常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

2020年10月04日 | 日記
北海道の生家に栗の木が3本植えられていた。子どものころ、栗の木は大きくなって、夏は日を遮る木陰をつくり、秋になると実を落した。朝、それを拾いに行くのが楽しみで早起きした。実の入った毬が落ちていない時は、うっすら口を開きかけた毬を枝から捥いで、実を取った。鬼皮が十分に茶色になり切らず、白い部分が残っている。鬼皮をむくと渋皮が簡単にはがれてそのまま実を食べるのが好きであった。まだ幼い、未熟の味がして、口のなかに秋の味が広がった。

「近くて栗」という言葉ある。栗と九里を掛け合わせたしゃれで、成熟した栗は渋皮を剥くとき、手に着いたりして面倒なのでこんな風にいう。渋皮煮という甘煮の方法もあって、渋皮にある灰汁を抜くのに何度も煮たり、茹でた水をとり替えるので、これもまた9里歩くほどの手間を要する。岐阜の中津川というところは、おいしい栗の産地らしい。祖母が岐阜の生まれであったから、移住した北海道の家に栗の木を植えたのかもしれない。

吉田健一の『私の食物誌』に中津川の栗のことが書いたある。「中津川のはただの栗羊羹でも他所の栗羊羹とは栗が違う。尤もこういう栗で栗羊羹を作るのは勿体ない話で今まで食べた中で一番栗の味を生かしているのは、残念ながらこれも一種の菓子であっても栗きんとんと言って栗ばかりを摺り潰して固めたものである。恐らく砂糖も大して使っていなくて繋ぎに何か混ぜてあるとしか思えず、その甘みは栗のもので舌に触る粒が粗くて僅かに粘るのも栗を感じさせる。」と、岐阜の栗を絶賛している。

丹波栗というのを食べたことがあるが、大きいばかりであまり関心しなかった。栗の味で今も忘れられないのは、炉の熾きの近くの灰に埋めた栗が爆ぜて飛び出してくるのを、苦労して熱がりながら食べた焼き立ての栗だ。


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