趣味の詩吟で異変があった。病気を抱えていた会長が、昨年の暮に急逝し、教室の先生が会長の後を継いだ。かつては大所帯だった山形岳風会も、500名ほど小さな会になった。それでも、県内では大きい会にランクされる。この度、教室の先生で会長を務めることで、会の現状など様々な情報が、詩吟の練習の合間にきくことができる。岳風会の公開講座というのがある。希望する会員に吟じ方や詩吟についての知識を伝える大事な講座だ。その講師に教室の先生が選ばれた。
先生が担当する吟題は、白楽天の「菊花」である。白楽天は中唐の詩人で、西暦772年~846年、74年の生涯であった。地方官僚の父に生まれた白楽天は、飛び抜けたエリート層に属さず、父が死んでからは、貧しい家庭と言っていい。白楽天が頭角を現すのは、先ず詩人である。16歳で五言律詩を詩壇の会合で発表し、詩壇から高い評価を受けた。父の死後5年、宣洲で郷士に合格すると、翌年進士に及第。この時、白楽天29歳。この時代、科挙の制度で、進士に及第するのがいかに難しいことであったか。「三十老明教、五十少進士」とも言われ、五十歳で及第しても若い方であったのが実情である。
白楽天はエリートの家系ではないため、官途は平坦なものではなかった。そして左拾遺という役に就く。世情を観察し、天子に進言する役回りだ。この時期に作った「諷諭詩」は天子に進言した世情の矛盾を、世間にも広めようしたのだろうか。「売炭翁」はこの系列の代表作だ。官のなかでは、このような正義感を憎むものも少なからずいた。左遷という運命が、白楽天を待ち構えていたのはこんな事情があった。「菊花」を詠んだのは44歳の時。江洲に左遷された時の詩である。
一夜新霜瓦について軽し
芭蕉は新に折れて敗荷は傾く
寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて
金粟の花は開いて暁更に清し
この地は、かの陶淵明の故郷である。白楽天が陶淵明の生き方に傾倒し、尊敬していた。その地に流されたことを喜び、そこで陶淵明の旧宅を訪ね、菊の花を見てこの詩を詠んだ。あの「菊をとる東籬の下、悠然として南山を見る」の詩句が思い出される。白楽天には「陶淵明に習う詩16首」がある。この詩編を読むと、どれほど陶淵明に傾倒していたか、致仕ということがどれほど楽天の望むところであったか。自ずから読み取ることができる。
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