70歳のタモリさんが「富士山」に登った回も面白くてタメになりましたが・・・
昨夜は私にとって縁のある「札幌の街」で、とても興味深く観ました。
明治2年に蝦夷地を北海道と改称、札幌に官庁である開拓使が設置され
その2年後には開拓に携わる男たちのために、すすき野に遊郭ができていたとか
ワンゲルの会で前回歩いた「吉原遊郭」を思わず思い出しましたわ。
渋谷界隈(10月20日)
10月のワンゲルの会の「東京路地裏・ブラ歩き」は、下町歩きからガラリと変わって
若者の街「渋谷」から、お洒落な青山~赤坂と歩きました。
TVですっかりお馴染みの「渋谷駅前のスクランブル交差点」です
「ハロウィン」の10月31日・土曜日のニュースでは、ご存じDJポリスも登場して
仮装した若者であふれたこの辺りが流れていましたね。
若者に人気のお店が入っている「109ビル」
ウィークデーの午前中の渋谷は、若者の姿よりビジネスマンやシニアの姿が目立ちました。
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江戸時代の大山詣での街道であったこの道路
当時この付近は江戸の郊外地であり、大名の下屋敷が散在し・・・
江戸時代はのどかな田園風景が続いていたと想像できますが
今ではご覧の通りの繁華街です。
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そもそもは大正12(1923)年の関東大震災直後、復興にともなう渋谷開発計画によって作られた街でした。
その賑わいは浅草の仲見世に比べられたほどであったそうです。
下町の復興とともに当初の有名店は去っていきましたが、その跡地には飲食店や映画館、
カフェーなどが次々と入り「百軒店」は渋谷における娯楽の中心として、新たな賑わいを見せました。
でも、この日歩いた平日の午前中はシャーター街と化していましたね。
商店街の奥に「千代田稲荷神社」があり、このお社も「百軒店」を生んだ都市計画の中で、
商売繁盛の神社として宮益坂から移転されたものだとか・・・
場違いな感もありますが、街の移り変わりをずっと見守り続けてきたのでしょう。
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「この辺りが昔恋文横丁と言われた界隈です」と
リーダーが教えてくれました。
昭和40年頃に学生時代を過ごした私は、実際にここを歩いたことはありませんが
渋谷道玄坂=恋文横丁と浮かびます。
「恋文横丁」という呼び名は、丹羽又雄の「恋文」という小説に由来し
映画化されてから渋谷で最も有名になった横丁です。
朝鮮戦争当時、英語のできない女性のために、アメリカ兵相手のラブレタ-を書く代書屋がありました。
昭和40年に焼け、今は渋谷109が建っていて、そこに碑があるそうです。
夜の繁華街の路地裏を一回りして、私たちは再び「渋谷駅」に戻りました。
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私は結婚してすぐから10年間、井の頭線の「三鷹台」に住んでいました。
小さな息子を連れて実家の横浜に行く時、必ず通った渋谷駅・・・
井の頭線から東横線への通路もホームも今は無くなり、思い出の風景が一つ消えましたね。
昨年3月、東京メトロ副都心線との相互直通運転開始に伴い、地下5階に移った東急東横線の渋谷駅。
地上の方向がさっぱりわからず、集合場所のハチ公前に行くにもウロウロしましたよ。
昭和30年前後には4年間、代官山駅近くの目黒区に住んでいた私
母に連れられて「東横デパート」(今の東急デパート)によく行きました。
渋谷は思い出深い街なのですが、すっかり変わってオノボリさん状態でした。
渋谷駅から先はお洒落な街、大人の街、青山&赤坂方面を目指します。
繁華街とは対照的な緑豊かな中を歩いて行くと、神社に出ました。
渋谷「金王八幡宮」
思いがけないくらいの立派な神社です。
仲間の皆とお賽銭を入れお参りしました。
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この八幡宮は八幡通り(旧鎌倉街道)、青山通り 宮益坂 道玄坂(旧大山街道)を中心とする
渋谷、青山の總鎮守として崇められているそうです。
この神社の詳しいことはこちらでどうぞ
「國學院大學」の食堂で昼食
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私は煮込み野菜が食べたくて、トロミのついたあんかけラーメンをいただき
9月に続いて今回も一緒に歩いたブログ仲間のうさきちさんは
一番人気のビーフシチューでした。
若い学生に混じって、ハイキング姿のシニアが20名あまり・・・
「何か催し物がありましたか?」と、食堂スタッフの方に問われましたよ
明治15年に創立したこの大学の母体は皇典講究所、初代学長は有栖川宮幟仁親王
神社の神主をやっている高校時代のクラスメートが、この大学出身だった事を思い出しました。
現代のモダンなキャンパスには、若い女子大生の姿が多く・・・
眩しい中でのランチタイムでした
今日は一日中雨の日曜日
そんな中で、夫の納骨式をとり行いました。
私はこの雨が、77歳まで生きたかった夫の悔し涙にも思えましたが・・・
息子に言わせると、孫のハー君のサッカーの試合が中止になるように
そして野球の公式戦を休んで参加してくれた、本家の甥の中学生の長男のためにも
試合が中止になるようにと、じぃじが示した心配りなのだそうです
この二ヶ月間、この日の事を考えどこか日常生活がうあの空だった私
落し物など、ポカばかりをやっていました
無事に終えてドッと疲れていますが、何故かまだ興奮状態・・・
いずれ記録のためにこのブログで、今日の様子をUPする予定ですが、
まずはご報告にて今回は終了といたします。
私は在職中によく東京出張しましたが、ほとんどホテルと出張先の往復でした。
またホテルから外に飲み歩くも好きではなかったので、余計東京の街は知らないことだらけです。
こういった記事を拝見しますと、ゆっくり街ぶらしたい気持ちになります。
昨日は納骨式だったそうですが、お疲れ様でした。
肩の荷が降りたのではないでしょうか。
私は自分や妻のお墓のことが少々気になっていますので、勉強させていただきたいです。
無事納骨式を終えられて良かったです。ここまでが大変な道のりでしたね。
さぞかしお疲れが出たことと思います。お大事に。
路地裏ブラ歩きは打って変わって渋谷方面でしたか。
通りは歩いているのに、なぜか神社を見過ごしていました。両方とも知りませんでした。
国学院大学がここにあるのですか。中高は井の頭沿線にありましたよね。
全く違った街に見えますね。
たまには懐かしい街を歩くのも良いものです。
低湿地から、現在の姿に変わる経緯等でしたね。
興味深かったです。
路地裏ブラ歩き、渋谷の変わり様には付いて行けません。
JR以外の乗り口は、迷路の様です。
あの金王坂の上りは、毎回苦労してます。
車ですけどね。
学食のラーメン、美味しそうですね。
無事納骨式が終わって、良かったですね。
雨ではありましたが、皆さま、故人さまを偲ぶことができたのではないでしょうか・・・
渋谷歩き・・・静かな所も多かったですね・・・
写真を見ていると私をはじめ知っている人も写っていて楽しめます・・・
拙い私のブログへのリンクも貼っていただきありがとうございます・・・
これはこれで新しい発見があり、同時に東京の歴史にも触れることができます。
ビルの谷間に神社やお寺がたくさんあることも知りました。
雨の中の「納骨式」となりましたが、お寺側が大きなパラソルのような傘を用意してくれて何とか濡れずに済みました。
鎌倉のお寺の小さな霊園ですが、緑豊かな所が気に入りました。
主人は好きな樹木が眺められる中で永遠の眠りに着きましたが・・・
「千の風」の詩でも歌われているように、風になって大空を舞っていると思っています。
雨が降っていましたが、幸い風が無かったので寒さはあまり感じませんでした。
昨年今年と喪服姿での集まりばかりで、次回はおめでたい席で会いたいという話になりました。
お寺との交渉やお食事処など私がすべてお膳立てして準備し、息子が会を仕切りました。
ホッとしたというよりも、今日は虚脱感に襲われ、身体がバリバリです。
雨で防犯パトロールが中止になったのが残念でした。
私も渋谷の大学は「青学」しか知りませんでしたが、モダンなキャンパスの「國學院」だったのでビックリでした。
どの街にも「神社」や「お寺」がある日本、宗教観が薄いと言われていますが、何の!何の!と思いますね。
東横線「渋谷駅」は地下5階で、ハチ公前に出るまで10分近く歩いた感じがしました。
恵那爺様は奥様と勝浦での「駅ハイ」・・・
夫の古希祝で白浜温泉で一泊した折、勝浦のビッグ・ひな祭りを観ました。
御宿~勝浦~白浜~館山と、綺麗な海を見ながらドライブしたのは2年前でした。
「東京路地裏・ブラ歩き」は極端な路地裏選択で面白いですね、前回の下町から今回は渋谷・青山~赤坂ですか。
渋谷は行く事は有っても街中を歩いたなんてもう何十年も前ですから、ほとんど判らなくなってるでしょうね。
昼食を「学食」でと言うのも面白い企画だと思いましたよ。
ご主人の納骨を終えられたのですね、無事納骨式を済まされ良かったですね。
「雨」はご主人の「悔し涙」と言うより息子さんのおっしゃる通りご主人の心配りだと思いますが。
その名の通り昔は谷だったようで、坂道が多い街です。
駅前もまた大きな再開発をしています。
数年後にはまた大きく変わることと思います。
ご主人の納骨、無事に終わりましたか?
きっとこれからも元気であちこちと飛び跳ねるnao♪さんの
ことを空の上から温かく見守っていることでしょう。
また新しい一歩を踏み出してください。