コロナ3年6月14日(ウクライナ侵攻元年)
まだ、私が小学生になるかならない頃、1億円のお金ってすごい量だと想っていた記憶がある。1円の1億倍だから、凄い量だと想っていた。それは1億を1が100,000,000個あるという考えだから、そうなってしまったが、しかし、よくよく考えてみれば、1億円も1円も共にまとまりとしてとらえれば単純に1となってしまい。単位という点に着目すればどちらも1個あるだけになってしまう。実に単純だ。
何でも単純に考えればいいのだ。人生も単純に二つに考えれば生きるか死ぬか肉体か精神かの二者しかない。長く生きたとしてもたかが百歳だ。
だったら宇宙のとてつもなく長い時間に比べればその一人の人生は一瞬でしかない。また、個人を人類という視点からとらえれば、猿から人への現在までとてつもなく長い時間が流れている。自己の権利ばかり主張するのはおかしいと分かる。祖先の恩や孫の事まで考えないといけない。
まあ、個人としてのその短い一瞬を無駄死にしないで人類の流れの中で個人も生きていくことが大切だと分かる。人類の中の一個人だと自覚することはとかく基本的人権が叫ばれてはいるが、大切なことである。神様が与えてくれた人生を祖先や孫につなげながら精一杯生きねばという流れになる。
1兆円でも単位に着目すれば同じ1である。だから、今の世の中、凄い量の情報や知識やお金が溢れているように見えるが、単位としてとらえれば複雑でもなんでもなく、単純に1なる。
小学生の算数でもとになる量、比べられる量というのがある。この辺の割合が出てくると急に算数が苦手になる子がいる。分数なども同じだ。それはその集合としてのもとの考えが理解できないからである。
また、どんなに複雑に絡み合っているように見える糸でも元をたどれば、1本の糸である。それが何らかの原因で絡み合っているだけだ。人生の悩みもそれが複雑に絡み合って自分では何がなんだか分からなくなっている状態が苦悩である。しかし、単純に考えれば実に単純なことだ。
だから、複雑なものを考える時は何でも単純化して考えることが大切だと分かる。
私は困難に当たった時はいつもこの手法を取ることにしている。そうすると雲が晴れたように単純にものの本質が見えてくる。
宇宙がいかに広くともウイルスがいかに小さくともそう違いはないのだ。一人の人間が考える根本はこの一つという単位である。その単位の面積が違い色々な要素が複雑に絡み合っているから一見、複雑そうに見えるが、共に1という集合体ととらえれば単純に1となる。人生はその単位がまた、幾重にも複雑に組み合わさって見えるだけだ。
また、時間という概念も1億光年と1年は共に単位としてとらえれば同じ1となり単純化が可能になる。1億年というと途轍も長い時間に想うが単位としてとらえれば共に1に集約されていく。
1日は24時間であり、人の一生は長く生きても100年である。この時間の経過は人生問題を解くには大きく関連してくる。しかも、誰もがその時間を操作できないのである。だから、時間は畏敬の念の対象となる。誰にも平等にその生きているその時間は絶対値としては同じである。生き方が変わってくるのはそこに精神が絡み、心理的に時間が変化しているのだ。
どっこい、人間は精神的な生き物でもあり、同じ時間でも人により長さが違ってくる。仏教ではどちらも併せて、諸行無常ともいっている。しかしだ。その時間は人の真理や年齢により一人一人の感じ方で微妙に変わってくる。相対的なのである。だから人は面白い。
単純にいって、私は満1歳の赤子の人生は心理的にいって満100歳の時間の100倍の長さに相当するだろうという仮説を立てている。
現在100歳の人は、単純に長く生きて来たと想っているが、年々と年を重ねる度に生きている時間は短く感じていっているはずだ。
そういえば、こないだお正月を迎えたのにもうまた、今日はお正月ががきた。などと、言う声が良く聞こえてくる。
同じ時間を過ごしても、乳飲み子の1年は目まぐるしく変化して行くが成人の1年は年をとればとるほど変化が乏しく老化だけが目立って行くはずだ。
だから、わくわくして一日一日を過ごすか、のんべんだらりと過ごすかはシニア世代にとって大きな課題でもある。
そこには肉体からはなれた精神が大きく関連しているのだ。肉体は必ずや長く生きても100歳近辺でその生命を終えるのだ。しかし、磨き抜かれた精神は肉体が滅びても永遠に磨かれてゆく。
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