秋のある日、ミモロは、お友達と彦根へドライブに出かけました。「琵琶湖の周辺は、いろいろ行ったけど、まだ彦根城見てない…」というミモロのリクエストで、京都から、高速道路を経て、車で約1時間半ほどで到着しました。
「立派なお城…」
彦根城は、言わずと知れた井伊家の居城。初代、直政は、関ヶ原の戦いで、徳川方で活躍し、家康の天下統一に貢献、以来、徳川幕府の譜代大名の筆頭として、将軍を後見する立場であり、大老職を務めた藩主も数多くいる大名に…。
なんと江戸時代、一度もお国替えもなく、この彦根の地を納めます。井伊家の輩出して大老のなかでも、歴史に名を残すのは、なんといっても、幕末に大老となった13代藩主の井伊直弼です。
11代藩主の直中のなんと14男として、1815年に誕生。多くの兄がいるため、とても藩主などになれようはずはなく、若い頃は、彦根城堀外の「埋木舎(うのれぎのや)」と名付けた屋敷で、茶の湯、居合術、国学、和歌、陶芸など、文化・教養を深める日々を過ごします。
ところが、兄の死など、さまざまの巡り合わせで、嘉永3年(1850)の時、36歳にして、藩主の座が、直弼に…。文化人である直弼は、藩内の文化振興にも尽力する、人々から愛される藩主となります。それから8年後、安政5年(1858)に大老職に就任。すでに日本近海には、外国船が出没し、ペリーも浦賀に来航し、日本に開国を迫ります。
大老に就任した6月には、日米修好通商条約を調印。そのため、朝廷や水戸藩など、それに反対する人々との対立を深め、大老就任の翌年(1859)に反対派を処断する「安政の大獄」を行います。
そして万延元年(1860)3月3日、直弼に政治的に対立する水戸浪士により、江戸城桜田門外にて、暗殺。46歳の生涯を閉じます。
彦根藩主になって10年、大老になって、わずか2年後のことです。
井伊直弼の歴史的評価は、見方によって大きく異なるのだそう。
もちろん、ここ彦根において、直弼は、文化人であり、深い教養をもった人物として高く評価され、尊敬されています。
直弼の死後、彦根藩は、数え年で、13歳の息子の直憲(なおのり)が受け継ぎ、最後の藩主となります。明治に廃藩され、藩主(知事)を免ぜられ、後に伯爵となります。
ちなみに、彦根市長さんは、直弼のひ孫なのだとか…。
さて、井伊直弼の居城であった「彦根城」に話を戻しましょう。
彦根城が、築城されたのは、元和8年(1622)で、廃城となったのは、明治7年(1874)のこと。つまり150年あまりに渡り、井伊家だけの居城だったのです。戦火にも、空襲にも遭わず、残った天守閣です。
「わ~大勢の人が並んでる~」と、天守閣の見学者入口に到着して、ビックリ。休日だったこともあり、待ち時間は、30分を超えました。
「やっと天守閣に登れる~。わ~急な階段…なんかハシゴみたい…」とミモロ。
急こう配の階段を上り、天守閣へと上ります。
壁には、矢や鉄砲を打つための穴が開いています。
「すごい梁…」
見上げると天井には太い梁が…
自然の木のカーブをそのまま活かした建築…大工さんの技術の高さがうかがえます。また、窓の下には、武者が隠れる隠し部屋もあるのだそう。戦いに備え、さまざまな工夫がされているのも城の魅力。
さらに上の層へ。
「わ~いい眺め、琵琶湖が一望だね~。あれ、竹生島かな~?」と、目の前に広がるのは雄大な琵琶湖の景色。竹生島は、もっと遠くじゃないかな~。
彦根の町も眼下に広がります。
「高いね~足がガクガク震えちゃう…」とミモロ。そんな窓ギリギリに立つからでしょ…。
天守閣の屋根に興味を抱くミモロ。
「あ、お花がついた瓦が並んでる…橘かな?」
井伊家の家紋は、橘。なんか側面の瓦の花は、違うみたい…。
ところで現在、国宝に指定されている天守閣は、5か所。ここのほか、姫路城、松本城、犬山城、松江城です。
「すごく立派なお城だね~。平成4年から、世界遺産の暫定リストに載っているのに、まだ登録されてないんだよね~」
彦根の町には、「未来へ残そう!彦根城を世界遺産に!」という言葉が、いろいろな場所に…。
「リニアを京都に…より願いが叶う可能性、高いと思うよ~」とミモロ。大きな声で言ったらダメ~。
「ひこにゃん 頑張ってね~」と、全国に知られる人気ゆるキャラのひこにゃんにエールを送るミモロです。
天守閣の前には、ひこにゃんが定期的に姿を見せるそう。でも、ミモロは、この日、残念ながら、時間が合わず、本物のひこにゃんに会うことはできませんでした。「つまんないの~」と、やや不満そうなミモロです。
さぁ、次は、表御殿のある「彦根城博物館」に行きましょう。
*「彦根観光ガイド」のホームページで、詳しく彦根を知ってください。
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