相撲協会は今日、野球賭博に関係した大嶽親方と大関琴光喜を解雇した。また、仲間内でお金を賭けて花札をしていた横綱白鵬が陳謝した。琴光喜は愛知県岡崎市の出身であり、郷土が同じ三河というだけで落胆も大きい。内気な性格から出世できないと言われていたのに、性格の弱さがこんな風に出てしまったのかと思うと残念だ。仲間内でお金を賭けて遊ぶことはよくある。家庭マージャンでも「お金を賭けないと本気になれない」とか言って、家族でもお金を賭けてやっているケースはある。我が家でもトランプ遊びが家族で流行っていた時、お金ではなかったが1番の勝者から順に好きなケーキを選ぶ権利が与えられた。
勝負に対して、勝った方には褒美を、負けた方には罰を与えることは、そうすることが励みになるのだと昔から行われている。だから人はいつも勝とうとする。それはただ、技量を磨いたり、知識を蓄えるための方法の1つに過ぎなかったはずだけれど、勝負に参加するあるいは本人の意思に関係なく参加することになってしまった人は、勝つこと自体が目的になってしまう。人は目標があれば努力するけれど、目指すものがなければ何をしてよいのかわからなくなる。目標はいつも勝つことではないけれど、勝負はもっとも分かり易い目標となるのは事実だろう。
それにしてもと思う。サッカーW杯を見ていると、絶対に強いと思っていたブラジルやアルゼンチンが負けている。全力を投入し、120%の力を発揮し、攻めて攻め抜いていたにもかかわらず、結果は負けである。辛いだろうが現実である。勝者がいることは敗者がいるということである。どうしても勝者に目がいってしまうし、その功績を讃えたいのは当然だと思う。けれども、敗者と勝者の間にどれほどの差があるというのだろう。勝負はどちらかに決めなくてはならない。ケリがつかなければPK戦で決めなくてはならない。
私はスポーツを好まなかった。身体を動かすことは好きで、走るのは速い方だったけれど、どうも根性がなかった。努力しなければ勝てないことが嫌だった。繰り返し身体を鍛え、技術を磨き、鍛錬を積み重ねることが苦手だった。根性が無いというよりも根性が腐っているような子どもであった。孫娘がひたすら練習に打ち込む姿には頭が下がる。長女のダンナは好きなこととは言え、音楽に夢中になっている。仕事をし、家事を負担し、なおかつ好きな音楽に時間を注ぎ込むのは容易なことではない。
周りを見渡すと、地道に努力をしている人の方が圧倒的に多い。普通に地道に毎日を送っている人は、その毎日の小さな勝負の積み重ねに打ち勝っているのだろう。そう思うと、人はいつも勝負をしているのかもしれないが、勝負の結果にこだわってはいないのかもしれない。いやむしろ、毎日の勝負の連続の中にいるから、勝負そのものに気が付かずに暮らしているのかもしれない。勝負の1つひとつにこだわることのないままに生きているのが普通の人間なのだろう。
勝負に対して、勝った方には褒美を、負けた方には罰を与えることは、そうすることが励みになるのだと昔から行われている。だから人はいつも勝とうとする。それはただ、技量を磨いたり、知識を蓄えるための方法の1つに過ぎなかったはずだけれど、勝負に参加するあるいは本人の意思に関係なく参加することになってしまった人は、勝つこと自体が目的になってしまう。人は目標があれば努力するけれど、目指すものがなければ何をしてよいのかわからなくなる。目標はいつも勝つことではないけれど、勝負はもっとも分かり易い目標となるのは事実だろう。
それにしてもと思う。サッカーW杯を見ていると、絶対に強いと思っていたブラジルやアルゼンチンが負けている。全力を投入し、120%の力を発揮し、攻めて攻め抜いていたにもかかわらず、結果は負けである。辛いだろうが現実である。勝者がいることは敗者がいるということである。どうしても勝者に目がいってしまうし、その功績を讃えたいのは当然だと思う。けれども、敗者と勝者の間にどれほどの差があるというのだろう。勝負はどちらかに決めなくてはならない。ケリがつかなければPK戦で決めなくてはならない。
私はスポーツを好まなかった。身体を動かすことは好きで、走るのは速い方だったけれど、どうも根性がなかった。努力しなければ勝てないことが嫌だった。繰り返し身体を鍛え、技術を磨き、鍛錬を積み重ねることが苦手だった。根性が無いというよりも根性が腐っているような子どもであった。孫娘がひたすら練習に打ち込む姿には頭が下がる。長女のダンナは好きなこととは言え、音楽に夢中になっている。仕事をし、家事を負担し、なおかつ好きな音楽に時間を注ぎ込むのは容易なことではない。
周りを見渡すと、地道に努力をしている人の方が圧倒的に多い。普通に地道に毎日を送っている人は、その毎日の小さな勝負の積み重ねに打ち勝っているのだろう。そう思うと、人はいつも勝負をしているのかもしれないが、勝負の結果にこだわってはいないのかもしれない。いやむしろ、毎日の勝負の連続の中にいるから、勝負そのものに気が付かずに暮らしているのかもしれない。勝負の1つひとつにこだわることのないままに生きているのが普通の人間なのだろう。