友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

心の欲するところに従う

2010年07月18日 19時41分56秒 | Weblog
 庭の樹木に、定期的に水遣りができるようにして欲しいと言う。1メートルほどの高さに水槽を置き、ここに井戸水を入れて、その水圧で庭にめぐらせた配管から散水できるように設計する。今日の午前中は、水槽を載せる土台作りである。庭の一角を掘り、整地して、ブロックを積むために基礎のコンクリートを打つ。そしてブロックを積み上げていく。午前中はまだ曇り空だったから、作業するのには助かった。ブロックは5段積みにするのだが、今日は2段までとした。急いでやって傾いてはアカンという設計者の指示である。

 私たちのような金儲けを目的としていないがために、時間のかかる作業を依頼主も大きな気持ちで見守っていてくれる。今日の依頼主は長靴を履き、汚れてもよいような服装で迎えてくれたから、本当は私たちと一緒に作業がしたかったのかも知れない。依頼主は昭和17年生まれと言うから、今年68歳である。一生懸命に働いてきて、店は息子が継いでくれた。これからは自分が楽しむことをしてもよいのではないかと、庭を造り、野菜を育て、「工作ができる作業場を作りたい」と話す。

 孔子も「50にして天命を知る。60にして人の言うことを素直に聞けるようになった。70にして心の欲するところに従う」と人生を振り返っている。年を重ねれば当然にも丸くなる。他人の言うことを受け入れる幅が生まれてくる。だから、心の欲することをやっていきなさいと言ったのだと思う。孔子はこの後に「矩を踰えず」と言ってるので、好きなことをやっても規範を踏み出すことはないだろうというのだろう。規範に囚われることなく、欲することをしてみればよいと私は思う。

 昨日の朝日新聞に、高齢出産の特集記事があった。いくら子どもが欲しいといっても、高齢で出産するのはリスクが大きいだろう。40代で出産したなら、子どもが成人式を迎える前に自分が定年を迎えることになる。意味は違うが、「40にして惑わず」である。子どもがいることだけが幸せではないはずだ。幸せの形は無限大だと思うが、その記事の隣に「それは愛なの?」という囲み記事があった。

 好きな人が「今どこにいる?何している?」と聞くのは、私を好きだからだと思っていた。一緒に暮らし始めると、家に閉じ込められ、携帯電話もパソコンも使えなくなり、外とのつながりは彼を通してしかできない。時には暴力を振るわれ、オマエが悪いと責められる。暴力がない時は優しく頼りがいのある人なので、私が悪いところを直せばきっと優しくしてくれる。そう思って耐えてきたけれど、心も身体も傷だらけになっていた。そんなDVが載っていた。

 愛の形も幸せの形も無限大だと思うけれど、「これって本当の愛?」とどうして考えなかったのだろう。愛も幸せもつくっていくものだ。やはり、20代や30代では未熟ということか。そうなると私たちは俄然勢いづく。「心の欲するところに従うぞ!」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする