テレビで見る「足四の字固め」は、文字通りの“必殺”技であり、プロレス・ファンのガキには強烈で、友達とプロレスごっこに興じた小学生の頃、よくできた技だと子供心に感心したものだった。日本におけるプロレス・ブームの立役者と言ってもよいのだろう。そのザ・デストロイヤーも齢87だという。秋の叙勲で旭日双光章を受章した。
「プロレスの歴史上初めて、マスクマンとしてヘビー級のトップ戦線で活躍したプロレスラー」(Wikipedia)だそうである。今から50年以上も前、1963年に初めて来日し、力道山と対戦して「足四の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした」(同)。「全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、『馬場に負けたら助っ人として日本に残る』と宣言、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどと名勝負を残した」(同)。アメリカに戻ってからも「年1回、全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズ』での特別参戦を続け」(同)、1993年に引退後も、レスリングや水泳をする地元の子供たちを日本に連れて来て、日本の子供たちと交流させる活動を20年以上続けてきたという。「かつて(太平洋戦争で)敵だった日本人は、初来日から仲間のように接してくれた。同じ経験を米国の子供たちにさせてあげたかった」と語っている。知日派は日本をよく知るだけで心でどう思っているか知れたものではないが、彼のような親日家は大事にすべきだろう(ジョセフ・ナイやリチャード・アーミテージやマイケル・グリーンは知日派だが親日というわけではない)。今はニューヨーク州郊外の小さな町アクロンで、奥様のウィルマさん(84歳)と静かな余生を過ごしているが、数年前から足が不自由で歩行器が必要らしい。
日本ファンの前では今もなお覆面を脱がない。そろそろ暴露してもいいじゃないとも思うのだが、プロレスというショー・ビジネスのプロ意識は今もなお健在のようだ。来日にあたって、2001年の同時テロが起きるまで、マスク姿で空港の入国審査を受けていたという。
産経電子版にインタビュー記事が出ていた。
初来日の1963年、力道山との試合直前に、ロサンゼルスのプロモーターから、覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」として試合に出るように言われたのだという。そのときに渡されたマスクはウール製で、着け心地が悪かったが、別のレスラーから借りたマスクはそのまま食事ができるほど快適で、女性用のガードルだったので、すぐに奥様とデパートに買いに出かけて、売り場で女性用のガードルを頭からかぶっていたら、みんなが見にやってきたというが、そりゃそうだろう。当時は奥様の手作りマスクで、今はアディダス製のものを使っているらしい。
小学生にショー・ビジネスはなかなか理解できず、ヒール役の外国人レスラーを倒すためにプロレスラーを志したこともある(笑)。世界に目を向ける(その逆に日本を意識する)きっかけとなったのは、恐らく大阪・万国博覧会が最初だったと思うが、世界を股に掛ける大泥棒「ルパン三世」や、「この~樹なんの樹、気になる樹~」という「日立の樹」のエンディングでお馴染み「素晴らしい世界旅行」とともに、全日本プロレス中継も一役買っていたようだ(笑)。それはともかく、その後、アントニオ猪木が、相手に技をかけさせて良いところを引出し、体力を十分に使わせたところで、自分の技をかけて見せ場をつくる・・・みたいなことをインタビューで語っていて、なるほどこれがショーとしてのプロレスかと感心したことがあるが、ずっと後になってからのことだ。
今のプロレス界についてどう思うかと聞かれて、「私は、プロフェッショナルなレスラーであることを常に心がけてきた。観戦する人に、そういう印象を与えることに努めていた。ただ、今のレスラーは、本来のレスリングをしているとは思えない。レスリングは単純な試合だ。ただ、ヘッドロックやトーロックをかけて格闘することだ。レスラーが椅子で頭を殴っても、私は興奮しないよ」と答えている。私も、場外乱闘や流血が多くなって、それもショーの一つの要素なのだろうと理解しつつも、だんだん興醒めて行ったのだったが、まさに古き良き時代のプロレスを懐かしむ気持ちは同じだと思って、なんだかほっとしたのだった。
「プロレスの歴史上初めて、マスクマンとしてヘビー級のトップ戦線で活躍したプロレスラー」(Wikipedia)だそうである。今から50年以上も前、1963年に初めて来日し、力道山と対戦して「足四の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした」(同)。「全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、『馬場に負けたら助っ人として日本に残る』と宣言、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどと名勝負を残した」(同)。アメリカに戻ってからも「年1回、全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズ』での特別参戦を続け」(同)、1993年に引退後も、レスリングや水泳をする地元の子供たちを日本に連れて来て、日本の子供たちと交流させる活動を20年以上続けてきたという。「かつて(太平洋戦争で)敵だった日本人は、初来日から仲間のように接してくれた。同じ経験を米国の子供たちにさせてあげたかった」と語っている。知日派は日本をよく知るだけで心でどう思っているか知れたものではないが、彼のような親日家は大事にすべきだろう(ジョセフ・ナイやリチャード・アーミテージやマイケル・グリーンは知日派だが親日というわけではない)。今はニューヨーク州郊外の小さな町アクロンで、奥様のウィルマさん(84歳)と静かな余生を過ごしているが、数年前から足が不自由で歩行器が必要らしい。
日本ファンの前では今もなお覆面を脱がない。そろそろ暴露してもいいじゃないとも思うのだが、プロレスというショー・ビジネスのプロ意識は今もなお健在のようだ。来日にあたって、2001年の同時テロが起きるまで、マスク姿で空港の入国審査を受けていたという。
産経電子版にインタビュー記事が出ていた。
初来日の1963年、力道山との試合直前に、ロサンゼルスのプロモーターから、覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」として試合に出るように言われたのだという。そのときに渡されたマスクはウール製で、着け心地が悪かったが、別のレスラーから借りたマスクはそのまま食事ができるほど快適で、女性用のガードルだったので、すぐに奥様とデパートに買いに出かけて、売り場で女性用のガードルを頭からかぶっていたら、みんなが見にやってきたというが、そりゃそうだろう。当時は奥様の手作りマスクで、今はアディダス製のものを使っているらしい。
小学生にショー・ビジネスはなかなか理解できず、ヒール役の外国人レスラーを倒すためにプロレスラーを志したこともある(笑)。世界に目を向ける(その逆に日本を意識する)きっかけとなったのは、恐らく大阪・万国博覧会が最初だったと思うが、世界を股に掛ける大泥棒「ルパン三世」や、「この~樹なんの樹、気になる樹~」という「日立の樹」のエンディングでお馴染み「素晴らしい世界旅行」とともに、全日本プロレス中継も一役買っていたようだ(笑)。それはともかく、その後、アントニオ猪木が、相手に技をかけさせて良いところを引出し、体力を十分に使わせたところで、自分の技をかけて見せ場をつくる・・・みたいなことをインタビューで語っていて、なるほどこれがショーとしてのプロレスかと感心したことがあるが、ずっと後になってからのことだ。
今のプロレス界についてどう思うかと聞かれて、「私は、プロフェッショナルなレスラーであることを常に心がけてきた。観戦する人に、そういう印象を与えることに努めていた。ただ、今のレスラーは、本来のレスリングをしているとは思えない。レスリングは単純な試合だ。ただ、ヘッドロックやトーロックをかけて格闘することだ。レスラーが椅子で頭を殴っても、私は興奮しないよ」と答えている。私も、場外乱闘や流血が多くなって、それもショーの一つの要素なのだろうと理解しつつも、だんだん興醒めて行ったのだったが、まさに古き良き時代のプロレスを懐かしむ気持ちは同じだと思って、なんだかほっとしたのだった。
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