友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

はっきり主張できる人を私は尊敬する

2018年03月19日 17時25分13秒 | Weblog

  雨降りなので肌寒いが、それでも以前のような寒さではない。私の大学受験の頃は、国立は1期と2期に分かれていた。国立1期の前に私学の試験があり、友だちの多くは掛け持ちで受けていた。私は両親が亡くなったので、大学試験は諦めていたが、兄貴から「国立なら授業料は安い。受験料を出してやるから」と言われ、急遽受験することにした。

 私学は絶対に無理であるし、家から外に出れば金がかかる。そうなると家から通える国立しかないが、1期はハードルが高すぎるので2期校だけを受けることにした。不合格なら家を出て東京にでも行こうなどと当てもないのに考えていた。2期校の試験は3月下旬だが、今日のように寒い日だった。私学や1期校に合格した友だちが、私の家に「合格した」と言って来る。

 私はなぜか、寂しい気にはならなかった。いよいよ自分の番か、そんな気持ちだった。大学に対する「夢」もなかった。合格したら、学生寮に入り、家から出るつもりでいた。ところが学生寮の申し込みに行くと、「親がいないだけの理由では入寮出来ない」と断られた。大学2年の時に兄貴は破産し、一家離散となった。私は大学の先生の家に下宿し、先生の車の運転手や家の書生となり子どもの家庭教師を務めることになった。

 友だちと天下国家を論じたり、哲学的な論争もした。自治会の役員に当選し、デモに参加することもあった。それで体制が変わるとは思わなかったが、意思表示が出来るのにしないことの方が罪深い気がしていた。「いちご白書」のように、学生という身分だったからだろう。高校の教師になり、ストやデモが当たり前の職場だったから参加できたが、もし無縁の職場だったら眺めていただけかも知れない。

 「森友問題」にかかわった公務員の中にも忸怩たる思いで経緯を眺めている人もいるだろう。どこにいても、どんな立場にあっても、同じように意思表明できる人は数少ないと思う。いざという時に、生活を失うかも知れないのに、はっきり主張できる人を私は尊敬する。

 

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民主主義って何なの?

2018年03月18日 18時48分30秒 | Weblog

  すっかり春の陽気になった。公園で若いお父さんと3歳くらいの女の子が遊んでいた。通りかかると父親の方が軽く会釈された。知り合いではないが、道行く人に挨拶したくなるほど幸せな気分なのだろう。女の子も慌ててちょこんと頭を下げる。私も思わず手を振って微笑んでしまった。

 お父さんは花壇の花を指さして、「何色?」と女の子にたずね、「あか」と答えると、「お利口さん」と褒めていた。父親と娘は小学校の4年生くらいまでは仲良しでいられるのに、年齢が進むにつれて疎遠になってしまう。男と女なのだから仕方のないことで、さらに大人になれば子どもの時とは違う、新しい親子になることも出来る。こんな幸せな時間が長く続きますようにと祈るばかりだ。

 ロシアは今日、大統領選挙で確実にプーチンが当選するが、70%の投票率で70%の支持を目指しているという。なんとバカ気た選挙なのだろう。アメリカのトランプ大統領もあれだけおかしな言動なのに40%の人々の支持を得ている。ロシアもアメリカも形の上では民主主義国家だ。国民の一人ひとりの人権が尊重され、政府に対してデモも出来る。メディアも存在するが、ロシアは政府の規制が厳しいし、アメリカは「ウソのニュースだ」と大統領は批判する。

 日本の麻生財務大臣も「朝日新聞はウソを書く」と批判していたのに、森友問題の公文書が改ざんされていたことが明らかになると、朝日新聞の記事が正しかったのに、「朝日は読まないから」と開き直る。アメリカもロシアも日本も、民主主義の国で、国民が政府を決める。けれど、なぜ政府と国民の間に遠いのか。そもそも民主主義って何なのだろう。

 民主主義は国民主権を前提にしているが、いくら主権者と言われても実感がない。代議制では多数決を用いるから、数が多ければなんでも出来てしまう。議論する必要がない。多数決以外の方法はないのだろうか。いやその前に、国家などなくして、10万とか20万くらいの小国家にしてしまえば、直接民主主義が生きてくるかも知れない。あの小さな女の子が大きくなる頃には‥。

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選挙に向けた様相が変わった

2018年03月17日 18時03分50秒 | Weblog

  東京で桜が開花した。マンションの周りの桜の蕾も大きく膨らんできたが、開花はまだ先のようだ。ルーフバルコニーのチューリップもかなり背が伸びてきた。この暖かさで、我が家のスイセンはいっ気に咲き始めた。ピンクの椿は今や満開である。新しい命が生まれた。カミさんの弟の長女に男の子が誕生した。知らせの電話をかけてきた義弟は、嬉しくって仕方ない陽気な声だった。

 来月8日に市長と市議の選挙が告示される。以前では考えられないほど、既に何人も駅前で、スパーの隣で、街角で、チラシを配ったり演説したりしている。元は地域推薦で候補者を決めていたから、街頭演説やチラシで政策を訴える人はいなかった。私が地域新聞に携わっていた時は、選挙事務所を回ると、近所や支持者の人たちが代わる代わるやって来て、食事をしていく違法な選挙だった。

 ある人は選挙に「400万円使った」と愚痴っていた。大半は支持者が勝手に飲み食いした請求書や領収書の支払いに使われた。そんな違法な選挙がまかり通っていたが、私が首長選に立候補した時から「大きく変わった」と言われた。誰でも政治活動は出来るから、政策や考えを書いたチラシを配布し、街頭に立って訴える。これが今では当たり前になった。

 政策を書いたチラシを見ると、誰もが同じ主張をしている。福祉や教育、地域の活性化など、同じような文言が並ぶ。候補者は自分だけが正しいことを掲げていると思っているが、表現の違いはあっても中身に大きな差はない。どこで自分らしさを強調するのか、それには人柄を見てもらうしかない。街頭に出て、チラシを配り演説を繰り返す。これ以外によい運動は見当たらない。

 これまでは事前に運動しなかった現職の市長も、市長の愛称を名付けた街宣車を走らせている。私に選挙の指南を求めたふたりも必死に地域を回っているが、まだまだやり切れていない様子だ。「休んでいるヒマはないよ」と尻を叩くが、まだ必死さはない。選挙は自分が必死にならなければ勝てないのに。

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驚いた。そして恐ろしくなった。

2018年03月16日 17時36分14秒 | Weblog

 驚いた。そして恐ろしくなった。文科省の前次官、前川喜平さんが名古屋市の公立中学校で講演した記事を前に読んだが、そのことで文科省から名古屋市の教育委員会に、話した内容など15項目の回答と録音データの提出を求めてきたという。個々の学校の取り組みに対して、文科省が講師に問題があるとか、何を話したかなどと調査することは絶対にあってはならないことだ。

 文科省は全国の教育に責任があるのだから、問い合わせて当然と思うのは大きな間違いだ。文科省は教育基本法に従って、全体の指針は立てるが中身については口出ししないことになっている。それは戦争に突入した戦前の教育への反省からだ。教育を国が管理すれば、軍国主義教育のような国家統一のための教育になってしまう。

 しかし今、文科省の行為に反発が少ないのは、平然と憲法改正が唱えられる風潮と類似して、国が現場の教育に口を出しても当然と思われているからだ。文科省官僚は、「天下り問題で引責辞任した人を講師に呼ぶ必要があったのか、事実確認するため」と説明するが、問い合わせる行為がいかなる意味を持つのかを考えていない。

 財務省の官僚答弁も、自分たちはしっかり働いているという自負が強く働いている。働いている人は誰もが皆、しっかりと働いている訳で、だから何なの?と言いたくなる。ちょっと飛躍するが、昨日の至学館大学の谷岡学長の記者会見にはガッカリした。谷岡さんは身近で話を聞いたこともあり、国会議員時代のブログはとても面白く読ませてもらっていたので、どうしてあんな記者会見になってしまうのかと思った。

 親から譲り受けた至学館大学を守りたい、その一心しかない気がした。誰もが自分の立場を守りたいと思う。けれど、そのために相手を非難するばかりでは決して守ることもできない。自分の側に非はないのか、見渡せる包容力が必要だ。谷岡さんはそんな資質を持った人だと私は思うので、残念でならない。

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義弟の雄弁な主張

2018年03月15日 18時13分39秒 | Weblog

  「安倍昭惠さんの証人喚問を避けるには、麻生さんが辞めなきゃー収まらんでしょう」と義弟は主張する。定年退職してからも続けて働いていたが、70歳で仕事を辞めてからは、もっぱらテレビ漬けの生活なのか時事問題に詳しい。「これで安倍さんの3選も無くなった」と言いつつ、「代わりが見当たらない。小泉はまだ早い。もう少し勉強する必要がある。それに仲間を作らないと年寄りに潰されてしまう。自民党を割って、新党を立ち上げ、党首になって総理になるにはもう少し時間が要る」。

 なるほど、小泉進次郎さんに期待しているのか。これだけ安倍首相の「森友・加計問題」の闇を見せられると、国民の多くは清潔感の漂う小泉進次郎さんがいっそう潔癖に見えてくる。義弟の言うように政治の世界は当選回数がものを言うから、年寄りが幅を利かせていて、若手の活躍の場を奪っている。昨日も書いたが、長期にわたってポストに就いていると必ずよどみが生まれてくる。保守でも革新でもそれは変わらない、人間の宿命なのだと思う。姉の見舞いの道すがら、義弟は話し続ける。

 おそらく義弟のように思っている人は3割いるだろう。それでも「野党のバカな質問」と共感する人も3割はいるだろう。残りの4割はどちらでもいい、どちらにも変わる人だ。私が地域新聞を始めた時、私を支持してくれた長老が、「世の中は3分の1が賛成でも、3分の1は反対する。残りはどちらでもないからどちらにもつく。自分が信念を持っていないとへこたれてしまう」と教えてくれた。絶対多数の賛成はない。それでも共感してくれる人は必ずいる。そう信じてやってきた。

 姉は今日も元気だった。姪っ子には「もう死ぬよ」と言っているようだが、少なくとも私たちの前ではしっかりしていた。姪っ子が持ってきたお菓子を「美味しい」と言ってよく食べた。しかし最近、薬を飲まないようだ。仕方ない、いずれは世代交代の時が来る。

 

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同じ人が長期に務めれば、必ずよどみが生まれる

2018年03月14日 18時56分54秒 | Weblog

  風もなく暖かかったので、ルーフバルコニーでアジサイなどの手入れをした。しばらくすると、クシャミが出て止まらなくなった。目がショボショボして涙が流れる。今日は外での作業が続いたので、クシャミも鼻水も続いている。「若いから反応する。歳を取れば花粉症にならなくなる」と、薬局の人は言っていたけど、なぜなのか一向に治らない。

 財務省の「書き換え問題」がテレビを独占している。官僚の「忖度」は不治の病だ。残念ながら人の心の動きはどこも同じで、長く権力の座に就いていれば必ず「驕り」が生まれてくる。安倍首相の答弁を聞いているとよく分かる。「真摯に受け止め、しっかりと調査し、丁寧に分かりやすく説明する」と毎回言われるが、そこに誠意は感じられない。

 至学館大学レスリング部の栄監督の講演を聞いたことがあるが、真面目な人という印象だった。多くのメダリストを育て上げたのだから、その手腕は大したものだと感心する。ところが今、「パワハラ問題」を突きつけられている。すると、「私もパワハラを受けた」と名乗り出る人もいる。栄監督は「身に覚えがない」のだろうが、被害を受けた者は心の奥深く刻み込まれている。

 私の住むマンションは自主管理を40年以上続けている。自治会が管理事務所の職員を雇用して日常の業務を維持し、修繕の業者は自治会が選定している。自治会の広報を見ると、来年度も会長は同じ人が継続して務めるようだ。これまでに例のない長期となる。こうなると誰も会長に逆らえないから、会長に言わせると「頼りない連中」ばかりとなる。

 私の住む市の市長は77歳だから、今度、当選すれば在任中に80歳を超える。町長を3期務め、市長も3期目で、職員となって58年間役所にいる。市長より古い職員はひとりもいない。権力の座に長く同じ人が座り続ければ、どんなに「人柄がよい」人でも「よどみ」が生まれてくる。交代することで一時的な停滞があっても、それは次への糧になる。

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「義を見てせざるは勇無きなり」

2018年03月13日 17時55分18秒 | Weblog

  「義を見てさざるは勇無きなり」。子どもの頃に見た時代劇に、仇討しようとするが、相手が大勢なので勝ち目はない。その時、こう叫んでバッタバッタと倒していく侍がいた。そうではなくて、ヤクザ同士のケンカだったのかも知れないが、強い側に立たずに、弱い者に味方する。これが真の男の生き方などと子どもの頃は思い込んでいた。

 「義を見てせざるは勇無きなり」は『論語』に出てくる言葉で、「人の道として当然おこなうべきことと知りながら、これを実行しないのは勇気が無いというものである」(広辞苑)と高校生で知った。ところがなぜか、大人たちは目を瞑って見ようとしない。道で倒れた人がいても知らぬふりして通り過ぎる。困っている人がいてもかかわることを避ける。

 「余分なことはしない」と大人は言う。放っておけばいつか誰かが手を出すだろう。何もあなたがしなくても誰かがすると。そういう声が聞こえる。近畿財務局の職員が自殺した。森友学園との窓口になっていたようだ。なぜ、自殺したのか、本当のことは亡くなった彼にしか分からない。彼は「義を見てせざるは勇無きなり」と思ったのかも知れないし、小説にあるように権力に自殺させられたのかも知れない。

 公務員に限らず会社員も、上の人に気を遣う。出世するためには無キズでいるだけではダメだ。上に評価してもらわなければ出世は出来ない。上に上がれば上がるほど権限は大きくなるから、自分がしたいことが実現できる。だからどこでも、組織にいる者は「忖度」している。人が生きていくための知恵だから、アメリカもロシアも中国も日本も、いや「忖度」が存在しない国など無いだろう。

 逆に、だからこそ孔子は、「義を見てせざるは勇無きなり」と説いたと思う。自分を律することは難しいが、自分の価値観や生き方をしっかり持てば、行動する勇気も生まれる。何よりも「義」が見えてくる。そういう人にみんながなれば、不正義など存在しなくなると孔子は考えたと思う。

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卒寿を目の前に迎えた3人の女性

2018年03月12日 17時53分18秒 | Weblog

  カミさんの叔母さんの見舞いに行って来た。叔母は87歳の誕生日を迎えたばかりというから、同じ3月生まれの私の姉よりも1歳年下になる。先月、見舞いに行った時よりもさらに痩せていた。それでも不思議なことに、先月よりも目の動きはよかった。看病している従弟は「先週末から食べられなくなっている」と言う。いくつもの点滴を受けてベッドで寝かされている。今週の水曜日に姉を見舞いに行くが、姉はどんな具合だろう。

 カミさんの弟の義理の母はもう十数年も施設で暮らしている。義弟は毎週日曜日に見舞いに行き、外に連れ出して食事を一緒にしている。3年前までは、年末年始に家へ連れて帰り世話をしていたが、施設のようなベッドではなく畳の部屋なので、起こしたりあるいは入浴させたりすることがうまくいかず、「とうとう諦めた」と言う。「老々介護や施設の職員の苦労がよく分かる」と話す。

 「(義母は)僕を見ればすぐに名前を呼んでくれるのに、連れ合いの名前がスムーズに出てこない」と言う。叔母も私たちには本当に優しい眼差しで見るのに、毎日看護している従弟には厳しい目を向けるし、私の姉も最愛の娘に向かって、「あんたダレ?」と言ったり、「イジワルな子」と貶したりする。何を言ってもいい相手だから、スネて甘えたいのだろう。

 姉の方が早いかと思ったが、叔母が一番早く逝くのかも知れない。終戦を10代で迎え、戦後の自由な雰囲気の中で結婚し、家庭を持った3人の女性。きっといろんな困難があったかも知れないが、それでも新しい時代を謳歌して生きてきたと思う。長生きは出来ないと少女時代に思った女性たちも卒寿が目前だ。

 叔母の居る病院は緩和ケアを行なっていて、10日の誕生日を祝う写真がいっぱい飾ってあった。見ると叔母もVサインをしている。話すことは困難でも耳は聞こえるから、「じゃー、帰るね」とカミさんが言うと、じっと見つめて放さない。ひとりになるのが嫌だと伝えているが、どうすることもできない

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女の子は得意そうな顔になった

2018年03月11日 17時47分19秒 | Weblog

  午前中は風もなく穏やかで、作業するには暑いくらいだった。行ってみると、春日井の井戸は充分に水を汲み上げることが出来た。問題はないと思うけれど、「水位がどのくらいあるか調べたい」と言うメンバーもいて、何もせずに帰ることも癪だから調べてみようと、手押しポンプを外し、吸管の中に彼が持ってきた道具を入れて調べてみた。水の層も70センチはある。

 今度は、「汲み出してみて、涸れないかを調べてみたい」と言う。気になったことはやってみた方がいいので、吸管の塩ビ管にエンジンポンプの蛇腹ホースを接続し、井戸水を汲み上げてみる。水は勢いよく流れだした。ここは家庭菜園になっていて、この日も何組かの人たちが農作業をしてみえた。私は畑に水が入らないように急いで水路を造ったが、水の量が多いからたちまち畑に流れ込んでしまった。

 「何をする。植えたジャガイモがダメになるじゃーないか」と怒鳴られてしまった。「すいません。こちらの下の方へ流しますから」と謝るが、「そっちに流すな。どこへ流すかも決めずに作業するな」とますます怒りが大きくなる。怒れるオヤジの面倒は私に任せたというつもりなのか、エンジンポンプを止める気はないようで、水はどんどん流れてくる。謝る私と怒るオヤジのやり取りが10分を超え、ようやくエンジンは止まった。

 辺りは一面水浸しだが、これで充分水を汲み出すことは出来ると分かった。それにしても、12月に水が出なくなったのはどうしてなのだろう。原因は不明だが、とにかく水は出る。これから水が必要になるから、手押しポンプを使う頻度も多くなるだろう。井戸は使われれば水道が出来る。皆さんがこの井戸を使ってくれればますます水は確保されるだろう。

 私たちが作業をしていると、小学校2~3年生くらいの女の子が「何してるんですか?」と声をかけてきた。ここの井戸を直しているの」と答えると、「私もやりたい。井戸の水で手を洗ったり、口すすいだよ」と言う。「お手伝いは無理だから、修理が出来たらまた使ってね」と答える。お母さんは「手押しポンプを使ったことはなかった」と言うので、女の子は得意そうな顔になった。

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「歴史を読む」

2018年03月10日 17時53分52秒 | Weblog

  風邪なのか花粉症なのか、鼻水が止まらない。明日は春日井の井戸の修復のために出かける。けれど依頼主さんから、「水はよく出るようになった」と電話があったそうだ。これは水位が上がったという現象だから、このままでよい気がするが、まずは現場を見て確かめてみることになった。春から秋にかけては雨も多いから水位が下がることはないが、出来るなら、冬場でも水を汲みだせる方がいい。

 人間はどのようにして井戸を発見したのだろう。先日、中日文化センターで古事記や日本書紀の話を聞いてきた。旧約聖書の時代でもそうだけれど、人々が定着して暮らすには必ず水が要る。奈良に都を構えたのは四方を山で囲まれた盆地だったからだが、そばに川がなかったので、汚物を「水に流す」ことが出来ず、衛生面で困ったからという見方を聞いた。朝廷内の勢力争いや仏教を取り入れたことで、僧侶が政治にかかわったことが遷都の要因と学んできただけに目からうろこだった。

 歴史には必ず要因がある。ルネッサンスが花開いたフィレンツェは街道の要で、物資の交流に携わっていた商人が富を得たことで生まれたし、江戸時代に浮世絵が流行したのも、戦争が無くなり商人を筆頭に富を蓄えることが出来たからだ。徳川幕府は開国に舵を切ったが、それでは植民地にされてしまうと薩摩や長州が反対し、朝廷を担いで討幕に走った。なのに、いざ政権を握ると開国に転じている。

 日本人は嫌なことは「水に流す」ことで新しいものを取り入れてきた。北朝鮮は韓国をてこにアメリカとの話し合いに応ずるという。北朝鮮は約束を反故にしてきたから「気をつけろ」という評論家はいるが、アメリカと北朝鮮とが平和条約を結ぶように「日本は策動せよ」という提案が無いのは残念だが、いずれそうなるだろうと私は「歴史を読む」。

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