小泉純一郎氏が今期限りで引退するそうだ。彼ならば当然だろうと思う。構造改革を進めておきながら無責任だと言う人もいるが、責任などというものはもともと持たない人だと思う。郵政民営化や道路公団の民営化など、構造改革に取り組んできたと評価するが、私は小泉氏が政治信条に基づいて行なったとは思っていない。郵政にはお父さんの時代からの怨念があり、規制緩和は竹中さんという経済学者の口車に乗っかった。何がしたかったのかといえば、麻生さんと同じで、首相になりたかったというのが本音だろうと思う。
確かに、政治家と官僚の馴れ合い政治にはうんざりしていたであろう。「自民党をぶっ壊す」くらいでなければ自民党は政権を維持できないと感覚でつかんでいたと思う。小泉氏は理論家というよりも感覚の人であったし、「国家」に固執する人だと私は思っている。理屈を大事にする人ならば、「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」とか、「(イラクに)自衛隊が行くのだから安全に決まっているでしょう」とか、「格差なんて世界中にある」とか、こういうことを平気で口に出せないと思う。
私が首長選挙に立候補した時、支援してくださった会社の社長から「あなたは変人“小泉さん”と一緒だね」と言われた。社長は「勝てないかもしれないのに、自分が挑むことで地域を変えようとしている」と評価してくれたのだ。私は首長にはなれなかったが、その後、小泉氏は田中真紀子氏と組んで自民党総裁選挙に勝利し、首相になった。外相に任命した田中氏が官僚とトラブルを起こすとすぐ解職してしまった。変人は恩義とか人情とかを持たない冷徹な人であった。郵政民営化に反対した自民党議員に対して刺客を送る徹底した冷血漢であった。
私も変人であるが、しかし小泉氏にはなれなかった。引退を表明した後援会の席で、小泉氏は「(次男の)進次郎を出馬させたい」と頭を下げたという。利権に群がる自民党体質は批判できたが、2世3世議員を生む自民党体質の問題点は全く把握できなかった。おそらく小泉氏が利権と深く結びついていたなら、これを批判することも出来なかったであろう。理想の政治があり、それをどのように実現するかというよりも、感覚で政治を引っ張ってきた人だと私は思っている。
だからこそ、今回の総裁選挙でカヤの外に置かれたこと、自分の影響力などというものがほとんどないこと、そして何よりも自分と一緒にやってきた仲間と思っていた連中が、自分の政策を継承するのではなくむしろ否定するのを見て、「ここが引き時」と感じたのだろう。麻生首相より幹事長への就任を要請され、「晩節を汚したくない」と断った同じ派閥のドン、森喜朗氏を意識したのかもしれない。小泉氏の美学と賞賛する人もいるが、むしろ敗者であることを認めたくない小泉流と言うべきだろう。
確かに、政治家と官僚の馴れ合い政治にはうんざりしていたであろう。「自民党をぶっ壊す」くらいでなければ自民党は政権を維持できないと感覚でつかんでいたと思う。小泉氏は理論家というよりも感覚の人であったし、「国家」に固執する人だと私は思っている。理屈を大事にする人ならば、「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」とか、「(イラクに)自衛隊が行くのだから安全に決まっているでしょう」とか、「格差なんて世界中にある」とか、こういうことを平気で口に出せないと思う。
私が首長選挙に立候補した時、支援してくださった会社の社長から「あなたは変人“小泉さん”と一緒だね」と言われた。社長は「勝てないかもしれないのに、自分が挑むことで地域を変えようとしている」と評価してくれたのだ。私は首長にはなれなかったが、その後、小泉氏は田中真紀子氏と組んで自民党総裁選挙に勝利し、首相になった。外相に任命した田中氏が官僚とトラブルを起こすとすぐ解職してしまった。変人は恩義とか人情とかを持たない冷徹な人であった。郵政民営化に反対した自民党議員に対して刺客を送る徹底した冷血漢であった。
私も変人であるが、しかし小泉氏にはなれなかった。引退を表明した後援会の席で、小泉氏は「(次男の)進次郎を出馬させたい」と頭を下げたという。利権に群がる自民党体質は批判できたが、2世3世議員を生む自民党体質の問題点は全く把握できなかった。おそらく小泉氏が利権と深く結びついていたなら、これを批判することも出来なかったであろう。理想の政治があり、それをどのように実現するかというよりも、感覚で政治を引っ張ってきた人だと私は思っている。
だからこそ、今回の総裁選挙でカヤの外に置かれたこと、自分の影響力などというものがほとんどないこと、そして何よりも自分と一緒にやってきた仲間と思っていた連中が、自分の政策を継承するのではなくむしろ否定するのを見て、「ここが引き時」と感じたのだろう。麻生首相より幹事長への就任を要請され、「晩節を汚したくない」と断った同じ派閥のドン、森喜朗氏を意識したのかもしれない。小泉氏の美学と賞賛する人もいるが、むしろ敗者であることを認めたくない小泉流と言うべきだろう。