友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

不定期刊行物が届きました

2008年09月20日 19時59分28秒 | Weblog
 年老いても元気な人はたくさんいる。大和塾の塾生の先輩方は知的好奇心が極めて旺盛だ。読書家でしかも行動的だ。家にいて本ばかり読んでいる生活とは全く無縁で、興味があればあちらこちらへ出かけていく。近いところならば自転車で、京都や東京なら新幹線で、さっさと出かけている。話題は豊富で、常に新鮮だ。

 そんな先輩のひとりから、不定期刊行物が届いた。私が生まれた昭和19年に小学校を卒業したというから、昭和6年生まれの77歳。この方から届く不定期刊行物はA判4ページの本格的な冊子の形をなしたものだ。文字は細丸ゴチの10ポイントではないかと思う。とにかく文章がぎっしりと詰まっていて、読み甲斐はある。

 1ページ目は、「今月の詩」で、俳句が1句掲載され、その解説が書かれている。もう一つは「私の視点(耄碌老人のひとり言)」。いわばこの冊子の「主張」あるいは「社説」に当たるが、決してお堅い話でないところがこの人の人柄である。

 今月のテーマは「皮」。「化けの皮はかぶるときはかぶる当人のみの秘密の作業であり、剥がすのは他人の手によるものになる。昔からよく使われることによって、益々厚く強靭になっている皮であるらしい。(略)一方ボケの皮もある。この皮をかぶるには多少の条件と修練がいる。この皮をかぶって見せるのは、ある程度の年齢に達し、対象となる相手との年齢が大きく離れていなくてはならない」。

 そして、「化けの皮」と「ボケの皮」の違いをこんな風に解説している。「化けの皮をかぶることは下手をすれば罪を犯すことにもなりかねないが、ボケの皮をかぶるのは、ちょっとお洒落なご愛嬌ともなるであろう」。そして最後に、「昨年の参議院選挙で『姫のトラ退治』で有名になった某女性議員」を取り上げ、「ボケの皮をかぶるつもりだったとしたらややお粗末である。(略)だいたいボケの皮をかぶるには色気がありすぎる」と書いた後、「福田首相の突然の辞任劇で、このニュースは吹っ飛んでしまった。なんじゃ、こりゃー」と結んでいる。

 2ページ目は自分史。3ページ目は「俳句への問い」と「書物の森でみつけたことば」。4ページ目は「つれづれの記」と「編集後記」。その「つれづれの記」を読んでいたら、3人の孫たちの書道展が写真付で載せてあった。その3人の孫の名前が面白かった。「丈路」「留圭」「鈴音」。読み方は左より、「じょうじ」「るか」「すずね」とあった。私は「ひやー、なんじゃ」と笑ってしまった。

 失礼しました。ごめんなさい。〈わからない人のために解説します。カタカナですとジョージ・ルーカスとなりますよ〉
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台風が来た日

2008年09月19日 22時15分28秒 | Weblog
 台風13号が近づいている。しかし、雨は降ったりやんだりで、風も吹いていない。こんな日は仕方ないから読書に限るとばかりに本を読むが、なかなか身が入らない。ロシアの作家、トルストイについての解説で「人道主義的作家」とあった部分だけを見て読まずに来たけれど、『アンナ・カレリーナ』が話題になった時、全く知らなくて恥ずかしかった。トルストイについては何一つ話すことが出来なかったのだ。

 丁度、光文社の新書『“カラマーゾフの兄弟”の続編を空想する』(亀山郁夫著)を読んでいた時だったので、光文社古典新訳文庫が目に付いた。望月哲夫訳の『アンナ・カレリーナ』は確かに読みやすい。読みやすいからどんどん読めるのだが、今日は会いたい人に会えず、大事なことが先送りされていくことに苛立っていた。物事は自分の都合だけで進むものではないことは充分わかっているつもりだったのに情けない。

 『アンナ・カレリーナ』はかなりの長編だ。そういえば、トルストイの作品は長編が多い。トルストイの時代は小説の発表とか販売はどのように行なわれていたのだろう。そういう社会的な事情が長編ものになったのだろうか。私はまだ、2巻の真ん中辺りを読んでいるに過ぎないが、トルストイという作家はかなり読み手を意識して物語を展開しているように感じた。登場人物も多く、いったい誰が主人公なのかと思えるほどそれぞれの人生、それぞれの生き方が描かれているし、その時代の社会描写も細やかになされている。

 ロシア革命前の社会がどのような構造であったのか、ドストエフスキーの作品よりもよくわかるように思った。ロシア革命が農夫を味方にしなければ成り立たない背景もよくわかった。学研の現代新百科事典によれば、「宗教と人間性との相克に絶えず悩み続けた彼は、50歳で宗教への転向を宣言した。彼の道徳的求道心は『アンナ・カレリーナ』(1873~77)に、宗教的転換後の彼の姿は『復活』(1899)に体現されている」とある。

 『アンナ・カレリーナ』の主人公のアンナは若い将校と恋に落ちてしまう。今ならば不倫小説だ。でも読んでいると、貴族社会では普通のことのようだ。日本でも源氏物語のような社会があったし、江戸時代の男女関係もかなり現在の規範とは異なる。社会の違いを踏まえたとしても、これからどんな展開になるのか楽しみだ。百科事典の解説に従えば、『アンナ・カレリーナ』を書いていた頃はまだ宗教と人間性との相克に悩んでいたことになるが、私が読んだ範囲では宗教には大きな関心はないように思われるから、「人生の真実を求め続けた」のだろう。

 『アンナ・カレリーナ』を読み終えたなら、次は『復活』を読んでみようと思う。
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人類の宿命

2008年09月18日 23時41分04秒 | Weblog
 今日は残された時間が無いので、ちょっと焦っている。名演で観た『東京原子核クラブ』の中に、気になるセリフがあった。『東京原子核クラブ』は原子の謎解きに挑戦する物理学者を主人公に描いた芝居だ。この世は分子の結合で出来ている。その分子は原子から成り立っている。それでは原子は何で成り立っているのか?

 物理学者は「到達した地点を消し去ることはできない」と言う。それは物理学だけではない、医学だってそうであるし、科学とはまた然りだろう。要するに人類は到達した時点から以前に戻ることはできない。それが人類の歩いてきた道であり、歴史の真実であろう。科学者は各自のテーマをそれぞれに解き明かすことに情熱を燃やすし、それを食い止めることは出来ないのだ。

 それは人間が背負っている宿命だと私は思う。人の智恵が人を滅びに追いやるであろう。それがこの地球で生命を得た人類の宿命であろう。『東京原子核クラブ』の中で、何かを発見することは、いや新しい発見を見出すことは、「何千人もの科学者がいてもたった一人がそのインスピレーションによって生まれる」というセリフがあった。何かを発見する人は、モヤモヤした中に一つの光を見ることが出来る人だと言う。

 その感覚は私も分かる。それは物理学や医学や化学といった科学の世界だけでなく、たとえば美術でもおそらく文学でも音楽でもあると思う。自分がテーマにしていたものが、はっきりと形として見えた時、人は多分偉大な作品を作り上げることが出来るのだ。

 科学は確かに人類の思惑を超えて進歩した。思惑を超えたからこそ、もう人の手ではコントロールできないものとなってしまったのだ。人類はそれでもなお、この世界をコントロールできると思い込んでいる。なぜなら自分たちが創り出したものなのだから、自分たちがコントロールできないはずはないと信じたいのだ。けれども科学者が自分たちの到達地点よりも常に先に行ってみたいという欲望を抱いているように、もう人類は自分たちの力でこれを食い止めることは出来ない。

 「人間は本能が壊れた動物である」という岸田秀氏の言葉に出会って、私はモヤモヤとした中に一つの光を見た気がした。それを私はいつか何かの形で明らかに出来たらなと思っている。
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60代の男たちの談笑

2008年09月17日 21時29分34秒 | Weblog
 60代の男たちが喫茶店で話す内容はどんなことが多いだろうか。政治や社会情勢、仕事や趣味、子どもや世代のこと、集まる人たちにもよるけれど話題の幅はなかなか広い。中でも盛り上がるのは、政治や社会情勢のことだ。先日も、福田総理の突然の辞任が話題になった。話の中身は、世間一般とそんなに変わるものではなく、「安倍、福田と2代続けて総理が責任を放棄したこと」についてであった。

 「自民党という政党が末期的な状況にある」という認識で一致したものの、なぜ末期的なのかということでは意見が分かれた。「安倍・福田ともに2世議員で、議員の世襲がこの結果を生んだ」と言う人、「政治家が責任を放棄し、軍部の横暴を抑えられなかった昭和初期の政治状況と似ている。今は企業の言いなりになってしまっている」と見る人、「議員は自分が次に当選することに汲々とし、本当に何をしなければいけないのかを考える議員がいない。もちろん目先の利益ばかりで議員を選ぶ、有権者が最も悪い」と分析する人など色々。

 自民党総裁選挙で麻生氏が20代の若者と80代以上の高齢者に人気があるのはなぜなのかについても話題になった。私にはその理由はよくわからないが、新聞の投書欄を見ていておやっと思うことがあった。福田総理が退陣表明の記者会見で「ひとごとのように言われるが」という質問に、「私は自分自身を客観的に見ることができる。あなたとは違う」と、質問した記者をにらみつけて言い放った。これは決して評価できるものではない。投書の大方も「無責任極まりない」というものだった。けれども20代の女性が「いつになく険しい表情で毅然と答え、私は胸がスッとしたと同時に、福田さんの真意を見た気がしました」と書いていた。

 先の喫茶店での四方山話では、80代以上の人と20代の人とは共通するところがあると言う。「自己中心で他の人のことは全く考えない人たちだ。電車に乗る時にも整列しないし、自分のところはきれいにしても平気でゴミを外に放る」。たまたま彼が見た人たちだけでそのように断定するのか危険な気がするが、共通する何かを分析できれば説得力もあるかもしれない。80代以上は私たちの親の世代であり、20代は子どもの世代であることも世代論で見れば興味深いかもしれない。

 「熟年離婚が多いことは知っているか?」と突然話題を変えた人がいた。「定年を迎えたら離婚することになっていたが、定年を前にして夫の方が病気になり、入院生活の中で定年になった。夫の方は入院中だからまさか離婚はないだろうと思っていたが、奥さんは病院に離婚届を持ってきたそうだ」。「逆の話もある。病気治療中の奥さんから突然離婚を言い出された。どうしてか考えた夫は、そんなにワシが世話をするのがいやなのか?と聞いたそうだ。奥さんはハッキリといやだと言った。それでも夫はとにかく病気が治ってからにしようと説得した。でも病気が治ってもやはり離婚だったそうだ」。

 こんな具体的な話は始めて聞いたが、それにしても政治の話では元気がよかった男たちもこの時は真剣にちょっと暗くなってしまっていた。
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経済成長はあり得ない

2008年09月16日 22時07分25秒 | Weblog
 アメリカ合衆国第4位の証券会社が破綻したと、ニュースで何度も取り上げていた。150年の歴史のある証券会社だそうだ。アメリカ政府は公的資金を投入し、この会社を救うだろうと見えられていたが、政府が切り捨てたことに対する不安から、さらに次はどの会社が倒産するのかと投資家らは疑心暗鬼に陥っているそうだ。

 私は本当に経済のこの仕組みがわからない。なぜ、お金を貸すと利息が生まれるのかがわからない。お金を借りて、そのお金で儲けたのだから当然儲けたお金の何がし、つまり何%かを貸した方が受け取ってもいいと言うが、なぜ「いい」のかがわからない。そもそもお金がなぜ儲けを生むのか、新たなお金を生むのかがわからない。

 聞きかじったことなので、本当かどうか定かではないが、イスラム教では利息をとってはならない決まりがあるそうだ。キリスト教でも「貧しき者は幸いである」と教えている。お金を儲けようとすることを禁じているように私は思っていたのだが、そうではなかったのだろうか。

 証券会社というのは、証券を売ってお金を集め、そのお金を投資することで利益を得ようとする会社であると私は理解している。証券会社はお金を貸すことで利息なり利ざやを得ようとしているわけだ。銀行も預金を集め、集めたお金を投資あるいは融資することで利益を上げようとする会社だ。金融機関というものが、売買する商品が実際の「もの」ではなく、お金であることが私には不可思議でならない。

 実体の無いものを取引するのだから、それは信用の上に成り立つ経済活動だ。それで、なぜ利益が生まれるのだろう。いや、そもそも実体のあるものを売る場合は、商品にかかった費用だけでなく、なぜ儲けをプラスすることが許されるのだろう。需要と供給のバランスで商品の値段が決まることは理解できる。けれどもそれも、長い目で見れば人々が生きていくための必要な費用しか計上できないものではないのだろうか。

 自民党総裁選挙で、麻生さんは「経済をよくしなければこの国は成り立っていかない」と演説していたが、経済成長を続ける社会が本当に人類に幸せをもたらすのか、私は否定的だ。地球の大きさは変わらないのに、人類は増え続ける。人類は増え続けるのに、先進国では人口の減少が続いている。日本も例外ではなく、人口が減っているから購買力は低下し、経済成長などありえない。

 先進国の人口減少は良い兆候なのだ。経済のあり方そのものの転換が可能な社会に向かっているのだと私は理解している。ただし、その判断の結果を見極めることは無理だろうけれど。
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「敬老の日」に

2008年09月15日 20時26分17秒 | Weblog
 可児市の『花フェスタ』へ行って来た。我が家のバラは四季咲きで、秋の開花の時期を迎えている。『花フェスタ』ならもっと見事ではないかと思っていたのだが、残念ながらハズレだった。花はほとんどチラホラとしかなく、咲き終わった花柄が茶色く残っていて、なんだかやけに寂しく感じた。おそらくよく通ってきているのだろう、年寄り夫婦の男性が「ほら見ろ、やっぱり11月でなきゃーアカンのだわ」と女性に話していたが、そのとおりなのだろう。

 丁度、コンサートホールで瑞浪市にある私学の中・高校の太鼓部の演奏があったので、30分聞かせてもらった。確かに先日の和太鼓集団TAOほどではないが、女の子が圧倒的に多いのによくここまで打ち込めると感心した。各地に生まれた和太鼓集団が、互いにその実力を競い高めあっている効果がここにも表れているように思う。和太鼓の演技と技術はさらに磨かれていくことだろう。

 コンサートの客席は、出演した子どもたちの関係者が多いのかなと思って見渡したが、ご両親もさることながら、その祖父母らしき人たちが多く見られた。いや、そればかりでなく、たまたまこの『花フェスタ』にやってきて、ちょっと休憩のつもりで座り込んだお年寄りがかなりあったのかもしれない。今はどこへ行ってもお年寄りが多い。デパートも半分以上がお年寄りだし、観劇会は8割から9割がお年寄りだ。子どもたちが喜ぶような遊園地や動物園などでもお年寄りの姿が目に付く。

 今日は混雑するのを避けようと思って、お昼前に鰻屋に入ったが、もう何組も店先に並んで待っていた。こうした待機する人、お店で食事をしている人、食べ終わって出てくる人を眺めていると、「敬老の日」だから余計にそうなのだろうが、お年寄りを連れた家族連れが圧倒的に多い。お孫さんたちが、おじいちゃんやおばあちゃんを連れてきているグループもある。また2家族で一緒におじいちゃんとおばあちゃんを囲んで食事にやってきているグループもあった。

 お年寄りがこんなに皆さんから大事にされているのだと感心して見ていた。けれど、私自身ももうお年寄りに入っていることを忘れていた。来年には65歳になるというのに、気持ちはなぜだか未だに18歳のままだ。いや、18歳は若すぎるとしても、30代や40代の思慮分別がなかなか育ってきていない。困った年寄りになってしまった。いやそもそもが、自分が年寄りだと全く思えないのだ。確かに肉体的には年齢は隠せないのに、精神の成長が伴わないこの自己矛盾がなんともやりきれない。
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夢って何?

2008年09月14日 21時53分45秒 | Weblog
 結局、中学2年の孫娘の要望に応えて、恥ずかしながら映画『花より男子ファイナル』を観てきた。何しろ孫娘は女優・井上真央にぞっこんだから、絶対映画を観るべきだと言い切る。カミさんはそんな孫娘の言葉に圧倒されてか、あるいは自分自身も映画を観たいと思ったのか、「一緒に行ってみようよ」と言う。「二人で行けば!」と言うと、「運転手がいないとね!」とまで言われ、仕方なく一緒に出かけた。

 映画を観る人の多くは家族連れで、しかも若い人々が多い。私たちのように孫娘と来ているような人はいなかった。それでも、家族連れで来ている人も母と子できている人も、映画を観るマナーはあまりよくなかった。映写中にもぞもぞと食べたり、席を立って出て行ったり、本当に映画『花より男子ファイナル』が好きなのかとさえ思ってしまった。

 映画『花より男子ファイナル』は、ある人に言わせれば「お子ちゃまの映画」だということだけれど、映画を観ていてその批評は合っていると思った。井上真央のセリフではないが、「ありえないっちゅうに!」という映画であったことは間違いない。「馬鹿で、わがままで、自己中心」の男については最後まで好きになれないけれど、エンターテイメントの映画としては面白かったでいいかと思う。

 映画の中で何度か「あなたの夢は何?」という言葉が出てきた。ドラマではいかにも適切な言葉のように思うけれど、実際にあなたに向かって、大好きな人から「あなたの夢は何?」と聞かれたら、いったいあなたはどう答えるだろう。「あなたの夢は何?」と聞かれて私は今、何を答えてよいのかわからない。人は確かに夢を追って生きているように思うけれど、実際の私たちの生活は夢を追っているのだろうか?

 そもそも夢を追うことは大事なことだとしても、生きている人々は皆夢を追って生きているのだろうか。その夢とはいったい何なのだろう。映画の中では、「馬鹿で、わがままで、自己中心」の男の夢は好きな女と一緒に暮らすことのようだったし、その対象の女の夢は好きな男の子を孕むことだった。夢なんてものはそんな程度のことなのか、そんな夢なら確かに人々が思い描くことなのかもしれない。そうなのだ、私たちはそういうささやかな夢を求めて生きているのだと思う。

 明日はゴルフだから晴れますようにとか、明日はよいことが起こりますようにとか、そんなささやかな夢を追うことで人は生きている。人類の歴史はその積み重ねの上に成り立っているような気がする。若い時ならこれから自分は何をしようということであろうが、私のように年老いた者はこの先の10年、20年のことを考えるとはとても思えない。まず、明日はどうしようかであり、明後日はよいことが起こるかなだと思う。違うのかな?
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中秋の名月

2008年09月13日 22時07分09秒 | Weblog
 明日は中秋の名月だそうだ。空が澄んでくると月が綺麗に見える。旧暦の8月15日に月を鑑賞する風習はいつごろから始まったのだろう。中国にはかなり古くから月見が行なわれ、月餅、ススキ、サトイモなどを供えたようだ。日本では8月15日だけでなく9月13日にも月見を行う風習があり、「十三夜」とか「後の月」とか呼ばれている。真っ盛りの時よりもまだその一歩手前とか、真っ盛りが過ぎようとするその始まりとか、いかにも日本人らしい季節のとらえ方だと思う。

 それにしても、月は太陽に比べてなぜかロマンチックな気持ちにさせてくれる。「この月をあの人も見ている」などと、当たり前のことに深い意味を与えて、自らの恋心に酔わせてくれる。好きな人にたとえ今晩は会えなくても、今、自分が見ているこの月をあの人も見ていると勝手に思い込むことで、いかにも二人の共通の時間・空間を作り出しているというわけだ。

 確かに、月を眺めていると、時間がゆったりと過ぎていくような気がする。そしてまた、愛する人のことを思い浮かべる気持ちがよくわかる。けれども、現代人はせっかちだ。結論を早く求めようとする。今日の中日新聞の『中日春秋』の書き出しは興味深かった。「きっと、時間には限りがないが、人生には限りがあるからであろう。人は急ぐようにできている気がする」。「エレベーターでは、特にその必要がなくても“閉”ボタンを押している。ほとんど無自覚に、急いでしまっていることは少なくない。何かをもらうような時でも、数は十分、もらいっぱぐれることはない、と分かっていても人より先にほしがったりする。“遅い”よりも“早い”が、“後”より“先”が好きなのだ」。

 『中日春秋』の結論は、「社会も政治も意識して“長い目”を持つよう心掛けるべきなのだろう」ことにあるが、私はどうして「“遅い”よりも“早い”が、“後”より“先”が好きなのだ」ろうかということに関心が向いた。産業革命以後の人類が目指した大きなテーマは時間を短くすることだった。その目的はほぼ達成されたけれど、それで人類は幸せを手に入れたのだろうか。

 月を眺めながら、恋しい人のことを思い巡らしていた方が人は幸せになれるのではないだろうか。
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妖艶なヒガンバナ

2008年09月12日 21時26分52秒 | Weblog
 秋である。朝晩がめっきり涼しくなってきたし、空も気のせいか高く感じる。それでも昼間は32度もあると言う。私が秋だと感じたのはわが身の異変である。このところ目が痒い。寝ていても、起きていても、目が無性に痒い。イネ科の花粉によるアレルギーであるらしい。痒いから目をこするので、余計に目は赤くなる。こうなると人に会うことも億劫になる。情けない話だ。

 我が家の朝顔は、9月に入って異様に咲き出した。それまではつるばかり伸びて、これは花が咲かない朝顔だったのかと思うくらいだった。それが互いに絡み合いながら伸びて山のようになり、ポツン、ポツンと咲き始めた。見るとこれからどんどん咲くであろうたくさんの花芽が出来ている。サルビアは夏の花が終り、青々とした新しい葉が出てきているから、この花を摘み取ってやればまた新しい花芽が出てくるはずだ。

 バラも秋に咲くものが花を開いてきた。あの夏の暑さを耐えてホッとしたのか、ランタナが新しい芽を伸ばして花を咲かせている。お彼岸になると、必ず咲くヒガンバナも不思議な花だ。子どもの頃、お彼岸にお墓参りにいくと、お墓のあちらこちらで真っ赤に燃えるようなヒガンバナが咲いていた。私は綺麗な花だなと思ったが、祖母は「縁起の悪い花だから触ってはイカン」と言っていた。葉はないのに花だけが咲く不思議さから、怪しいもののように子どもの頃は感じていた。

 それがいつだったか大人になって、家族でハイキングに出かけた時、ヒガンバナの群生を見てとても綺麗だと思った。それから気をつけて見ていると、各地でヒガンバナの群生に出会うことがある。JRで京都の方へ向かう車窓からも次から次へとヒガンバナの群生を見ることが出来たし、この地方では半田市にある新見南吉記念館の裏手の川沿いで見事なヒガンバナの群生を見ることが出来る。

 「縁起が悪い」と祖母は教えてくれたけれど、その妖艶なあでやかさは人の心を打つものがある。私はヒガンバナを見ると、怪しい恋を連想してしまう。小説「風の盆」には酔芙蓉が出てきたけれど、ヒガンバナもまたそうした人の道を外れてしまう激しい恋物語が似合うと思う。お彼岸の頃になると、たとえ猛暑の夏でも、あるいは寒い夏であっても、必ず花を咲かせるヒガンバナは、それだけに健気な花だと私は思っている。

 ヒガンバナは別名で曼珠沙華というが、マンジュシャゲと書くとまるで極楽の花のような感じがする。最近では、シロバナマンジュシャゲ(白花曼珠沙華)というものもあるが、こうなると妖艶さが無くなり私は興味が湧かない。やはり真っ赤でセクシーな、妄想が働くヒガンバナの方が好きだ。マンジュシャゲと歌った女性歌手がいたように思うけれど、どんな歌だったかも覚えていないのに、きっと不倫の歌だと信じているのだからおかしい。

 ヒガンバナが盛りを過ぎると、それはもう老婆のようになってしまう。恋はこんな風に燃え、そして消えていくのだろう。
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会話したいよ

2008年09月11日 21時37分01秒 | Weblog
 先日、80歳の女性が話してくれた幸せに暮らすための3つの条件について書いたところ、3つの条件を備えた90歳になる女性が「それだけでは楽しくないね」と言う。「そうなんですか?何が必要ですか」と聞いてみた。その女性も夫に先立たれ、息子さん夫婦と暮らしている。結構な資産家で、暮らしには苦労していない様子だ。

 「家族揃って食事をするのは、お正月くらいだね」と彼女は言う。「ご家族の皆さんと一緒に食事をされないんですか?」と聞くと、「昔は一緒に食べていたんだけど、会話が全く無いのね。私は年寄りだから食べるのが遅いでしょう。嫁さんや孫はさっさっと食べて、席を立ってさっさと行っちゃうの。私一人ポツンと座っているのもいやだから、そのうち食事は私の部屋に持ってきて、一人でテレビ見ながら食べるようになっちゃったのね」。

 「あのね、一人は気楽でいいわよ。テレビに一人で怒ったり笑ったりしていても、誰もなんとも言やへんでね。気楽でいいけど、寂しいもんだよ。一つ屋根の下で暮らしているのに、何にも話が無いというのもね。そうは思うけど、嫁さんも忙しいし、息子や孫もそれぞれやることがあるでね。仕方ないね。こうやっておしゃべりすることが一番楽しいね」。

 そういえば、NHKのテレビ番組でアルツハイマーについて放映していた中で、予防には会話が重要だと挙げていたように思う。テレビを見たり、映画を観たり、本を読んだりすることも脳を使うということでは大切なことかもしれないが、会話は相手の言うことを聞き、自分の話すことを脳が整理しないと出来ないから、やはり脳の活動としては比率が大きいのだろう。

 人は誰でも、自分のことを知ってもらいたいのだ。また逆に、好きな人のことはどんなことでも知っていたいものだと思う。だからこそ、一生懸命で会話するし、会話が途切れたりすると不安になるのだ。年寄りだから、偏屈だからと、会話を避けられてしまうと、年寄りはますます孤独になる。若い方から根気よく声をかけてもらわないと、意外に年寄りは自分からは声がかけられないものだ。

 一人暮らしの方に電話したり、時には出かけていって話したりすると、30分や40分はつかまってしまう。場合によっては半日を費やすことになる時だってあった。その頃は、どうしてこんなにも話すのかわからなかったけれど、一日中誰とも話すことが無ければ人恋しくなってつい引き止めてしまう、そんな気持ちがよくわかるようになった。

 男と女であれば、話すことが無ければ手をつないでいればいい。相手が年寄りならば、やはり会話を重ねていくことが何よりも幸せで大切なことなのだ。9・11から7年目の今日思う。
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