友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

なんともやりきれない

2008年09月21日 18時39分09秒 | Weblog
 なんともやりきれない。外国から輸入した米にカビが発生したり残留農薬があったりして、食べられなくなったものをなぜ農水省は業者に売ったのだろう。それなのになぜ責任があると思わなかったのだろう。以前にも賞味期限切れとか農薬が付着した食品や食物が問題になったことがある。食べることが危険であるなら焼却処分をすればよいし、危険はないけれど気分の問題と言うなら個人が消費することは自由にすればよい。

 おそらく、危険はないけれど気分の問題と農水省は判断したのか、個人の消費でなく業者に「工業用」という名目で売り渡した。業者は「工業用」を選別したり加工したりして「食用」にして転売した。農水省はこの販売に不安を抱いていたはずだ。それにしても90回もの立ち入り調査は、事前に調査日を調整していたというから、調査の後は接待であったであろうと推測するのは当然だろう。

 私自身は賞味期限切れも残留農薬もそんなに気にならない。もちろん食べたならば死ぬというようなものであれば、進んで食べようとは思わないけれど、そんなに神経質になることはないのではないかと思っている。現代人は多かれ少なかれ、流通食品を食べているのだから、食品の危険はあるだろう。食品が金儲けである限りこれもまた当然だろう。

 そんなことよりも、安い事故米を仕入れて高く売ってしまうことの人間の「サガ」が情けない。売れ残った商品を再加工して、作りたてのように見せかけたり、客が食べ残したものを再度食器に盛り付けて出したり、産地の違う牛肉を偽って売ったり、どれもこれもそうすることで「利益」を求めている。どうして人は金儲けをしようとするのだろう。

 期限切れの食品や産地の違う食品を偽装して金儲けをすることは厳しく非難されるのに、金融商品の売買で、たとえば特定の株をあるいは特定の商品を買い占めて高値にさせておいて、買値と売値の差額で莫大な利益を得るような経済活動はなぜ非難されないのか。お金でお金を生むような金融なる仕組みがどうして堂々と許されているのか。

 人間という生き物は、「社会的存在」などといわれるけれど、人は「社会」を搾取してしか裕福になれない。古代ギリシャが繁栄したのは、戦闘でたくさんの植民地と奴隷を手に入れたからだ。そこで彼らは偉大な芸術や哲学を作り上げた。労働から解放された結果だが、それは植民地と奴隷があったからだ。

 現代、私たちは誰も自分が奴隷だなどとは思っていない。私たちは皆自由で平等である。でも何かおかしな気がする。私たちは働きつまり生産し、そして生産したものを消費する。私たちの消費にはいつも危険が付きまとう。私たちはなんだか自由で平等である奴隷のようだと思うのは偏見なのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする