昨日、今日とずっと孫娘と二人だけの食事が続いている。その食事の時間に孫娘はテレビドラマになった『恋空』を観たいと言う。映画の方はテレビで既に孫娘と観ているが、テレビはもっと小説に忠実に描いていると言うのだ。確かに映画では出てこなかった場面がテレビドラマではよく出てくる。それでも全体の印象は映画もテレビもそんなに大差ないように思った。テレビの方は長いから細かな描写が出来ているけれど、それが展開の上で必要だったのかとなると、よくわからない。
映画では、大学生の男の子が大きな存在に感じたけれど、テレビドラマでは小さな存在になっていたことが気になった。主人公の美嘉は高校1年の時にヒロと出会い恋してしまう。そして妊娠し、二人は結婚を約束する。けれども美嘉は流産し、そしてヒロはガンに侵される。二人の子どもは死産となり、ヒロはガンを告知されて美嘉から遠ざかる。そして美嘉は新しい恋人ユウに出会う。
これが大雑把な『恋空』のストーリーだ。ケイタイ小説というだけあって、若い人向けのテンポの速い恋愛小説だ。恋愛小説と書いたけれど、恋愛が内包する苦悩や痛みがちょっと私たちの時代とは違うものがある。そんなことを嘆いていても始まらないので、中学2年生の孫娘と一緒になってこのドラマの主人公になって考えることにした。
美嘉は、初恋の人ヒロを忘れて新しい恋人に「ずーっと一緒にいる」と約束する。二人は幸せな大学生活を送っていた。ところが「(自分を捨てたヒロが)もう死ぬかもしれない。ヒロは美嘉に会いたがっている」と聞かされ、動揺する。その時の女友だちのセリフが心憎い。「美嘉、あなたの心のままに動けばいいのよ」。それはヒロに会いたいという気持ちと現在の恋人に申し訳ないという気持ちの葛藤に対する答えを示している。
人はどんな時も、理性と感情の対立がある。理性というと聞こえはいいがそれは現実的な損得であり、感情は逆にドロドロとした欲望である。現実的な損得を考えれば、大学生の新しい恋人といる方がはるかに幸せになる確率は高い。けれども欲望はバカでどうしようもないヒロを求めているのだ。いきなりキスし、いきなり体の中に入ってきた男のヒロが忘れられないのだ。男と女はおそらくそんな風に不可思議な関係なのだろう。
人を好きになるということは、数学の答えを解くようなキチンとした定義があるわけではない。『アンナ・カレリーナ』の主人公のように、有能で将来性の高い夫を裏切り、恋に落ちることだってある。恋は盲目というけれど、人が好きになるのは理性ではなく感情であるのだから、損得など考えられない。恋は激しいものほど目先が見えないのはこのためだ。
映画では、大学生の男の子が大きな存在に感じたけれど、テレビドラマでは小さな存在になっていたことが気になった。主人公の美嘉は高校1年の時にヒロと出会い恋してしまう。そして妊娠し、二人は結婚を約束する。けれども美嘉は流産し、そしてヒロはガンに侵される。二人の子どもは死産となり、ヒロはガンを告知されて美嘉から遠ざかる。そして美嘉は新しい恋人ユウに出会う。
これが大雑把な『恋空』のストーリーだ。ケイタイ小説というだけあって、若い人向けのテンポの速い恋愛小説だ。恋愛小説と書いたけれど、恋愛が内包する苦悩や痛みがちょっと私たちの時代とは違うものがある。そんなことを嘆いていても始まらないので、中学2年生の孫娘と一緒になってこのドラマの主人公になって考えることにした。
美嘉は、初恋の人ヒロを忘れて新しい恋人に「ずーっと一緒にいる」と約束する。二人は幸せな大学生活を送っていた。ところが「(自分を捨てたヒロが)もう死ぬかもしれない。ヒロは美嘉に会いたがっている」と聞かされ、動揺する。その時の女友だちのセリフが心憎い。「美嘉、あなたの心のままに動けばいいのよ」。それはヒロに会いたいという気持ちと現在の恋人に申し訳ないという気持ちの葛藤に対する答えを示している。
人はどんな時も、理性と感情の対立がある。理性というと聞こえはいいがそれは現実的な損得であり、感情は逆にドロドロとした欲望である。現実的な損得を考えれば、大学生の新しい恋人といる方がはるかに幸せになる確率は高い。けれども欲望はバカでどうしようもないヒロを求めているのだ。いきなりキスし、いきなり体の中に入ってきた男のヒロが忘れられないのだ。男と女はおそらくそんな風に不可思議な関係なのだろう。
人を好きになるということは、数学の答えを解くようなキチンとした定義があるわけではない。『アンナ・カレリーナ』の主人公のように、有能で将来性の高い夫を裏切り、恋に落ちることだってある。恋は盲目というけれど、人が好きになるのは理性ではなく感情であるのだから、損得など考えられない。恋は激しいものほど目先が見えないのはこのためだ。