修復工事は完成した。水が出なかった中学校の井戸、その原因は使っていなかったことだ。吸管に使われていた鉄管の入水口は錆びて塞がっていた。毎日、何度も水を汲み上げていれば、こんなことにはならなかっただろう。塩ビ管に取り換えたが、毎日汲み上げなければ同じことになるだろう。「防災に役立つのでは?」と提案してきた生徒たちが、この井戸を毎日使ってくれるように祈りたい。
伝承は、たとえば祭りの芸能のように、先輩とか大人が後輩や子どもに、身振りや手振りで伝えていけば何百年も続くが、人から人への申し伝えは文書でもなければ意外に途切れてしまう。この中学校の井戸もなぜここにあるのか分からないようであるし、児童館や児童公園にも防災用に井戸が掘られたが、今ではすっかり忘れられている。人間はどうしても目先のことを優先し、長い目で見る余裕がない。
中学校の運動場を見ていると、サッカー部の練習に参加する人数は野球部の4倍くらい多い。甲子園で春の大会が始まったが、それでも子どもたちの関心は野球よりもサッカーにあるようだ。50年近く前の私の中学生の頃は、野球部は格好いい男子が多く、サッカー部は太めでがっちりした体格の者が多かった。練習を見ていても野球部はなぜかスマートだったのに、サッカー部は泥臭い感じがした。
集団訓練が嫌いな私は運動部には属さず放送部だった。好きだった女の子のために放送劇のシナリオまで書いたが、放送には至らなかった。シナリオを書くために、放送室にあったレコードを片っ端から聴いたおかげで、バッハの音楽は同じ調べの繰り返しで気持ちがよいことや、ベートーベンは音楽を組み立て作り出していること、ドビッシーは不協和音を巧みに組み込んでいることなどを知った。文学や絵画に古典からロマンそして近代への流れがあるのと同じだった。
子どもたちもきっと時代を感じつつ、自然に新しい時代を生きていくことになるのだろう。私は自分がどういう子どもだったのか、友だちは私をどのように見ていたのか、ふとそんなことを運動場で大声を出す子どもたちを見ながら思った。