友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

子どもから大人へ

2010年07月09日 20時23分14秒 | Weblog
 隣の小学校のプールから、歓声とハンドマイクで呼びかける先生の声が聞こえてくる。プールの季節、子どもたちは元気がいい。いいや、子どもはいつも無邪気で元気だ。それなのに、自分の家に火を放ったり、イライラしたからと駐車している車に火を点けたり、ビックリするような事件が続いている。川で遊んでいて、わざと背中を押して溺れさせたり、悲惨な事件ではコンクリート殺人事件もあった。確かこれも10代の子どもが起こしたことだ。

 小学校の運動場を眺めていると、本当にみんな元気に無邪気に遊んでいる。どうやらクラスは2つか3つのグループに分かれ、男の子同士や女の子同士が圧倒的に多いが、意外に男女混合のグループもある。運動場を見ている限りでは、ひとりでポツリといる子はいないように見える。こんな風に一見仲が良いように見える子どもの世界でも、学年が上がるとともに、違った要素が生まれてくる。先日の小学校のクラス会で初めて知ったけれど、女の子は2つのグループに分かれていたそうだ。男の子は、リーダーだった子が転校したので、強力なボスが存在しなかった。

 それでも目立つ子が中心になって、ヤンチャをしていたらしい。すると目立つ子のせいにして、ヤンチャを煽る子もいたらしい。私は学級委員や児童会長をしていたが、ほとんど記憶にない。おとなしくて消極的な性格を直そうと思うようになったのは小学校の5年生の後半で、そのために児童会長にも立候補した。何とか積極的な、大きな声が出せる、男の子になろうと決めていた。

 中学生になった時、国語の先生が「君たちはもう大人だ。だから、父ちゃん、母ちゃんとは呼ぶな。お父さん、お母さんと言いなさい」と言われた。なぜかその時、そうだもう自分は大人だ。大人はひとりの人間として独立した存在だ。自分は独立した存在なのだから、しっかりと自分を磨いていこう。人間を高めていこう。そう思った。母親が「男はジェントルマンでなくちゃダメだよ」と言っていたことと重なり、紳士であることが大人なのだと思った。

 中学生になって、自己改革は完成した。自分の中に閉じこもり、積極性に欠けるおとなしいだけの子どもから、紳士である大人に変身した。付いて回りの子どもから、クラスをまとめていく大人になっていた。しかし、大人になるということは同時に人間としての存在の矛盾に気付くという課程でもあった。純真にひとりの女性に恋しているのに、恋とは正反対のエロスに曳かれている。事実と妄想、理想と現実、愛と憎しみ、相反する矛盾をうまく整理することができなかった。

 子どもたちの犯罪を新聞やテレビで知る。もう少し、どこかで誰かが、声をかけてあげていたならきっと防ぐことができたであろうと思う。正常も異常も、実に紙一重の差だと思う。あんなに無邪気に遊んでいる子どもたち、純真で何の恐れもない子どもたち、それが大きくなるに従い、他人に暴力を振るったり、家族を痛めつけたり、さらには人殺しにまで行なってしまう。どこかにワナがあるのではないのか。人の優しさ、人の愛、人の温かさ、きっともっと触れていたなら、人を傷めたりはしないだろう。どこまでも人間は愛されることを求めている。
コメント
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