想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

古き良き日の回想

2021年12月26日 | エッセイ
コロナ2年12月25日
 
 昔は12月といえば、学校も冬休みと、お正月が来るのが楽しみでした。そして、数え年でしたから、お正月が来ると一つ年が増えました。
 近年はバレンタインデー、ホワイトデー、ハロウィン、クリスマスと外国から賑やかな行事が入り、また、年中おいしい食事も出回っています。
 昔、お寿司といえば稲荷寿司か干ぴょうの海苔巻きが我が家では定番でした。お正月か運動会、村の祭りに食べた覚えがあります。
 最近はどうでしょう。百円寿司もポピュラーになり、マグロ、カツオ、サーモン等具材は色々あります。昔の稲荷寿司はマイナーになりストアーで買って食べるぐらいです。過去のことを想いだすと、もう、隔世の感を否めません。
 子どもの頃、よく町へ母が連れて行ってくれたことがありました。その街にある唯一の松菱百貨店です。そこで、決まって食べたものが、中華そばです。いわゆる幸楽苑で売っている昔風のラーメンです。いわゆるしょうゆラーメンです。なんか40円前後で食べられたと想います。
 そこには、きまって焼き豚と、かまぼこ、、ゆで卵が入っていました。それが、唯一のごちそうだったような気がします。ラーメンを食べていれば、ご機嫌でした。
 今のように、各種各様なラーメンが出回っているわけでもなく、ラーメンとはこんなものだというワンパターの保守的な考えで出来上がっていたように想います。今はもう、色んなラーメンが食べられます。
 ところがどうでしょう。定年に近くなるにつれ、嗜好も変わって来たのか、あれほど好きだったラーメンがあまり食べたくなくなったのです。ラーメンよりもそば通になってきたのです。時の流れは自分の嗜好まで変えてしまうんですね。
 考えかたも周りが農村地帯で保守的で田舎ですから、周りと常に同調していかないと生きてゆけないようでした。創意工夫、変化を作り出す、表現などという考え方は今から想像もつきません。
 外国人というとアメリカ人であり、土人という言葉さえありました。インド人が土人だと想っていたこともあったようです。今では世界のIT企業で活躍しているのが、インド人だなんて想像もつかなかったです。
 そうでしょうね。敗戦後に生まれて戦争こそ知りませんが、当時は溶けたガラスの破片や銅線や瓦が散らばっていて、その瓦で遊んでいたこともありました。野球といえば、バットは丸太の棒で、グローブなんかは使いませんでした。魚やさんの行商もあり、目の前でカツオの刺身をさばくのをよく見ていたものでした。
 井戸水から風呂桶にバケツで何杯も運んだこともありました。五右衛門ぶろでしたので、浮かんでいる底板を押して入ると熱い湯が上がってくることもありました。
 まだまだ、戦後の跡がいたるところにありましたものね。銅線はクズ屋が高く買ってくれました。また、カエルも買ってくれました。それが、いいお小遣いになりました。
 私の家は農家ではなく、父が家具職人でしたので、農家に比べて食べ物には余計苦労が多かったのだと想います。卵など滅多に食べたことがありませんでした。ただ、たまによそからもらうもみ殻に入っていた卵の事はよく覚えています。そうすると、割れないのですね。
 大晦日が近づくと、農家の隣近所から餅つきの音が聞こえてきますが、我が家では臼もなく、その行事がなかったのが、子ども心に寂しかったのを想いだします。
 母などは隣の家と食料品を融通し合っていることもよくありました。当時は良き時代だったなとつくずく想いだします。
 父は近所の友達を呼んで酒を飲み、鉄の針の蓄音機で音楽を聴いていたものでした。
 また、家にはキイチゴ、サクランボ、イチジク、夏みかんの実がなり、食べるのが楽しみでした。兄はカラス、ウサギなども飼っていて、私はよくウサギの餌を取りに行ったものです。
 今想うと、兄や姉などは、高校へも行けなくて、我が家は絶対的貧困の真っ只中にいたのだと想います。姉は酒屋で住み込みで働いていました。私が勤めるようになり、姉からスーパーカブの中古を買ってくれたことも想い出です。
 4人兄弟でしたので、上から3番目が私です。私になってやっと、高校へも行けるようになりました。年子で妹もいましたので、彼女もどうにか高校に行けました。
 私も初めは兄や姉には悪いので中卒でいいかなと想っていた時期もありました。その後、状況も少しは改善して高校へいけるようになり、どうにか、高校は出させてもらいました。
 その後、高卒後2年経ち、大学に行きたくなり、夜間短大と通信教育大学3年に編入し無事4年間の勤労学生を卒業しました。教員免許も取りました。中高の社会科です。あの頃は一番学問に目覚めた時でした。
 当時は防衛庁で事務官をしていました。一番夢に溢れていた時期でした。また、三島由紀夫の乱を聞いたのもその頃でした。通信教育大4年の頃だったと想います。スクーリングがあり、休暇を取って、自宅に帰っていて、そこから、新幹線に乗って、東京に戻る途中に新幹線の中で聞いたことを今でも鮮明に覚えています。
 そうしている私もついに来年四月には後期高齢者の仲間入りです。時の流れはいかんともしがたいものです。されど、これからの自分を鼓舞し、残りの人生をきり開いてゆく覚悟です。これからは、益々、英語とITスキルが大切な時代になります。若さは心の持ちようでいかほどにもなります。まだまだやりたいことがいっぱい残っています。
 
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