風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

原発と放射線を巡る問題(6)

2011-08-20 00:14:07 | 時事放談
 このタイトルのシリーズ企画で、福島原発問題を機に俄かに脚光を浴びておられる小出裕章さんに触れないわけには行かないでしょう。「原発のウソ」(扶桑社新書)を読んだ所感を述べたいと思います。
 実は、本書を読むまでは、私も密かにこの方に注目していました。誠実で孤高の学者然とされた風貌が安心感を与えますし、そのロジックは至るところで援用されているからです。しかしあらためて本書を読むと、そのロジックの荒っぽさや煽情性が目につきます。
 例えば、ご本人を含め、「多くの研究者は3月12日の水素爆発の時点でレベル6(大事故)は間違いないと確信しており、その後数日でレベル7に達したこともとっくに分かっていました」と豪語し、政府がレベル7を発表するまで一ヶ月もかかった遅すぎる反応を非難され、レベル7の同定を当然のように見なしておられますが、レベル7の根拠になっているのは、放射性物質の全放出量がチェルノブイリの時の10分の1だとする保安院の(意図的な?)発表であり、他方、最大限でも1000分の1のレベルだとする西村肇さん(環境問題に包括的に取り組み、水俣病等の因果関係を研究された東大名誉教授)のような方もおられます。
 また、「チェルノブイリから出た放射性物質はセシウム137換算で広島原爆の800発分に相当し、チェルノブイリの時の10分の1だとすれば、福島では既に原爆80発分の「死の灰」が飛び散ったことになる」と再び不安を煽られますが、7月27日の衆議院厚生労働委員会で放射線の健康への影響について名演説をされたことで話題になった東大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授は、総量について、熱量からの計算では広島原爆の29.6個分、ウラン換算では20個分に相当する、と述べておられました。
 放射性セシウム137については、「半減期は30年と長く、1000分の1に減るまでには約300年かかる」と、何故か1000分の1というような恣意的に大きな数字を持ち出して不安を煽り、外部被曝以外に「生物濃縮」が起こるため、「長期にわたって警戒していかなくてはならない核種」だと言われますが、東大の放射線治療医の中川恵一さんや長崎大学医学部名誉教授の長瀧重信さんは、放射性セシウム137について、確かにカリウムと同じように筋肉に蓄積されますが、身体の細胞は常に入れ替わっているため、二ヶ月から三か月で排泄される(生物学的半減期)と解説されています。
 また、「低線量の放射線でも必ず何らかの影響があるし、そしてそれは存在し続ける」と言い、広島・長崎の被爆者について「半世紀にわたる調査の結果、年間50ミリシーベルトの被曝量でも、がんや白血病になる確率が高くなるということが明らかになった」と主張されますが、放射線の被曝線量と影響の間に閾値がなく直線的な関係が成り立つというLNT仮説(閾値なし直線仮説)については、100ミリシーベルト以下の低線量被曝に関しては科学的な証明がなく、敢えて放射線「防護のために」援用されているものに過ぎないというのが国際的な合意のはずです。
 同じく低線量被曝に関して、修復効果(生き物には放射線被曝で生じる傷を修復する機能が備わっている)やホルミシス効果(放射線に被曝すると免疫が活性化されるから、量が少ない被曝は安全、あるいはむしろ有益)といった一部の学説に疑問符をつけるのは良いのですが、同じように一部で主張され国際合意に至っていないような「低線量での被曝は、高線量での被曝に比べて単位線量あたりの危険度がむしろ高くなるという研究結果」が出てきたとか、「低線量での被曝では細胞の修復効果事態が働かないというデータ」すら出始めているなどと、まことしやかに説明する勇み足を犯す始末です。
 政府や電力会社は、「原子力は二酸化炭素を出さず、環境にやさしい」「地球温暖化防止のために原子力は絶対に必要」と宣伝してきたわりに、ウラン採掘から製錬、更に濃縮、加工といったそれぞれの工程で莫大な資材やエネルギー(特に石油などの化石燃料)が投入されているという、面白い事実を指摘されますが、定性的に述べるだけで、実証的ではありません。
 同じように、「原発の発電量の三分の一だけを電気に変えて、残りの三分の二は海に戻すことで原子炉の熱を捨て」ており、これは1秒間に換算すると「70トンの海水を引き込んで、その温度を7度上げ、海に戻していることになる」というところまでは面白い指摘ですが、熱い風呂はせいぜい43度、それを7度上げることが如何に大きなことか、などと、海水上昇を43度の湯に例えるような、およそ首を傾げたくなる数字を挙げて定性的に説明するより、原発近辺の生態系が変わった事実があったかどうかなど、実証的であるべきです。
 挙げていくとキリがありませんのでこれくらいにしておきますが、依って立つ数字がやや恣意的に見えますし、依って立つ学説が国際合意に達していなくても、自分の立論に都合が良いものを選択し、結果として私たちシロウトの不安を煽っているように見えると言わざるを得ません。
 本来、原発の是非を論ずる場合、少なくともエネルギー安保の視点と、代替エネルギーの可能性の視点が必要だろうと思いますが、小出さんの本書では実質的な議論が出てきません。例えば食料自給率(カロリー・ベース)40%の食糧安保には誰もが関心を寄せますが、原発反対派の方が、エネルギー自給率が僅かに4%(原子力を含む場合16%)のエネルギー安保を心配しているようには見えません。最近見かけた日経新聞記事で、今年1~5月の中国のエネルギー海外依存度が55.2%となり、初めて米国(53.5%)を上回ったとありましたが、日本の海外依存度に至っては96%です。また最近の報道ステーションを見ていると、再生可能エネルギーに取り組む田舎の事例が取り上げられることが多いように見受けられますが、確かに空地が多く人口密度が低い田舎であればこそ、分散型の再生可能エネルギーを活かせる余地は大きいことでしょう。これが、人口や経済の集積度が高く、空地が乏しい首都圏に、参考になるとは思えません。
 小出さんの場合、反原発の象徴的存在に祭り上げられ、立場を越えた議論にまで及ぶために、怪しげなレトリックを振りかざしていると思われることがあるとすれば、もったいない話だと思います。
コメント (2)
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