃぐしゃ

そんな山地で雨の前に刈った草を置き忘れしまった農民。それを囃す樹霊たち。「種山ケ原の 雲の中で刈った草は どごさ置いだが 忘れた 雨ぁ
ふる 種山ケ原の霧の中で刈った草さ(足拍子)」と囃したてながら踊りだす。「雲に持ってがれて 無ぐなる 無ぐなる。」ここで、農夫も一緒に踊りだす。

賢治の座右の書は、牧野富太郎『日本植物図鑑』であった。朝ドラで牧野をモデルにした「らんまん」が放送されているが、植物を愛してやまない牧野の心が、この図鑑を通して賢治に伝わったのであろうか。イートハーボの樹々たちは、人間の言葉で語りかけてくる。

もう一冊、賢治に深い影響を与えた本がある。河口慧海『チベット旅行記』だ。明治時代、仏教の原点をもとめて、単身ヒマラヤを越え、鎖国のチベットへ渡った学僧の記録である。先日、本箱の整理をしたとき見つけた文庫本5冊である。賢治の『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』の舞台は、クラレという美しい花の咲く、チベットからネパールへ入る入り口である。そこは、化け物世界と人間世界との境界でもある。ネネムはこの秘境から、現実の世界へ投げ戻される。賢治の童話は、こんな本の影響を受けながらその世界を広げていった。

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クララとお日さま

2022年11月20日 | 読書
冬になって南天の実が日々その赤さを増している。この上に雪が積もる日もまぢかである。昨夜、楽しみながら読んでいカズオ・イシグロの長編『クララとお日さま』を読了した。小説の語り手クララは、AIを搭載したロボットの少女である。病弱であすをしれない少女ジョジ―の話相手に買われた。ペットを飼うように、知能を備えたロボットが家に入る日は、現実の世界でもそう遠い日ではないように思われる。

クララは主人と生活し、観察し、心のうちを読み取り主人にとって最善の行動を心掛ける健気なロボットだ。読んでいくうちに、彼女がロボットであることを忘れそうになる。その度に、クララは自分の活動の源である、太陽との話が挟み込まれる。ジョジ―の病気を治してもらえるように、お日さまに一生懸命にお願いする。太陽はクララにとって神のような存在だ。だが、お祈りをするのではなく、語りかける。無私の心でひたすら主人のために行動する。こんなロボットであれば誰もが持ちたい。

ジョジ―の母親も。隣に住む恋人のリックも、彼女の命が長くないと思っている。クララの目で見た、母親、リックの心の動き。クララは自分が体験していることと、日々の観察からジョジ―の病気からの回復を確信している。その確信を裏付けるのは、日々浴びているお日さまの栄養であり、お日さまとの交信である。ジョジ―の病はいよいよ深まり、ベットの上で昏睡状態を続けるようになる。時間はない。日が沈む夕方、お日さまへジョジ―を助けてもらうように懇願しに小屋にでかける。

そして奇跡が起こる。お日さまへの懇願が終り、ジョジ―の昏睡が続いていた朝。クララは叫ぶ。「さあ、ジョジ―のベッドへ行きましょう」母もリックも
いよいよ最後かと、心配を募らせて2階のジョジ―のベッドへ駆けつける。部屋には見たこともない、強い陽がさし込んでいる。お日さまがさらに光を強め、オレンジ色でジョジ―を包みこんだ瞬間。ジョジ―が声を出す。「ねえ、この光は何なの。」それから、ジョジ―は元気を取り戻す。

この役目が終わったとき、ジョジ―にはロボットは不要になる。最終章、クララは物置のような墓場にいて、辺りの観察を続けている。そこへ、ロボット売り場にいた店長が、クララを探しに訪れる。店長が語ったこと。「あなたはもっとも驚くべきAFのひとりでしたよ。」
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名著の重み

2022年09月21日 | 読書
神谷美恵子の名著、『生きがいについて』を枕頭の書にしたのは、失礼な話だが、自分の睡眠と関係している。高齢になって、眠りが浅くなり、夜中に何度も目覚めてしまう。この本を枕頭に置けば、ほんの2、3頁で眠気が戻ってくる。そんな気持ちで枕頭に置いた。この本はかなり昔に、仕事や人間関係に悩んだとき、書店で求めたものだったような気がする。名著であることは知っていたが、ついぞ読み通すこともなく、この本の価値を知らないまま本棚に、置いたままになっていたのだと思う。

神谷はハンセン病の療養施設で、生きがいを失った患者によりそいながら、その人たちが、絶望のなかで朽ちることない希望や尊厳を見出していくなかで人間の「生きがい」についての思索を掘り下げていく書である。この本を枕頭の書にしてから1週間ほど経ったであろうか、生きがいを失う人間は病気の人だけでなく老人になって、老い先が短くなっている、つまり自分のような存在もその範疇にあることを知らされた。丁度、山登りの楽しさを生きがいにしてきたが、突然の事故で、その楽しみを失った時期に重なっていた。

2、3頁で眠気をもよおする本、だが、読み続けることを促すエピソードにも満ちている。ブログ仲間のクリンさんが取り上げた数学者岡潔が文化勲章を受章した手記が、新聞の記事のまま紹介されている。そこで語られるのは、子どもの頃に山で蝶を見つけたよろこびと数学の研究や発見のよろこびは同質のもの」であること。また使命感を持って生きることが生きがいにつながっている。その例として、ナイチンゲール、シュバイツァー、ジャンヌダルク、そして宮沢賢治があげられる。

自然との融合体験。日本の青年の手記を読みながら、自分が自然のなかで感じた喜びと青年の体験の同一性。プルーストの『失われた時をもとめて』、パールバック、唐木順三『無用者の系譜』など読んだ本、読みかけの本から引用が「生きがい」の観点から随所にちりばめられている。少しづつ読み進めて最後に行きついた感動の言葉。

「死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじき出されひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものでなかったか。一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび。ものの本質をさぐり、考え、学び、理解するよろこび、自然界のかぎりなくゆたかな形や色をこまかく味わいとるよろこび。みずからの生命をそそぎ出して新しい形やイメージをつくり出すよろこび。こうしたものこそすべてのひとにひらかれている。」

眠ることを促すはずの本が、この感動のために眠りをわすれさせ、次に読むべき名著を探す。一つはロジェ・カイヨワ『遊びと人間』、もう一つはアラン『幸福論』。そしてこの『生きがいについて』の再読。もっと、もっとこの本の重みを心にとどめて置きたい。
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ブックオフから

2022年08月28日 | 読書
ブックオフまで、歩数にして往復3000歩程度。書棚で本を探しながら、一日9000歩のウォーキング目標をこなすには持って来いの存在だ。古書店を歩くのが若いころの趣味であったから、現代版の古書店には色んな発見がある。文庫も、一般書も100円~200円の棚が結構広くもうけられている。そのコーナーから堀り出しものを得るのは、昔の古書店の100円コーナーとは一味違った満足感がある。

昨日、選んだ2冊。ブルーメンソールの『毎日の暮らしが輝く52の習慣』200円、と文庫、平野啓一郎『ある男』。こちらは100円コーナーでなく550円。以前、読書関係の本で、ハウツーものは読むな、と教えられてきた。だが、老いとつきあうようになって『ウォーキングの科学』、『呼吸の科学』や精神科医の樺沢紫苑の『ストレスフリー』などを読むようになって、高齢者の読書には、ハウツーのような本から、貴重の情報を得る事できる読み方も必要な気がしてきた。

『52の習慣』には「音楽を聞く」という一項がある。プラトンの名言が紹介されている。「音楽は道徳律である。宇宙に魂を、心に翼を、想像力に飛ぶ力を、そして人生のあらゆることに魅力と華やぎを与えてきうれる。そして、睡眠に入る短時間、ユーチューブに登録しておいたクラシックのなかから、耳慣れたモーツァルトのメロディを聞いてみた。言われるとおり、心にやすらぎが訪れる。テレビのチャンネルを探していたら、「こころのメロディ」というのがあった。「富士の山」や「仰げば尊し」に続いて、テナー歌手の「さとうきび畑」が流れてきた。沖縄の摩文仁の丘に広がるさとうきび畑を吹き抜ける風を歌ったものだ。そこでは鉄の雨が降り、まだ死体が葬られることなくさとうきびの畑に埋まっていた。この歌を聞いていると、なぜか涙が止まらなくなった。

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山の音

2022年07月16日 | 読書
川端康成の短編、『山の音』を読んだ。主人公の尾形信吾は60歳を越えて、会社を経営している。妻は一つ年上の姉さん女房だが、丈夫で信吾の方が老けて見えた。信吾の悩みは、今日でいう認知症、記憶を失うことだ。妻と息子夫婦と同居しているが、家族は信吾の記憶係を分担している。自分の現在に比べて、こんな現実が近づいていることを感じる。

「ええっと、ほら・・・。」
こういう時、信吾は言葉も出にくい。
「このあいだ帰った女中、なんと言ったっけ?」
「可代ですか。」
「ああ、可代だ。いつ帰ったっけ?」
「先週の木曜日ですから、五日前ですね。」
「五日前か。五日前に暇を取った女中の、顔も服装もよく覚えていないんだ。あきれたねえ。」
父は多少誇張していると修一は思った。

信吾は夜、眠りが浅くなっている。脇で寝ている妻、保子のいびきで目覚めることも多い。ある夜、妻のいびきで目を覚まして、首を抑え、ゆすって見るが一向に起きない。寝室を出て、雨戸を開ける。裏の山から、山の音が聞こえてくる。遠い風の音に似てい地鳴りとでもいう深い底力。信吾はこのとき、何故か恐怖に襲われる。山の音に死期を知らされているような感覚。

この小説の肝は、山の音だ。しかし、その音が聞こえたのは、妻の姉が死んだとき異常を知らせる音であった。妻と結婚したのは、姉の死と関係している。人生の大事なことを忘れてしまった現実。主人公が感じた山の音の恐怖は、この忘却にこそ原因がある。

「山の鳴ることってあるんでしょうか。」と菊子が言った。
「いつかお母さんにうかがったことがありますわね。お母さまのお姉さまがおなくなりになる前に山の鳴るのをお聞きになったってお母さまがおっしゃったでしょう。」
信吾はぎくっとしたそのことを忘れていたのは、まったく救いがたいと思った。そのことまで思い出さなかったのは、信吾を絶望に突き落とした。
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