風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

六十五回目の夏(5)戦艦大和(上)

2010-10-26 21:20:06 | たまに文学・歴史・芸術も
 秋深くなってなお、この夏に読んだ本(「戦艦大和の最期」吉田満著)のことを書くのは気が引けますが、ズボラなので仕方ありません。今また本稿を書くために読み返し、日本が文字通りに死力を尽くした先の戦争の、薄っぺらな反戦や軍国の主張のいずれをも寄せ付けない圧倒的な迫力に、感慨を新たにしています。昭和20年3月29日に出港し、4月6日に出撃し、翌7日、僅か2時間の戦闘の末に沈没し、さらに著者自らは駆逐艦に助けられて九死に一生を得て佐世保の病院に収容される4月8日までの十日間の実体験を綴った戦記モノです。終戦直後の発表当初から内容の一部に信憑性を疑われる記述があると疑問の声があがり、今では戦艦大和の沈没というドキュメンタリーと言うよりも実体験にフィクションを加えた小説と理解されているようです。しかし、このテーマ(六十五回目の夏)の最初に提起した通り、戦争または個々の戦闘の全体を見通すことは難しく、また事実の羅列が必ずしも真実を語るわけでもなく、むしろ個々の戦闘を実体験した人の透徹たる視点(多少想像で膨らんでいるにせよ)で描かれた「部分」の中にこそ真実はあると信じますし、そうした断片を集めて自らの戦争観を構築するためのいわば中核をなし得る奥行きと更に発展の可能性を秘めた、心の中で今にも膨張せんとする濃密なガスのような存在として私は捉えています。
 さてその戦艦大和について、どれほどの知識があったか。実は私にとっては、当時の技術の粋を集め、世界に誇る最先端の巨艦だったこと、帰還を省みず片道の燃料しか積まずに突入したことくらいで、その実態を殆ど知りませんでした。本書で作戦談を紹介するくだりがあって、それによると、沖縄の米軍上陸地点に対する特攻攻撃と不離一体、更に陸軍の地上攻撃と呼応し、航空総攻撃を企図する、「菊水作戦」の一環であること、一方で、特攻機は過重の爆薬を装備するため鈍重で、米軍迎撃機の好餌となる恐れ多く、また米軍戦闘機の猛反撃も必至で、特攻攻撃が挫折する公算も大きいため、その間、米軍迎撃機を引き付けて米軍の防備を手薄にするための囮作戦として、多くの兵力を吸収するだけの魅力がありかつ長時間拮抗しうる対空防備力を備えた大和と、その寿命の延命を図って護衛艦九隻を選んだものである、つまり大和の沖縄突入は表面の目標に過ぎず、真に目指すは米軍精鋭機動部隊の集中攻撃の標的にほかならず、かくて燃料等裁量は往路を満たすのみである、というわけです。勿論、米軍の沖縄上陸地点に到達し、大和主砲による上陸軍攻撃も企図し、更に陸兵となって干戈を交えるために機銃・小銃も支給されているのですが、それはただの気休めでしかなく、著者をして、勇敢というか、無謀というか・・・と嘆かしめ、また、余りに稚拙、無思慮の作戦であることは明らかと述べています。大和に搭乗した伊藤整一・第二艦隊司令長官は、この美辞麗句に彩られた作戦に反対し、真の作戦目的を尋ね続け、「一億総玉砕に先駆けて立派に死んでもらいたい」という最後通告を聞き出して、ようやく納得したと言われます。更に、豊田・連合艦隊司令長官の壮行の挨拶にあるように、帝国海軍力をこの一戦に結集するというのであるならば、どうして豊田長官自らが日吉の防空壕を捨てて陣頭指揮しないのかと、有賀艦長が草鹿・連合艦隊参謀長に詰め寄ったと言われますが、これも艦隊総員の衷情を代弁するものだったとも筆者は述べています。
 大艦巨砲主義、艦隊決戦と言えば、私たちは先ずは日露戦争の日本海海戦を思い浮かべますが、戦艦大和の建造計画が立てられた昭和8年頃でも欧米列強は競って大艦鑑巨砲の新戦艦の開発に鎬を削っていた時期でした。ところがその後、時代は急速に航空兵力(航空母艦とその艦載機を中心とした機動部隊)に移り、その先陣を切ったのがご存知の通り真珠湾攻撃であり、戦艦大和が就役(12月16日)したのとほぼ同時期だったのは余りにも皮肉です(実は対米開戦は大和の完成を待ったと言われます)。戦艦大和は、連合艦隊旗艦として、昭和17年5月、ミッドウエー島攻略作戦に出撃するも、なすすべもなく引き返し、その後、連合艦隊旗艦は武蔵に譲り、昭和19年6月、マリアナ沖海戦に出撃するも、二倍の量を誇るだけでなく最新式レーダーや対空砲火など質でも勝る米軍を前にほとんど戦果を挙げることなく、またしても空しく引き返し、昭和19年10月、レイテ沖海戦では、武蔵をはじめ出撃した艦船の過半を失う中、大和は辛うじて空母1隻を撃沈しただけで、日本海軍は事実上壊滅状態となり、最期の沖縄作戦を迎えるという、戦艦としては世界トップレベルの戦闘能力を持ちながら、その実力をほとんど発揮することがなかった、余りに哀れな一生でした。
 こうした議論は、後の世の我々のものだけではなく、既に当時、戦艦大和の乗組員の間でも交わされていたというのですから驚きです。本書でも、ガンルーム(中尉・少尉の居室)で、戦艦と航空機との優劣を激論し、戦艦優位を主張する者はなかったと述べられていますし、世界の三馬鹿、無用の長物として、万里の長城、ピラミッドに並んで、戦艦大和を挙げ、自嘲気味に喚きあって憚るところがなかった、という有名な逸話も紹介されています。
 それでは、隊員たちはこの悲壮な特攻を納得したのか、しなかったのか、どのように考えていたのでしょうか。ちょっと長くなったので、続きは明日。
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