今日もまた暑い。そんな夏空に向かって、ひまわりが凛としている。まるで前に進みなさいと励ましてくれているようだ。都会の中の一角に、ひまわりが咲いていた。背が高く、大空に向かって堂々と胸を張っているようにも見える。もう嫌だと後ろ向きになりそうな時に、ひまわりは暑さの中でもしっかりと立っている。その感動を短歌で表すとどうなるのだろう。
背高く胸張るひまわり美しく教えてくれる前に進めと
短歌は自分の気持ちを素直に表せばよいのだから、背の高いひまわりを見て、前に進みなさいと言ってくれていると、感じたことをそのままを歌にしてもいいはずだ。けれども、私の短歌の先生は、「美しいとか、悲しいとか、そういう言葉は使わずに作りなさい」と言う。それではこういう歌はどうだろう。
ひまわりは空に向かいて胸を張り前に進めと教えてくれる
だけど、どうもお説教調である。もう少し、凛としたひまわりにスポットを当ててみたらどうだろう。
ひまわりは前に進めと言う如く背筋伸ばして大空にあり
俳句を作っている私の友人の弁護士から、句集が贈られてきた。その扉で、「俳句はおもしろい。さほど俳句を作っていない人がさっと素晴らしい句を作ってしまうことがある。かと思えば何年作ってもたいした句ができない人もいる。〈俳句は〉誰でも作ろうと思えば簡単に作ることができる。そして、どんな名句よりも自分の句がいい句ではないかと思ってしまう。俳句はまさに独断的主観の世界だ。(略)そもそも俳句の善し悪しに絶対的な基準があるわけではない。」と述べていた。
彼も私も本格的に俳句作りや短歌作りを学んだわけではないので、「独断的主観の世界」と言い切れるのだろう。私に言わせれば表現は、不特定多数の人々に向かって発せられるのに、きわめて主観的なものだと思う。発する自分がまずこれはいいと思うから、不特定多数に向かって発することができる。歌にしろ、音楽にしろ、文学にしろ、舞台にしろ、映画にしろ、絵画や彫刻にしろ、表現した時点で不特定多数の人々から評価を受ける運命にある。発信者は特定の人々を頭においているにしても、必ず不特定多数の人々を意識しているはずだ。
表現は他者への自己の呼びかけである。このまま、主婦で終わってしまうことに恐怖とか未練とかを覚える人もいる。いや、こういう人は多いかもしれない。しかし実は、夫である男性も、主婦の父や母や祖父や祖母も、みんな同じだ。歴史上に名を残すことが生きた証拠であるというなら、そんな人は数少ない。それに名を残したからと言って、それが何なのだろう。ただの普通の主婦と、たとえばたくさんの人から支持されて当選した女性議員と、どこにどれほどの違いがあるというのだろう。
もっと言えば、前向きに生きた人と後向きな人と、その評価を他人がしたところで何の意味があるのだろう。生きているのは本人である。本人が納得できるか否かが大事なことだと思う。
背高く胸張るひまわり美しく教えてくれる前に進めと
短歌は自分の気持ちを素直に表せばよいのだから、背の高いひまわりを見て、前に進みなさいと言ってくれていると、感じたことをそのままを歌にしてもいいはずだ。けれども、私の短歌の先生は、「美しいとか、悲しいとか、そういう言葉は使わずに作りなさい」と言う。それではこういう歌はどうだろう。
ひまわりは空に向かいて胸を張り前に進めと教えてくれる
だけど、どうもお説教調である。もう少し、凛としたひまわりにスポットを当ててみたらどうだろう。
ひまわりは前に進めと言う如く背筋伸ばして大空にあり
俳句を作っている私の友人の弁護士から、句集が贈られてきた。その扉で、「俳句はおもしろい。さほど俳句を作っていない人がさっと素晴らしい句を作ってしまうことがある。かと思えば何年作ってもたいした句ができない人もいる。〈俳句は〉誰でも作ろうと思えば簡単に作ることができる。そして、どんな名句よりも自分の句がいい句ではないかと思ってしまう。俳句はまさに独断的主観の世界だ。(略)そもそも俳句の善し悪しに絶対的な基準があるわけではない。」と述べていた。
彼も私も本格的に俳句作りや短歌作りを学んだわけではないので、「独断的主観の世界」と言い切れるのだろう。私に言わせれば表現は、不特定多数の人々に向かって発せられるのに、きわめて主観的なものだと思う。発する自分がまずこれはいいと思うから、不特定多数に向かって発することができる。歌にしろ、音楽にしろ、文学にしろ、舞台にしろ、映画にしろ、絵画や彫刻にしろ、表現した時点で不特定多数の人々から評価を受ける運命にある。発信者は特定の人々を頭においているにしても、必ず不特定多数の人々を意識しているはずだ。
表現は他者への自己の呼びかけである。このまま、主婦で終わってしまうことに恐怖とか未練とかを覚える人もいる。いや、こういう人は多いかもしれない。しかし実は、夫である男性も、主婦の父や母や祖父や祖母も、みんな同じだ。歴史上に名を残すことが生きた証拠であるというなら、そんな人は数少ない。それに名を残したからと言って、それが何なのだろう。ただの普通の主婦と、たとえばたくさんの人から支持されて当選した女性議員と、どこにどれほどの違いがあるというのだろう。
もっと言えば、前向きに生きた人と後向きな人と、その評価を他人がしたところで何の意味があるのだろう。生きているのは本人である。本人が納得できるか否かが大事なことだと思う。