今日は差し障りのあることを書きます。
WHOが10日ほど前に発表した2011年版の世界保健統計によると、2009年の日本の男女平均寿命は、統計を遡ることが出来る1990年から20年連続で首位を維持したそうです。大和撫子は86歳で引き続き世界首位、日本男児は前年より1歳長い80歳で、スイスなどと並ぶ2位タイに浮上したそうです。しかし本当に素直に喜んで良いのでしょうか。
ちょうどその発表があった頃、脳出血に倒れた昔の上司がリハビリ出来るまでに回復したというので、当時の同僚とお見舞いに行って来ました。実際には脳出血ではなく脳血栓で、意識ははっきりしており、痩せこけたけれども思った以上に元気そうで安心しました。気になったのはその昔の上司のことではなく、待合室での出来事のことです。車椅子の見知らぬおばあちゃんが、待合室のテレビをぼんやり見ながら、すぐ傍の受付にいる看護士に「トイレに連れて行って」と話しかけるともなく話し、聞こえているのかいないのか、反応がないので、私の後輩が話を繋いであげたのですが、それでも看護士は放ったらかしでした。再びおばあちゃんが「トイレに行きたいの」と呟いても、やはり聞こえているのかいないのか、放ったらかし。暫くしてようやく担当の看護士らしき人がやって来て、その時の会話を再現してみます。
看「xxさん、どうしました?」
患「トイレに行きたいの」
看「さっきも行ったでしょ」
患「また行きたいの」
看「でもさっきは出なかったでしょ」
患「今度は出るかも知れないの」
看「本当ですか」
患「私、便秘かしら」
看「違います、便秘じゃありません」
ぴしゃりと言い放つ、余り温かみを感じさせないそのやりとりは、患者と、まるでロボットとのそれのようでしたが、実は患者の身の回りの世話をして最もよく知る看護士とのそれですから、私が口を差し挟む筋のものではありません。看護士さんには言い分があろうと思いますし、おばあちゃんが幸せかどうかを忖度するのも傲慢というものです。
私がふと思ったのは、もし自分が車椅子生活で、単独で行動できないし自力でトイレにも行けなくて、明晰な思考もできず、一日の内でぼんやりする時間が多いとすれば、果たして生きていて幸せなのだろうか?ということでした。
日本人の寿命が延びた、長寿大国だと言って、元気で動き回れる人生の時間が増えているのであれば、本人はもとより周囲の者にも社会にも幸せなことと言えます。しかし、医療技術のお蔭で、昔ならとっくに果てていたはずの人生の最後の車椅子生活の時間が延びただけだとすれば、果たして長寿大国は幸せなことだと喜んでよいのかどうか。入院すれば、社会が負担すべき医療費が余計にかかるわけであり、子供の手を煩わせなければならないとすれば、子供の自由な時間のかなりの部分を奪うことにもなりかねません。悲観的に過ぎるかもしれませんが、殆ど知覚もなく、ただ生かされるだけで、他人の厄介になる自分を想像したくありませんし、そうなるのはちょっと耐えられません。安楽死を選びたくても許されない長寿大国・日本は、本当に幸せな社会なのか。自分がまだ若いからこそ、そう思うだけで、いざ年を取って身動きがままならなくなったら、気持ちは変わるのでしょうか。そんなことをつらつら思い暗澹とした気持ちに沈んだ一日でした。
WHOが10日ほど前に発表した2011年版の世界保健統計によると、2009年の日本の男女平均寿命は、統計を遡ることが出来る1990年から20年連続で首位を維持したそうです。大和撫子は86歳で引き続き世界首位、日本男児は前年より1歳長い80歳で、スイスなどと並ぶ2位タイに浮上したそうです。しかし本当に素直に喜んで良いのでしょうか。
ちょうどその発表があった頃、脳出血に倒れた昔の上司がリハビリ出来るまでに回復したというので、当時の同僚とお見舞いに行って来ました。実際には脳出血ではなく脳血栓で、意識ははっきりしており、痩せこけたけれども思った以上に元気そうで安心しました。気になったのはその昔の上司のことではなく、待合室での出来事のことです。車椅子の見知らぬおばあちゃんが、待合室のテレビをぼんやり見ながら、すぐ傍の受付にいる看護士に「トイレに連れて行って」と話しかけるともなく話し、聞こえているのかいないのか、反応がないので、私の後輩が話を繋いであげたのですが、それでも看護士は放ったらかしでした。再びおばあちゃんが「トイレに行きたいの」と呟いても、やはり聞こえているのかいないのか、放ったらかし。暫くしてようやく担当の看護士らしき人がやって来て、その時の会話を再現してみます。
看「xxさん、どうしました?」
患「トイレに行きたいの」
看「さっきも行ったでしょ」
患「また行きたいの」
看「でもさっきは出なかったでしょ」
患「今度は出るかも知れないの」
看「本当ですか」
患「私、便秘かしら」
看「違います、便秘じゃありません」
ぴしゃりと言い放つ、余り温かみを感じさせないそのやりとりは、患者と、まるでロボットとのそれのようでしたが、実は患者の身の回りの世話をして最もよく知る看護士とのそれですから、私が口を差し挟む筋のものではありません。看護士さんには言い分があろうと思いますし、おばあちゃんが幸せかどうかを忖度するのも傲慢というものです。
私がふと思ったのは、もし自分が車椅子生活で、単独で行動できないし自力でトイレにも行けなくて、明晰な思考もできず、一日の内でぼんやりする時間が多いとすれば、果たして生きていて幸せなのだろうか?ということでした。
日本人の寿命が延びた、長寿大国だと言って、元気で動き回れる人生の時間が増えているのであれば、本人はもとより周囲の者にも社会にも幸せなことと言えます。しかし、医療技術のお蔭で、昔ならとっくに果てていたはずの人生の最後の車椅子生活の時間が延びただけだとすれば、果たして長寿大国は幸せなことだと喜んでよいのかどうか。入院すれば、社会が負担すべき医療費が余計にかかるわけであり、子供の手を煩わせなければならないとすれば、子供の自由な時間のかなりの部分を奪うことにもなりかねません。悲観的に過ぎるかもしれませんが、殆ど知覚もなく、ただ生かされるだけで、他人の厄介になる自分を想像したくありませんし、そうなるのはちょっと耐えられません。安楽死を選びたくても許されない長寿大国・日本は、本当に幸せな社会なのか。自分がまだ若いからこそ、そう思うだけで、いざ年を取って身動きがままならなくなったら、気持ちは変わるのでしょうか。そんなことをつらつら思い暗澹とした気持ちに沈んだ一日でした。
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