カトレアの花のように艶やかだった、短大時代の親友のtaeさんが
12月1日の夜に逝ってしまいました(涙)
妹のyunさんのブログで、taeさんが肺炎で2週間高熱をだし意識がなかったけど
奇跡的に回復し、会話もできるようになったとの記事を見てホッとし
taeさん宛にお手紙を出しました
ご主人さまから、手紙のお礼と「これからリハビリです」とのお電話を戴いたのは
つい3週間前だったけど、何故
私はtaeさんが元気な内に会いに行かなかったことをとても後悔しました
10年以上前の、まだ60歳を前にした50代最後の頃にtaeさんから
「お互いの元気な日々を確認し合うためにもブログを始めましょうよ」と
誘われたブログ・・・
taeさんの「南窓によりて」はもう更新されないのだと思うと涙が出ます。
「naoさんに弔辞をお願いしたいと、生前からの本人の希望です。」との
ご主人さまのお電話・・・
親しくしていた首都圏に住む友人たちも誘い、12月5日に山形に行ってきました。
告別式は翌日の6日とのFAXをいただきましたが・・・
その日はお見送りはなく、前日に出棺してしまうとの情報を得て、
私たちはtaeさんのお顔が見たい!最後の姿を見てお見送りがしたいと
無理を言って前日に伺わせていただきました。
新幹線が福島から山形に入ったころ、車窓から大きな虹が・・・
まるでtaeさんが渡っているように見えました。
taeさんが厄介な病気に移行した昨年の春
「是非会いたい」と我が家に電話をくれたのですが、私が留守だったので
夫が電話を受けました。
2人で小一時間話したと後で聴きました。その夫ももういません・・・
その後、私たちは親しい仲間4人で裏磐梯で会うことになりましたこちらです。
でもtaeさんは、東京から来る医師と治療方法をめぐる話し合いが行われるとかで
ホテルには来られずに、とても心残りでした
今年は私も墓地探しや納骨を控え、他の二人も諸々の問題を抱え中々実現できず・・・
4人での最後の旅が「taeさんを見送る旅」になるなんてとても哀しいです。
この日、山形県の山間部には雪が舞っていました。
朝7時に横浜の我が家を出発した時は明るく晴れていたのに・・・
taeさんが暮らしていた東北地方の厳しい冬が実感できましたね
冷たい雨が降る駅にはtaeさんの息子さんが、taeさんの赤い愛車で迎えに来てくれました
部屋の正面に、にこやかに微笑むtaeさんの遺影が・・・
厄介な病名と診断された時に、taeさん自ら遺影を撮りに行ったという写真だそうです。
そしてその前に、写真と同じダンスの衣装に身を包みダンスシューズを履いたtaeさんが・・・
「taeさん、綺麗よ 会いに来るのが遅くなってごめんね」
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私たちは午後1時の出棺にも付き添い、彼女の最後も見送りました。
本当は翌日の「告別式」にも出たかったのですが、首都圏組は皆それぞれ事情があって
日帰りで失礼し、私は「taeさんへのお手紙」の形でご主人に託しました。
その内容を一部抜粋して記します。
”taeさんへ”
ご家族の皆様の献身的な看護を受け頑張ってきた貴女が、ついに力尽きてしまったという
連絡を受けた時は、呆然として言葉が出ませんでした。
18歳の春に東京の短大の教室で机を並べて以来親しくなった私たち4人は、この50数年間
taeさんが上京するたびに会い、旅行もあちこち行きましたね。
小さな子供を連れて、貴女のお宅に泊りがけでお邪魔した日のことも昨日のように思い出されます。
taeさんの闘病生活をお聞きし、友人として一番励まさなければならない時に
私は父と夫を失い、貴女を思いやる余裕がありませんでした。
本当にごめんなさいね。
taeさんの事は常に頭の片隅にありながら「頼りになるご主人が付いて居るから大丈夫!」
と思い込んでいました。
実際に貴女はご主人さまを「先生」と呼ぶほどに信頼していましたものね。
私はとても羨ましく思いました。
この2~3日、taeさんの声が常に私の耳に聞こえてきます。
もう一度思い切り語り合いたい!
私たちの胸の中には、色が白くて大柄美人のtaeさん、気持ちもおおらかで明るいtaeさんの姿が
しっかりと刻まれています。
一生忘れません。
どうぞ安らかにお眠り下さい。
合掌