友だちが「立ちくらみがする」と言い、今朝の会議を欠席した。どうも見ていると彼は夏場に弱い。何時だったか、貧血になって倒れたことがある。最近の彼の様子を見ていても、元気に波がある。暑い時だから無理せず、担当の記録係りに努めてくれればいいよいと言うのだが、本人は仲間としてじっとしていることは出来ないようだ。口も出すが、真面目だから身体も動かそうとする。そんな真面目な性格は毎日怠けずにエアロバイクに乗り、身体を鞭打つことを欠かさない。もう、私たちも年寄りなのだから、身体を鍛えることに誠実になる必要はないと思うけれど、彼は黙々とやりきることに歓びを感じているようだ。
彼は大学ではラグビー部であったというから、体育系の人は何時まで経っても身体を鍛えることを使命と思っているのだろう。怠けるという気持ちを、情けないというか悪と思っているのかもしれない。他人のことまでとやかく言うことはないけれど、歳をとってきたのだからもう適当でいいのではないだろうか。もちろん何が何でも長生きしなければならないような事情があれば、そのために健康管理に人一倍気を配っているかもしれないが、そうでもなければ65歳を超えれば、あとは儲けものと思ってもいいのではないだろうか。
小学校のクラス会で、三途の川を渡り損なった人が3人もいた。三途の川の周りはとてもきれいな花が咲いていて、川面もキラキラと輝いていたそうだ。もっといいところへ連れて行ってもらえるところで、名前を呼ぶ声がして現実に引き戻されたという。この世とあの世を行き来した話は他でも聞いたことがあるけれど、私は自分にそんな体験がないので、まあそんなものだろうと思ってしまう。人は自分が得た知識からどんどん空想を膨らませることができるものだ。そんなわけで、私は霊とか霊感とかを、ふんふんと聞いてはいるが全く信じていない。そういう人間の知識を超えたものがあるのだろうとくらいにしか考えない。
ドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』の上映を実力で阻止しようとする人々がいる。映画は観ていないけれど、悪書追放運動と重複してしまう。事実と違うとか、日本の食文化を理解していないとか、いろいろ言われているけれど、こんな映画はダメだ、こんな書物は悪だと言うのであれば、見なければいいのにと思ってしまう。どこかの県会議員が官能小説を政務調査費で購入していた。私は、へぇーこんな人でも官能小説を読むのだと感心したが、そんな私的な楽しみは公金を使うべきでないと判断できない幼稚性に呆れてしまった。
官能小説にしても、意図的に作られたドキュメンタリーにしても、右でも左でも、あることが健全だと私は思っている。いろんな人がいるのに、これしかダメとかこれしかないということはあり得ない。霊を信じる人もいれば、数学的世界しか信じない人もいる。いろんなものの存在を許し、受け入れ、咀嚼できる自分になっていくことが大事で、そのためにはこれはダメ、あれもダメと遠ざけることではないと思う。一途もいいけれど、ふらふらしてもいいじゃないか。
彼は大学ではラグビー部であったというから、体育系の人は何時まで経っても身体を鍛えることを使命と思っているのだろう。怠けるという気持ちを、情けないというか悪と思っているのかもしれない。他人のことまでとやかく言うことはないけれど、歳をとってきたのだからもう適当でいいのではないだろうか。もちろん何が何でも長生きしなければならないような事情があれば、そのために健康管理に人一倍気を配っているかもしれないが、そうでもなければ65歳を超えれば、あとは儲けものと思ってもいいのではないだろうか。
小学校のクラス会で、三途の川を渡り損なった人が3人もいた。三途の川の周りはとてもきれいな花が咲いていて、川面もキラキラと輝いていたそうだ。もっといいところへ連れて行ってもらえるところで、名前を呼ぶ声がして現実に引き戻されたという。この世とあの世を行き来した話は他でも聞いたことがあるけれど、私は自分にそんな体験がないので、まあそんなものだろうと思ってしまう。人は自分が得た知識からどんどん空想を膨らませることができるものだ。そんなわけで、私は霊とか霊感とかを、ふんふんと聞いてはいるが全く信じていない。そういう人間の知識を超えたものがあるのだろうとくらいにしか考えない。
ドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』の上映を実力で阻止しようとする人々がいる。映画は観ていないけれど、悪書追放運動と重複してしまう。事実と違うとか、日本の食文化を理解していないとか、いろいろ言われているけれど、こんな映画はダメだ、こんな書物は悪だと言うのであれば、見なければいいのにと思ってしまう。どこかの県会議員が官能小説を政務調査費で購入していた。私は、へぇーこんな人でも官能小説を読むのだと感心したが、そんな私的な楽しみは公金を使うべきでないと判断できない幼稚性に呆れてしまった。
官能小説にしても、意図的に作られたドキュメンタリーにしても、右でも左でも、あることが健全だと私は思っている。いろんな人がいるのに、これしかダメとかこれしかないということはあり得ない。霊を信じる人もいれば、数学的世界しか信じない人もいる。いろんなものの存在を許し、受け入れ、咀嚼できる自分になっていくことが大事で、そのためにはこれはダメ、あれもダメと遠ざけることではないと思う。一途もいいけれど、ふらふらしてもいいじゃないか。