今日も暑い。まだ暑さが残る夕方、ひょっこりひょっこりと駅から友人が歩いてくる。彼は口笛を吹いているのか、歌でも歌っているのか、身体を左右に揺するように歩いてくる。初めて見た時は、酔っ払っているのかと思ったけれど、彼はいつもこんな風に、楽しそうに歩いている。傍から見ると、ニヤニヤした奇妙なくらい楽しそうな歩き方だ。彼は有名進学校の校長を務めた後、大学に招かれて教授になっている。
誠実で、ユーモアもあり、面白い人だけれど、ひょっとしたらこの人はADHD(多動性症候群)かと思う時がある。高校の校長を務めた人だから、もちろん常識や思慮に富んでいる。にもかかわらず、彼のこうした自由な振る舞いを見る時、この人は今ならADHDと診断されてしまうのではないかと思ってしまう。今、学校では授業に集中できない子どもをたくさん抱えているそうだ。賢くて、試験をすれば良い成績が取れるけれど、どうも他の子どもたちと同じことができない。ちょっとしたことでなぜか激情的になってしまう。そういう子どもがたくさんいるのだ。
でも待てよと私は思う。私たちの子どもの頃でもそういう子はいたような気がする。頭がいいのにみんなと同じことができないとか、すぐカッとなって騒ぎ出す、そんな子はいたのではないだろうか。たまたま、成績がよかったり、親が会社のエライ人であったり、社会的な評価が高かったりすると、学校は見ない振りをしていたのではないだろうか。社会もそんなことには関心もなかったし、子どもたちに特有な症候群の存在など気にもしていなかったと思う。
ADHDだとかアスペルガー症候群などという言葉が一般的に使われだしたのは、最近のことではないだろうか。どういう経過で、このような言葉が生まれたのか私は知らないが、余りにもいろいろと分析しすぎるのではないかと思う。たとえば、昔もいろいろあったのだろうけれど、今では覚えきれないくらいの病名がある。病名が何だろうと、死ぬ時は死ぬものだと思うけれど、今日ではこんな病気があるのかと思うほどたくさんの病名がある。これと同じように、子どもたちについてもさらにいろいろと分析しようとしている。
科学は分類することから始まるのかもしれないが、素人の私には「それでどうなの?」としか思えない。ADHDだとかアスペルガー症候群だとかに分類して、それでいったいどうするのだろう。私から見れば、金子みすずではないけれど、「みんなちがって、みんないい」。それが人間なのに、どうしてこうも「違っている」ことに目くじらを立てるのだろう。学校現場では、みんなと違う子どもがいればそれだけ手間がかかるから、一律にして効率を上げようとする。これに父母らも「うちの子だけはよく見て欲しい」と勝手なことを要求する。
教育は個人を伸ばすことにある。一律に重点が置かれたのは、工場労働者が必要となってからだ。しかし、それでは限界があることに今、ぶつかっている。
誠実で、ユーモアもあり、面白い人だけれど、ひょっとしたらこの人はADHD(多動性症候群)かと思う時がある。高校の校長を務めた人だから、もちろん常識や思慮に富んでいる。にもかかわらず、彼のこうした自由な振る舞いを見る時、この人は今ならADHDと診断されてしまうのではないかと思ってしまう。今、学校では授業に集中できない子どもをたくさん抱えているそうだ。賢くて、試験をすれば良い成績が取れるけれど、どうも他の子どもたちと同じことができない。ちょっとしたことでなぜか激情的になってしまう。そういう子どもがたくさんいるのだ。
でも待てよと私は思う。私たちの子どもの頃でもそういう子はいたような気がする。頭がいいのにみんなと同じことができないとか、すぐカッとなって騒ぎ出す、そんな子はいたのではないだろうか。たまたま、成績がよかったり、親が会社のエライ人であったり、社会的な評価が高かったりすると、学校は見ない振りをしていたのではないだろうか。社会もそんなことには関心もなかったし、子どもたちに特有な症候群の存在など気にもしていなかったと思う。
ADHDだとかアスペルガー症候群などという言葉が一般的に使われだしたのは、最近のことではないだろうか。どういう経過で、このような言葉が生まれたのか私は知らないが、余りにもいろいろと分析しすぎるのではないかと思う。たとえば、昔もいろいろあったのだろうけれど、今では覚えきれないくらいの病名がある。病名が何だろうと、死ぬ時は死ぬものだと思うけれど、今日ではこんな病気があるのかと思うほどたくさんの病名がある。これと同じように、子どもたちについてもさらにいろいろと分析しようとしている。
科学は分類することから始まるのかもしれないが、素人の私には「それでどうなの?」としか思えない。ADHDだとかアスペルガー症候群だとかに分類して、それでいったいどうするのだろう。私から見れば、金子みすずではないけれど、「みんなちがって、みんないい」。それが人間なのに、どうしてこうも「違っている」ことに目くじらを立てるのだろう。学校現場では、みんなと違う子どもがいればそれだけ手間がかかるから、一律にして効率を上げようとする。これに父母らも「うちの子だけはよく見て欲しい」と勝手なことを要求する。
教育は個人を伸ばすことにある。一律に重点が置かれたのは、工場労働者が必要となってからだ。しかし、それでは限界があることに今、ぶつかっている。