コロナ3年1月12日
女房が、朝、こんな事を言っていた。幼保園での出来事だ。
かるたやトランプをやろうとすると、何枚も取る子は、やりたがるが、取れない子は、やろうとすると、そこから逃げ出すそうだ。そりゃそうだろうと思った。それが当たり前の事だと思う。それは、そこは、彼に取って居心地が良くない事を体験しているのだ。神経衰弱やかるたは、その絵札を記憶していないと取れない。と、いうことは、その子はその時の感情や雰囲気をしっかりと記憶していたのだと思う。
数や絵札の記憶には劣るかも知らないが、無知を自覚する能力にはたけていたと、考えれば納得が行く。
記憶にもややもすると、今は、知的な記憶ばかりが目立つ知育教育の弊害がそこには現れているとしか言えない。
かるたを楽しんでいる子はその絵札を記憶する能力は確かに高いだろう。しかし、大切なことはその時の状況把握をしっかり感性で受け止めていて、自分にとっては、その場は向いていないと自覚できる能力もまた、大切だろうと思う。状況把握や情的記憶はしっかりと心に刻んでいたということはそれはそれで、しっかりと評価しなくてはいけない。
認知症への理解も似ているところがあるなと思った。それは、単なる言葉や数の記憶は薄れても、感情なり心の記憶においては、しっかり残っている人もいるということだ。単なる物忘れだけで判断するのでなく、人間をトータルで眺めることが大切だなとつくづく思う。
そう考えると、今の世の中は偏差値とやらで、やたらと評価する教育が横行しているなと思う。
もっと、感性面や多方面からその人を評価することが出来れば、その人を生かせる道がたくさんあるのになと思う。いわゆるダイバシティで考えると社会だ。ワンパターンで人を捉えては、各人の個性は伸ばせない。
デジタル化時代で一番大切な事は、状況把握や感性や情動の記憶力がしっかりしていることだ。それこそ、人が人たる根本になる。やはり、徳育、体育があっての知力だ。
脳での記憶でなく、心や体全体での記憶や状況把握能力が大切な時期に来ているなと思った。
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